029 手紙(4)

 俺たちが『あおぞらホール』に着いたのは午後三時半だった。事務の方に簡単な挨拶を済ませて鍵を貸してもらい早々にホールに入った。


 非常口の照明に淡く照らし出されるホールが俺たちを迎えた。キャパ百人足らずの狭いホール。だがその狭さゆえに観客との距離が近く、毎月赤字が出るという破格の料金もあって、界隈で活動する小規模の劇団の間ではちょっとしたメッカになっている。


 今回の舞台のために三ヶ月前徹夜で待ったのは俺だった。隊長とキリコさんを送り出すため、そしてペーターを迎えるための節目となる舞台だった。どんなことがあっても成功させようと全員でひたむきにとり組んできた舞台だった。……そのはずだった。


 『あおぞらホール』には小屋付きの職人がいない。だから使用できるのは照明のセッティングから音響の調整まですべて自分たちでまかなうことができる劇団に限られる。その点、うちにはDJがいる。裏方を交えてのリハーサルが明日に予定されているが、DJだけは今日の仕込みにも来てもらうことになっている。


 仕込みと言ってもやることはそれほど多くない。舞台は地ガスリを敷かない板目のままで本番に臨むし、即興劇の場ミリなどたかが知れている。建て込みの必要な本格的な装置もない。『ヒステリカ』の舞台で気を遣わなくてはならないのは照明と音響くらいで、つまり今日の仕込みはDJの仕事のために用意されたものと言っていい。


 小道具を上手、下手に振り分けてしまったあと、俺はペーターを連れて舞台裏から奈落までを一通りまわった。去年のちょうど今頃、アイネと二人でキリコさんに引き回されて同じ道順をまわったことを思い出した。それも終わってしまうと、舞台の上に『虎の巻』を広げてDJの到着を待った。


「いよう、もう準備は万全かい? お二人さん」


 ホールにDJが入ってきたのは約束の時間ぎりぎりだった。遅刻ではないにしろ、いつも三十分前には来て無駄口を叩くのが決まりのDJにしては珍しくゆっくりの登場だった。それが理由で俺は待つ間、何度か考えたくないことを考えた。その恨みもあって、思っていることがつい口をついて出た。


「珍しく時間厳守だな。来ないのかと思ったぞ」


「いやすまん。もう少し早く来る予定だったんだがな、ちょっと仕事の方でトラブルがあったんだよ」


 DJはそのまま調光室へのぼっていく。前回も前々回もここでやって、DJはその度にオペレーションと音響を勤めていたからもう慣れたものだ。


「まだかかりそうだったんで、爺さんが死にそうだって言って抜け出してきた」


「おまえな。そんな縁起でもないこと言って、本当になったらどうするんだ」


「なに心配いらない。父方も母方もとっくの昔に死んでる」


「ああ、そう」


 調光室の窓からDJが首を出した。こちらに顔を向けて得意そうに笑って見せる。そのいつもの調子に当初の不安はあとかたなく消えた。同時に胸の奥に湧き起こってくる高揚があった。昔から俺は照明を仕込むこの時間が好きだった。舞台に向かう本来の気持ちを実に久し振りに感じて、今日の仕込みはきっといいものになると心の中で確信した。――その矢先だった。


「で、御大と綺麗所二人はどこにいるんだ?」


 全身に冷や水を浴びせかけられた思いがした。盛り上がっていた気持ちが、一気に地の底まで落ちこんだ。


「ああ……ちょっとな」


「なんだよ。買い出しに出てるとか、そんなところか?」


「……そんなところだ」


 誘導されるままに俺は嘘を言った。そうするしかなかった。「仕方ねえなあ」と言って機材をいじり始めるDJの姿を眺めながら、自分の迂闊さに歯噛みする思いだった。……あれだけ時間があったのに、一番大切なDJへの説明をまったく考えていなかった。


 DJは何も知らないのだ。この間話したラジオの話を別にすれば一連のおかしな出来事を何も知らない。何より三人が相次いで姿を消し、『ヒステリカ』にはもう俺たち二人しか残っていないことを知らない。


 今からでも遅くない。明日のこともある、DJには説明しなければならない。そう思い、逡巡の中に口を開きかけたところで、頭上から脳天気そのものの声が降ってきた。


「さあて! そういうことなら頼むぜ隊長代理。まずはサスの吊し上げからだ」


 肝心の話を切り出せないままに仕込みは始まった。照明バトンが降ろされ、サスの移動とフォーカス合わせがあってまた引き上げられた。それから向きの修正。棒でサスをこづきまわす役は俺が勤めた。ペーターは客席で照明の見え方を指摘する役にまわった。三番のサスがどうしても決まらず、もう一度照明バトンを降ろして位置を調整した。サスはそれでおよそ形になった。


 そのまま各場面の効果の確認に入った。今度はペーターが舞台上に立ち、それを俺が客席から眺めてDJに指示を出した。


「これじゃ能率悪いだろ、連中はいつ帰ってくるんだ?」


 初めにその質問が降ってきたとき、俺はDJに本当のことを伝えるために口を開きかけた。けれども言葉は出てこなかった。話さなければならない荒唐無稽な物語と、我々が今行っている実直そのものの作業との間に立ち塞がる断崖が俺の舌を麻痺させた。


 それきりDJは三人について聞いてこなくなり、必要なこと以外の口数も少しずつ減っていった。次第に重苦しくなっていく空気の中、それでも確認は進んでいった。だが半ばに差しかかったあたりで、DJは突然舞台の照明を落とし、調光室から降りてきた。


「……どうしたんだ?」


「帰るわ。あとは適当にやってくれ」


「な……」


 DJは無表情でそう言うと、出口に向かい通路をのぼっていく。


「ま……待てよ」


「ああ!? 待てだ!? 待て待てって、さっきからいつまで待たせりゃ気が済むんだ!」


 怒りの形相でDJが振り向いた。その表情に戦慄を覚えた。目の前に立つ男が真剣に怒っていることがはっきりとわかった。


「さっきから歯切れの悪いことばっか言いやがって。三人は来るのか? 来ねえのか?」


「……それは」


「はっきりしろ! どっちなんだ!」


「……隊長たちは来ない」


 へっ、と軽薄に息を吐いたあと、DJは脚に勢いをつけて客席に蹴りを入れた。椅子が壊れるような大きな音がして、背後から小さな悲鳴があがった。憤懣に満ちた目でDJは俺を睨みつけた。


「本当ならてめえも殴ってやりたいところだがな。舞台前だ、勘弁してやるよ」


「……話を聞いてくれ。最初に話そうと思っていたんだ」


「聞きたくもねえな、そんな話は」


「複雑な事情があるんだ。実は――」


「聞きたくねえって言ってんだろ! そんな話は!」


 DJの怒号がホールの空気を震わせた。その剣幕に足下が揺らぐほどの衝撃を感じた。陽気で温厚な顔しか知らなかった友だちが怒り狂う姿を見るのが苦しかった。それでも俺は両の拳をぎゅっと握りしめてDJを見据えた。


「お願いだ聞いてくれ。明日のことだってある、明後日のことも」


「はあ? ばか言うなよ。おれはもうご免だ。誰か別のやつに頼むんだな」


「お……おまえ。そんなこと無理に決まってるだろ。言ってることわかってるのか」


「言ってることわかってるかだ!? おまえこそ自分たちのやってることわかってるのか!? 舐めた真似してんじゃねえよ! おれだって暇じゃねえんだ!」


 DJの脚がまた客席を打った。その一蹴り毎に、俺は自分の心が軋むのを感じた。打たれているのは俺の心だった。……いっそ実際に殴りつけてほしいと思った。


「……私情は挟まないつもりだったけどな、さっき言っただろ、会社でトラブルがあったって。深刻なトラブルだったんだよ! 総掛かりで当たらなきゃ駄目なレベルのな! だがおれはおまえらを優先してこっちに来た。首切られる覚悟決めてな……」


 そこまで言ったところでDJはつかつかと俺に歩み寄ってきた。胸ぐらを掴み、俺の身体を半分持ちあげた。


「それなのになんだこのザマは! 頭数の半分も揃ってねえじゃねえか! 全員いねえと仕込みの意味がねえことくらい、おまえらが一番よく知ってるだろうが!」


「やめてください……やめて」


 目にいっぱいの涙を溜めたペーターが腕に縋りついてDJを止めた。DJは突き飛ばすように俺の身体を離し、幾分冷めた表情でまた俺を睨んだ。


「……おまえらが真剣だったからおれだって真剣につきあってきたんだ。こんな仕打ち受けてまで続けようとは思わねえ。連中が戻ってきたら適当に言っといてくれ。あともう二度と声かけねえでくれって……御大にそうよろしくな」


 最後に少しだけ寂しそうな表情をつくったあと、DJは出口に向かい踵を返した。


「話を聞いてくれ! お願いだ頼む!」


「聞きたかねえよ。何度も言わせるな。舞台の掟くらい知ってるんだろ? 裏で何やってようが表に出るものがすべてだ。部外者呼びつけて中途半端な仕込みごっこにつきあわせる。おまえらのやってることは所詮その程度のものだったってことだ。まったく……おれももっと早くに気づいてりゃあな」


 その刹那、俺の心に激しい怒りの炎が燃えあがった。俺たちがどれだけ苦しい思いをしてきたかこいつは知らない。壊れそうな心を引きずってどうにかここまで辿り着いたことをこいつは知らない。それなのに話も聞かず、悪態だけ残してこいつは去っていこうとしている。


 急速に頭の中が白くなっていくのがわかった。消え入る寸前の理性で、これですべてが終わったと思った。通路を駆けあがり、その背中に殴りかかろうと一歩を踏み出しかけた――


 そのとき。俺の手に優しく触れてくるものがあった。隣を見た。不安をいっぱいに湛えた目で訴えかけてくるペーターの顔がそこにあった。


「……」


 柔らかく冷たい手が俺の手を握っていた。そっと重ねられただけのその手から何かが伝わり、浸みこんでくる気がした。その何かが……俺の心の中で燃えさかっていた黒い炎を消してくれた。俺はペーターを見た。そして小さく一つ頷いたあと、通路を行くDJの背中をさっきとは違う心で仰いだ。


「……DJ!」


 精一杯の声を絞って呼びかけ、俺はその場に膝をつき額を通路に擦りつけた。扉の開く音はしない。頭をあげないまま俺は、ありったけの思いをこめて言葉を紡いだ。


「この通りだ……頼む。わかってもらえないかも知れないが、俺たちは今も真剣だ。おかしなことばかり起こって……隊長たちがいなくなって……。それでも俺たちは血を吐くような思いで舞台に臨んでいる。安く聞こえるだろうが命、懸けてる……本当に命、懸けてるんだ」


 DJの反応はない。だが扉の開く音も聞こえない。俺は一層低く這いつくばり、床を舐めるようにして弁明を続けた。


「三人は消えた。俺たちの目の前から消えちまった……。何が起こってるんだかわからない……俺にはもうどうしていいかわからない! わからないけど……舞台を諦めることだけはできないんだ! 気が狂ったって思われてもいい……友だちの縁、切られてもいい。だからどうか……どうか今回の舞台だけは、最後までつきあってくれ!」


 奥歯を噛みしめ、全身に力をこめて振り向いてくれと願った。高い耳鳴りがすべての音を掻き消していった。ふと、履き古された革靴が目に留まった。「そこどけ」とぶっきらぼうな声が上から降ってきた。


「……DJ」


「どけって言ってんだろ。通れねえ」


「許して……くれるのか」


「ああ? 許さねえ。許さねえよ……けどな」


 頭をあげ身体をずらした俺の脇を、苛立たしげな表情でDJは通過していった。


「身内の前で土下座してる男もっと下げさせるほど、冷たい血に生まれついちゃいねえんだ、おれは」


「DJ……!」


「いずれにしろ舞台に一人じゃ埒が明かねえ! 二人とも上がってくれ。効果のタイミング合わせに絞っていくぜ。これでも腑抜けたことしてやがったら承知しねえからな!」


 確認は再開された。指示に従って二人とも舞台に立ち、各場面毎に役を入れかえて二人四役を演じた。息詰まる張りつめた空気には違いなかった。だが今度はその空気が苦痛ではなかった。DJの気持ちに応えるために俺は――俺たちは文字通り必死になって演技をした。


 ペーターの動きもよかった。型にはまった演技を苦手とする彼女がアイネやキリコさんの役を忠実にこなしているのを見て、こいつは本当に成長したと思った。……そして何より、あそこでペーターが俺を止めてくれたことを心から感謝した。あれがなかったら今のこの時間はなかった。激情にまかせてすべてを台無しにしようとした恥ずかしさを堪えて、彼女の真剣な眼差しを真っ向から受けとめた。


 確認は粛々と進行した。それでも交わされるべき会話は活発に交わされ、遠慮や萎縮といったものはなかった。あんなことのあとで俺の方にはさすがに逡巡があったが、DJの言う『真剣』という言葉の意味を考え、その逡巡を振り切った。のっけから盛んに捲し立ててくれたDJの気持ちを酌んだ結果でもあった。時おり足踏みすることはあっても、確認は一貫して滞りなく順調に進んでいった。


 それは静謐な時間だった。必要最小限の会話と無機的な効果音が交互に響く他、ホールに音らしい音はなかった。照明の落とされた客席には冷淡な薄闇が横たわり、沈黙のうちに俺たちの作業の一部始終を眺めていた。そんな静謐の中に俺たちは懸命にそれぞれの役割を果たし、やがて確認は最後のシーンを残すのみとなった。


「――あとは二番サスのフェイドアウトだな。十秒ってことだが、ここもっと長くした方がいいんじゃないか?」


「いや、最初は十秒でやってみてくれ。余韻はほしいんだが、暗転に時間がとりたいんだ。たぶんここのあとにさっきの場面が繋がるから」


「ああ、あれか。で、『子供の笑い声』はサスが落ちきってからフェイドアウトで、さらに十秒ってことでいいんだな?」


「ああ、それでいい」


 DJは頷いて窓から頭をひっこめた。それを見てこちらが位置につこうとしたところで、「おい、命懸け野郎」とぶっきらぼうな声が降ってきた。


「……何だ?」


 言葉の意味を考えてさすがにむっとしたが返事をしないわけにはいなかなった。そんな俺を見て、DJはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「命懸けの演技がそれか? って言ってやろうと思ってたけどよ、まあそれなりに見られたもんにはなってたから今回は勘弁してやらあ」


 その言葉が何を意図したものかすぐにわかった。内心の安堵を心の奥に隠し、俺はその筋書きにのるための台詞を考えた。


「それなりに見られたもん、とか言うわりにはずいぶん長くつきあってくれたな。すぐ帰るんじゃなかったのか?」


「すぐ帰るさ。ここの確認終わらせたらな。早く帰りてえから一発で決めてみせろ。そしたらおまえのその命懸けって言葉がダテじゃなかったこと認めて、帰り道でそのおかしな話ってやつを根ほり葉ほり聞いてやるよ」


 軽薄な笑みを残してDJの頭が窓から消えた。俺も同じように笑いながら、ふとペーターに目を遣った。何もかも理解したような微笑を彼女も浮かべていた。俺はもう一度笑って――表情を引き締めた。立ち位置についてペーターが袖にいることを確認した。「立ち位置につきました」とDJに始まりの合図を投げかけた。


 二番サスを残して舞台の照明が消えた。簡単に独白を流したあと、きっかけとなる台詞を客席の闇に向け告げた。


「子供たちの笑い声が聞こえる。だがこの幼気な声に、妙な胸騒ぎがするのはなぜだろう……」


 サスのフェイドアウトが始まる。『子供の笑い声』を聞きながら頭の中で十秒数える。照明が落ちきったところで下手袖に退場する。耳障りな哄笑がゆっくりと消えていく。


 黒々とした闇の中に舞台は沈んだ。笑い声は消え、周囲には物音一つしない。――これですべて終わった。確認すべきことは残らず確認した。


「おい、俺の言葉がダテじゃなかったって認めたか?」


 調光室に向け声をかけた。機材の淡い明かりが漏れる窓からDJの頭が突き出される様子が目に見えるようだった。……けれどもそれは見えなかった。DJの返事はなく、舞台はいつまで経っても真っ暗だった。


「DJ?」


 もう一度呼びかけても反応はなかった。「先輩」と呟く声が隣から聞こえた。不安そうなペーターの顔が闇の中に浮かんだ。


「待ってろ」


 言い残して俺は調光室に向かった。ブラックライトに照らされる階段を上り、扉を開けた。……そこにDJはいなかった。薄緑の液晶パネルが幾つもの数字を明滅させていた。広げられたままのキューシートがその明かりを受け虚ろに光っていた。けれどもそこには誰もいなかった。さっきまでたしかにそこいた――今もいるはずの男はどこにもいなかった。


「……もう勘弁してくれよ」


 溜息混じりにそう吐き捨てて階段を降りた。そのまま奈落を通り、舞台裏をまわった。ホールを出てロビーからトイレから、目につくところを端からあたり……そしてまた俺は舞台に戻った。


 照明の落ちたままの舞台にペーターはぽつんと立っていた。傍まで近づいて――かける言葉が見つからなかった。彼女さえいなければ、俺はこの場に崩れ落ち泣いているだろうと思った。


「……出ましょう」


 慈しむような声だった。落ち着き払った一対の瞳がじっと俺を見守っていた。


「もう出ましょう、先輩。今日ここでやるべきことは、すべてやり終えました――」

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