028 手紙(3)
小屋に帰り着いたのは正午だった。入口の黒い鉄扉の横、庇がつくる狭い陰の中に、ぼうっとした表情のペーターが立っていた。
「――こっちに来てたのか」
虚空を覗くような二つの瞳が俺に向けられた。焦点があっていない。よく見慣れた、役から抜けきれていないときの目だった。待っている時間でイメージトレーニングでもしていたのだろう。一人稽古でさえ『こうなれる』彼女を以前は羨望の眼差しで見つめたものだが、疲労のためか――それとも今しがた目にしたばかりの異様な出来事のせいか、今日の俺の胸にそうした気持ちは湧いてこなかった。
それでも彼女がまだ『こちら側の世界』にいるのを確認できたことに安心した。何となくペーターは大丈夫だと思っていたが、実際にその姿を目にしたことで、朝からずっと重苦しかった心が少しだけ軽くなるのがわかった。
「ごめんな……朝練出られなくて。あれからまた色々あったんだ。昨日ペーターが帰ってから」
ジーンズのポケットから鍵を取り出して南京錠を外した。扉を開けたホールにはひんやりした空気と、幾分青みがかった濃い暗闇が満ちていた。
「そうだ。朝練にキリコさん来てた?」
先にホールに入った俺はまだ外にいるペーターに問いかけた。返事はなかった。その沈黙がすべてを物語っている気がした。つまり――そういうことだ。
「……まあそんな気はしてたけどな。携帯にかけても繋がらないし。ということはそうか……今朝はペーターだけだったのか」
階段の前まで来て振り返ったが、ペーターはまだ外にいるようだった。呼びかけようと口を開きかけたところで、入口から射しこむ光を遮って少女の影が立った。けれどもそこに棒立ちしたまま、ペーターはいつまで経ってもホールに入って来ない。
「ペーター?」
返事はなかった。逆光の中に彼女の表情はまったく見えなかった。様子がおかしいことにようやく気づいた俺は、階段の一段目に載せていた足をそちらに向けた。
「……?」
近づくにつれ朧気に見えてくるペーターの顔は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。だがすぐ傍まで近づいて、その印象が間違いであったことを知った。彼女の表情には色がなかった。さっき小屋の外で目にしたものと同じ、何かに憑かれたような表情のままだった。茫漠とした瞳が、ゆっくりとこちらに向けられるのを見た。
「なあ、いったいどう――」
ぴしゃり、と乾いた音がホールに木霊した。思わず頬に手をあてていた。少し遅れてじんじんとした痛みが手の下に起こった。俺はそれでようやく自分がひっぱたかれたのだとわかった。
気がつけばペーターは見たこともないほどきつい目で俺を睨んでいた。その身体は何かに怯えるように小刻みに震えていた。
「よく……そんな……へ……平気な顔。どんなに……心配……私が」
呆然と立ち尽くす俺の前で、ペーターの顔がみるみる崩れていった。大粒の涙が彼女の頬をぼろぼろとこぼれ落ちた。
「うわあああっ……!」
俺の胸に掴みかかってくるなりペーターは大声で泣き始めた。襟首が伸びるほど強く俺のシャツを掴み、激しく身体を震わせて子供のように慟哭した。そこで初めて、俺はまた彼女につらい仕打ちをしてしまったのだということを理解した。
ペーターはいつまでも泣き止まなかった。ぎこちなく背にまわした腕に力をこめられないまま、俺はしばらく抱き締めるともなく、その華奢な身体を抱き締めていた。
◇ ◇ ◇
どうにか落ち着いた彼女を舞台に座らせたのは三十分以上あとだった。それからもペーターは嗚咽を続け、俺はその隣でじっと彼女が泣き止むのを待った。
待つ以外に何もできなかった。何もできず座ったまま、横目にペーターの泣き顔を眺めていた。もうずいぶん長くつきあってきたが、彼女がこんなに感情を露わにするのを見たのは初めてだった。泣くこと自体は珍しくないし、どちらかといえば感情を表に出す方ではある。けれどもこういう『まともな形』でペーターが爆発したことはなかった。慟哭を目にするのも初めてなら、ひっぱたかれたのも初めてだった。……劇の中を別にすれば、彼女の身体を抱き締めたのもこれが初めてだった。
「……ごめんなさい」
やがて消え入るような声でペーターはそう呟いた。何について謝っているのかわからず、うまく返事を返せなかった。それをどうとったのか、彼女はまた泣きそうな顔をして謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめんなさい……こんなに泣いちゃって……私。それに……先輩の顔……た、叩いて」
「もう泣くな。わかったから」
そう言って俺はペーターの頭を掻きまわした。目に溜まって今にもこぼれ落ちようとしていた涙は、それでどうにか元の場所に戻っていった。
「謝るのはこっちだ。俺が悪かった。本当だったらおまえに真っ先に連絡すべきだったのに、心配かけた」
「……本当に心配したんですから、私」
「ああ……ごめん」
「朝練には来ないし、どこ探してもいないし、家の前で待っててもいつまで経っても来ないし」
「だから悪かったって。謝るよ」
「これでもう一人になっちゃったんだ、って思いました。もう先輩もいなくなって、私だけになっちゃったんだ、って」
うつむき加減にそう言うペーターに、ずきりと胸が痛んだ。今朝の交流会館前での感傷が反射的に心に蘇った。あのとき俺が感じていた思いを、この町のどこかでペーターも同じように感じていた。それがはっきりとわかって、共感や同情より先に、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「本当にごめん。ひっぱたかれて当然だよな」
「いえ……あれはまた別です」
「……? どういうことだ?」
「別の理由だってことです、先輩を叩いたりしたのは。だから私にも謝る理由はあるんです」
「……よくわからないけど、おあいこってことでいいだろ、それなら。……まあ正直、ペーターにひっぱたかれる日が来るとは思ってもみなかったけどな」
他意のない率直な感想だった。だがペーターはなぜか一瞬嬉しそうな表情をつくり、それから赤くなって恥ずかしそうに目を伏せた。
「……私も、先輩を叩く日が来るなんて思ってもみませんでした」
意味不明の反応にこちらも微妙な気分になってしまい、不自然に彼女から視線を外した。……最近はどうもペーターと話していて調子が狂うことが多い。この切迫した状況がそうさせているのだとわかってはいるが、舞台が無事に終わるまでにあと何回こんな気持ちにさせられるのか、そう考えて妙に空寒い思いがした。
それから俺は昨日の朝二人を前にそうしたように、昨夜に経験した不可解な出来事をペーターに話した。
「アイネさんが……先輩を撃ったんですか?」
「振り向きざまの一発で、しかも完全な急所だったからな。凄い腕前だよあいつ」
「急所って……命に関わるところですよね? たしか」
「その通りだ。肝臓を撃ち抜かれてたから病院行っても助からなかったと思う」
「なに他人事みたいに言ってるんです……助からないって。それなら先輩、もう冷たくなってるはずじゃないですか」
「ああ、死んだよ」
「え……」
「思い返すのもぞっとするけど、俺はたしかにあそこで死んだ。薄暗い裏通りで雨に濡れながら、身体からどんどん血がなくなってくのがわかった。立ち上がろうとしても力が入らなくて、そのうち視界もぼやけてきて、俺はこれで死ぬんだな、って実感があった」
「……」
「あとはもう真っ暗だった。底のない淵にどこまでも落ちていくみたいな、ぞっとするほど頼りない感覚だった。最後は何も考えられなくなって、恐怖とか絶望とかそういう感情も消えて……そこからは覚えていない。あれで俺は死んだんだと思う」
「じゃあ……今いる先輩は亡霊ですか?」
「わからない。ひょっとしたらそうかも」
「……でも、亡霊だったら触ったりできないと思うんですけど」
「そうだな。ひっぱたいたりもできないだろう」
「……そうですね」
「俺はあそこで死んだから、常識で考えればここにいる俺は亡霊か何かだということになる。亡霊の存在を常識と考えればの話だけど」
「はい、そうなります」
「けど俺はこうしてここにいる。触ることもできればひっぱたくこともできる。要するに常識の方が間違ってた、ってことだ。そう考えるしかない」
「……? よくわかりません。どういうことですか?」
「似たようなことがあっただろ、火曜日に」
「……? あ! たしかにありました」
「続いてるんだよ、あれから。ペーターに撃たれて、アイネに撃たれて。……撃たれるのはなぜか俺ばっかりなんだけどな」
昨夜のことを話し終えたあと、朝起きてからのことも残らず話した。通りを歩く中で感じた強い乖離の感覚のことも、誰もいない交流会館の前で二人の携帯に電話をかけたことも全部。庭園で隊長の妹に会ったことも話した。もっとも、あの銃のことだけは話さなかった。これ以上ペーターを混乱させても仕方がないし、何となく彼女には関係ない話だと思ったからだ。自分に向けて撃てと言って彼女が手渡してくれた銃は、今もジーンズのポケットに無造作につっこまれたままだった。
「――いずれにしろ、これでキリコさんもいなくなった」
長い話の終わりに俺は大きく一つ溜息をついた。
「そうなんですか?」
「俺はそう思う。今までの流れからして」
「……そうですね。そうかも知れません」
「もう何でもありだな。悪い夢でも見てるみたいだ。いったいこんなんでどうやって――」
『舞台』という言葉が飛び出しそうになるのを寸前で呑みこんだ。……そこで俺はさっきまでの話の中で、その言葉を口にすることをずっと避けていたことに気づいた。無意識のうちにそうしていた。……理由は言うまでもない。キリコさんもいなくなってしまったのだ。自力で舞台を成功に導く線は完全に断たれた。これでもまだ事態を楽観できる人間がいるとしたら、それは救いようのないばかだ。
「大丈夫です」
「ん?」
「大丈夫ですよ、先輩」
「何が?」
「舞台に決まってるじゃないですか。大丈夫ですよ。きっとうまくいきますから」
ペーターはそう言って笑って見せた。……救いようのないばかがここにいた。
「……どうしてそう思うんだ?」
「さあ、どうしてでしょう」
そんな曖昧な返事のあとにペーターはまた笑った。どうして彼女がそんな風に笑えるのかわからなかった。
「俺もそんな風に気安く考えられればいいんだけどな」
「気安く考えればいいじゃないですか。悩んだってどうにもなりませんよ。これから舞台の仕込みですよね? 大道具の搬入はもう終わってますし、照明の指示なんかも先輩ならできますよ。何の問題もないじゃないですか」
「あのな。仕込みがうまくいったって……」
さっきと同じように言葉に詰まった。憂いの欠片もないペーターの表情が目の前にあった。けれども俺にはそんな彼女を笑い飛ばすことはできなかった。
「……そうだな。悩んでも仕方ないよな」
「『悩んでどうにかなる問題なら動きながら悩め、どうにもならない問題なら悩まずに動け』」
「何だ……それは?」
「先輩の言葉じゃないですか。もうずっと前に先輩からそう教えられましたよ、私」
「言ったか? そんなこと」
「はい、高校の頃に。ちゃんと日記にも書いてありますから。間違いありません」
「……そんなもの日記に書くなよな」
「私の日記は、高校時代の先輩語録という呼び方もできます」
「……それはいつか焼いてしまわないと駄目だな」
「なに言ってるんですか。いくら先輩でも許しませんよ、そんなことは」
会話はいつの間にか軽いものに変わっていた。そんな気安いやりとりを続けながら俺は、何となく霧が晴れたと思った。ペーターの言う通りだった。悩んでどうにもならないなら、今できることをするしかないのだ。そんな簡単なことを今まで忘れていた。そして……たった一人残った仲間が、そのことを思い出させてくれた。
改めてペーターを見つめた。会わなかった一年間にどんな日々を過ごしていたのかわからない。だがその間にこいつは信じられないほど強くなった。こんな絶望的な状況なのに、こんな的確なフォローができるほど大したやつになっていた。
時計に目を遣った。仕込みのために会場に向かう時間が迫っていた。俺はもう一度ペーターに目を戻した。
「行きましょう、先輩」
「ああ、行こう」
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