030 手紙(5)

 小屋に帰り着いたあと、食欲がないという俺の拒絶を押し切るかたちでペーターは夕食を作ってくれた。マカロニと玉葱をツナマヨネーズであえたサラダが主体の簡単な食事だったが、俺はほとんど食べられなかった。そのことを謝ると、ペーターは何も言わず食べかけの皿をキッチンにさげ、そのあとで食後の紅茶を淹れてくれた。


 食事の間、俺たちに会話らしい会話はなかった。二言、三言続いては途切れる、そんな短いやりとりが数えるほどあっただけだった。それでもペーターはいつものように――いや、いつも以上に甲斐甲斐しく立ち振る舞っていた。


 事務に鍵を返却して会場から俺を連れだしたのは彼女だった。何も考えられない俺の手を引くようにして小屋まで同行してくれたのは彼女だった。帰り着くなり電話帳を開いてDJに連絡をとろうとしたのは彼女だった。未だに立ち直れないでいる俺に、こうして何かれと尽くしてくれるのも彼女だった……。


「どうしてだ」


「え?」


「どうしてそんなに平然としていられるんだ」


「平然としてますか? 私」


「俺にはそう見える」


「そんなことないですよ。私だって混乱してます。でもそう見えるなら、それはたぶん、先輩ほど責任を感じていないからだと思います。今回の舞台について」


 そう言ってペーターは申し訳なさそうな表情を浮かべた。俺は机に片肘をついてぼんやりとその顔を眺めた。ペーターは最初のうち俺の目を気にしているようだったが、そのうち彼女の方でも同じように視線を向けてきた。


「いつからそんなに強くなった」


「誰のことですか?」


「決まってるだろ」


「私ですか? 強くなんてなってませんよ? 私」


「……おまえは強くなった。信じられないくらい」


 たしかに立場は違う。俺は舞台が跳ねると同時に隊長を襲名することが内定している身で、彼女はまだ団員としての舞台を一度も踏んでいない新人ではある。けれども舞台に懸ける思いにそう違いがあるとは思えない。


 即興劇団『ヒステリカ』の一員としての初舞台。そのために彼女がどれだけの努力を重ねてきたか、俺はよく知っている。高校の頃そうだったように、ペーターは他の誰よりもひたむきに練習していた。舞台に懸ける思いが軽いはずはない。そんな彼女が、この混沌を極めた状況で落ち着き払っていられる理由が俺にはわからなかった。


「先輩がいるからですよ」


「――え?」


「高校の頃からそうだったじゃないですか。どんな難しいことになっても、先輩がいつだってどうにかしてくれました」


「……」


「覚えてますか? 二年前の舞台」


「……『車中の人々』か」


「はい。もう駄目だ、って何回も思いましたよ、あのときも。でも先輩の演出があの舞台を成功に導いて、それでアイネさんたちにも勝てたんじゃないですか」


 ――ペーターが言っていることは見当違いだった。あのときと今とでは問題がまるで違う。二年前の舞台で俺たちが直面したのは、前衛に染まりきっていた劇団で古典を演じるという、言ってみれば演劇の本質に関わる問題だった。それはそれで難問に違いなかったが、まだしも俺は考えることができた。……ここにある問題は違う。今は考えることが何の意味もなさない。だから闇雲に足掻くことしかできないし、それが成功に結びつく保証はどこにもない。


「先輩がいるから、私はいつだって安心していられるんです。この舞台だってきっと成功するって、そう信じてます」


 今回のことは俺の手に余る。灼けつくような悔しさを感じながらそう思った。俺は神でも悪魔でもない。幻想の目で見られても期待には応えられない。声に出してそう言いたかった。……だが言えなかった。


 唇から出る言葉が嘘や慰めでないことを、ペーターの眼差しが物語っていた。そもそも彼女はこういう場面で思ってもいないことを口にする人間ではない。その言葉通り、ペーターは俺を信頼してくれている。こんな現状でも、俺がいるから舞台は成功すると、心からそう信じきっている。


 彼女の言う高校最後の夏の舞台を思い出した。あのときもそうだった。それまでのやり方を大きく変える俺の演出に多くの部員が反発し、演劇部は崩壊寸前にまでなった。その中でただ一人ペーターだけは一言の文句も口にせず、最初から最後まで俺を励まし続けてくれた。


 俺はそんな彼女の態度を受け流していた。そればかりか媚びとしてとらえ、嫌悪さえ感じていた。そう思っていた。――けれども違っていた。それはきっと違っていた。俺はペーターの信頼に支えられていた。心のどこかで彼女の言葉を嬉しく思い、それに応えようと頑張ってきた。ペーターがいたから俺は頑張れた。努力だけではどうしようもない難題に直面して……本当に今さらになって、それがよくわかった。


「そうだな。あのときと同じだ」


 あのときとは違う。そう思いながらも俺は敢えてそう言葉にした。今は努力のしようがない。だがたとえ努力のしようはなくても、信頼してくれる仲間を置き去りにして舞台から降りることはできない。俺はペーターの気持ちに応えたいと思った。そう思って……消えかけていた希望にまた小さな火が灯るのを感じた。


「そういえば『成功するんじゃない、させるんだ』とか、そんなことも言ってたか」


「はい、言ってましたよ。ちゃんと日記にも書いてあります」


「その日記はいつか焼くとして……そうだな。舞台はどうあっても成功させる。たとえ石に齧りついてでも」


「そうです、どうあっても成功させないと。……まあ、日記はどうあっても焼かせませんが」


 そう言ってペーターはくすくすと笑った。


 ――俺はこいつのことが好きだ、と思った。


 三年前に出会ってから初めて、はっきりペーターを愛しいと感じた。彼女が傍にいてくれればどんな未来さえ乗り越えていけると思った。


 それはまるで熟した果実がひとりでに落ちるように、ごく自然に心に湧き起こった感情だった。それが理由で、何の戸惑いもなく俺はその感情を受け容れた。心境の変化に気づかなかったのだろう、ペーターは表情を変えることなく俺を見守っていた。けれども俺の目に映る彼女は、もうさっきまでの彼女ではなかった。さっきまでとはまるで違う、新しい彼女だった。


 ……聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。開け放たれた窓のすぐ下にその音は停まった。もう何度も繰り返し耳にしてきた別れの合図だった。その合図を聞いていつもそうするように、ペーターは縋るような目でじっと俺の顔を見つめた。


 帰したくないと思った。このまま彼女を帰さないで、ずっと一緒にいたいと思った。今ここでそう告げて、今まで冷たくしてきたことを謝り、それでペーターが許してくれるのなら朝まで離れたくないと思った。……それでも俺は窓の外に視線を移して、律儀に帽子を脱いで立つ運転手の姿を認めた。


「オハラさんが来たぞ」


 呟いてペーターに視線を戻した。いつも通りすぐには席を立とうとしない。そんな彼女の姿が、今夜ばかりは俺の胸を酷くかき乱した。


「明日の朝は、ちゃんと来てくれますか?」


「え?」


「朝練です。来てくれるって約束してください。そうしたら帰ります」


「……ああ、もちろん行く。約束する」


 一瞬の躊躇があって、俺はそう答えた。その返事を聞いてペーターは静かに席を立ち、一礼して階段をおりていった。慇懃に頭をさげる運転手と、言葉もなく後部座席に乗りこむ少女の姿が見えた。ややあって、黒塗りの外国車は夜のしじまに吸いこまれるように消えていった。

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