031 手紙(6)

 それから俺はしばらく動けなかった。温かく切ない気持ちのまま、向かいの席に座る少女の残像を眺めていた。だがやがて大きく溜息をついてその余韻から逃れた。気持ちを切り換えるためテーブルの上に残っていたものを片づけ、開け放たれていた窓を閉めた。


 そこでふと、机の引き出しが目に留まった。その中にしまいこんだままになっている手紙を思った。引き寄せられるように近づいて引き出しを開け、細々したものの下から封筒の束を取り出した。色気の欠片もない白い封筒。四月の消印が押された一通の封を、中身を切らないように慎重に鋏で開けた。


『拝啓 春とは名ばかりの寒い日が続きます。お元気でしょうか。


 先輩が卒業されて、早一ヶ月が経とうとしています。そのあいだ、何度か手紙を書こうと筆を起こしたのですが、うまく書けなくて今日までかかってしまいました。今まであまり手紙を書いてこなかったので、決まりごとを覚えるところからはじめなければいけなくて、この手紙も書き方の本を睨みながら書きました。そうしていざ書きはじめてみれば、思ったことの半分も書けず、手紙というものの奥深さを知らされました。


 高校では例年通り、部活の新歓活動がたけなわです。今年は文化系ではESSに人気が集中していて、聞くところによれば二十人近くも入ったということです。なんでも去年のアメリカ遠征を売り文句にしているそうですが、そんなに毎年公費がまわってくるはずもないので、あとあと騙されたことに気づく新入生は多いでしょう。でもなんとなく、先輩はそういうすれすれのやり方が嫌いじゃないと思うんですが、どうですか? 入部してすっかりその部活に染まってしまったあとなら、真実を知らされても辞めたりしないでしょうし、笑っておしまい、という綺麗な結果になる気がします。そう考えると、むしろESSのやり方を見習わなくてはいけないようにも思って、色々と考えさせられる今日この頃です。


 それで、かんじんの演劇部はというと、今日までに五人の一年生が入部してくれました。男の子が三人、女の子が二人です。例年なみといえば例年なみですが、全員が演劇経験者ということで期待ができそうです。いずれ遊びに来ていただければ、新しい顔ぶれを紹介できると思います。先輩たちがいなくなったことで空いた穴は、まだもうしばらく埋まりそうにありませんが、悲願の全国大会に向けて今年こそはという気持ちで、私たちは頑張っています。


 大学生活はいかがでしょうか。私にとってはまだ遠い世界なので、大学で毎日を過ごす先輩のことはうまく想像できません。近況など聞かせていただければ嬉しいです。最後になりますが、季節の変わり目ですのでお身体に気をつけてください。それではまたお手紙します。  かしこ』


 近況報告を中心とした簡潔な内容だった。時間をかけて書いたものであることが、整然と並ぶ文字のかたちからもよくわかった。


 二通目の封を切るのには勇気が必要だった。俺は返事を一度も返していない。読んでさえいないのだから当然だった。どんな恨み言が書かれているか恐る恐る読み進めた。……どこにもなかった。五月の手紙に、返事のないことへの文句はなかった。三通目、四通目と続けて開いた。やはりどこにもなかった。六月の手紙にも七月のそれにも、文句はおろか負の印象を感じさせるような言葉は一つもなかった。


『拝啓 長かった梅雨も明けすっかり夏らしくなりました。先輩はいかがお過ごしでしょうか。


 またこの季節がやってきました。来る八月二十六日、市民会館中ホールで高校演劇全国大会小地区予選が開催されます。やはり一番手強いのは学院付属です。今年はいつものように古典をそのまま持ってくるのではなく、ストリンドベルリの『令嬢ジュリー』を下敷きにしたオリジナルの戯曲ということで、少し違いますが先輩のやり方を今度は向こうがまねたかたちになります。


 迎えうつ私たちも準備は整っています。先月の手紙で詳しくお話ししました『トネリコの花』は、ようやく人に見せられるものに仕上がりました。先週の土曜日に通し稽古があって、暇そうにしていた体育の先生(新任の方で先輩は知らない方です)をつかまえて観ていただいたんですが、感想はとても嬉しいものでした。それにその先生がいたことで、通し稽古でしたが本番のように集中できました。観客がいてこそ演劇だと先輩はよく言っていましたが、その言葉の意味がすこしだけ理解できた気がします。


 最後の舞台ということを、最近よく考えるようになりました。もし今度の予選で北高が負ければ、その予選の舞台は私にとって最後の舞台ということになります。そのことを思うと体の芯が冷えるような気持ちになります。私は一日でも長く部活のみんなと一緒に演劇がしたいと願っています。高校を卒業してまた演劇をすることはあっても、今の部活のみんなが揃って舞台をつくることは、もうないでしょう。練習で踏む一回一回の舞台さえかけがえのないものに感じます。やはり先輩もそうだったのでしょうか。


 私の高校生活は演劇部での三年間でした。思い出に残っているのは演劇部でのことばかりです。でも、それを後悔してはいません。先輩に誘われて演劇部に入り、最後までやめずに頑張ってこられて本当によかった。もし生まれかわってもういっかい高校生活を送れるのなら、私はまた北高に入って演劇部での三年間を過ごしたい。心からそう言えます。『トネリコの花』は、そんな私たちの気持ちをいっぱいに詰めこんだ戯曲です。もしお時間があるようでしたら、ぜひ私たちの半年間を観に来てください。三年間のすべてをこめて、市民会館中ホールに誰もが息をのむ花を咲かせてみせます。


 また長々と書きました。泣いても笑ってもあと二週間。後悔のないように精一杯努力していきたいと思います。それではまたお手紙します。  かしこ』


 手紙には学校と部活のことばかり書かれていた。自分がその場所にいた頃のことを思って、懐かしく思いながら読み進めた。


 高校を卒業してから、俺は一度も演劇部を訪ねていない。この年の公演もついに観に行かなかったし、僅差で学院付属が中地区予選に進んだこともアイネから聞いた。もともと古巣に足繁く通う性格ではないのだが、何より俺はペーターに会うのが嫌だった。


 今そのことを思い、堪らない気持ちになった。会うことを避け、手紙を読まずに机の中に放りこんでおくような相手に、毎月せっせと丁寧な文章を書いているペーターの姿を思い浮かべて、少し泣けそうになった。彼女が何を思ってこんな手紙を書いていたのか、それを考えるだけで胸の奥がきりきりと痛んだ。


『拝啓 雪の降る寒い日が続いています。風邪などは引いていないでしょうか。


 受験もいよいよ山場にさしかかりました。一昨日、進路指導の先生に相談したところ、今の成績では第一志望は微妙な線だと言われました。ここのところ模試の判定もよく、きっと大丈夫だと思っていたので少し落ちこみましたが、いつまでも落ちこんではいられません。先輩がいつか言っていたように、受験とは自分との戦いだということがやっとわかってきました。


 高校はもう自由登校になり、クラスの中にはほとんど学校に来ない人もいますが、私は毎日通っています。登校しても授業はないのでみんな自習をしていますが、一人で机に向かっているよりも集中できる気がします。それに、もうあと少ししか通えないと思うと、教室で過ごす時間が貴重に思えて、毎日通ってしまうんです。


 学校には通っていますが、演劇部の部室にはあまり顔が出せないでいます。来春は新歓のために小公演をおこなうということで、みんなその準備に余念がありません。のぞいてみようと思うことはたびたびあるのですが、足はなかなか前へ進みません。理由はわかっています。私はやっぱりまだ演劇部が好きで、その輪の中に自分がいないのを見るのが寂しいからです。


 気が早い話かも知れませんが、近ごろよく演劇部でのことを思い出します。勉強に疲れて休んでいるときに、ふっと頭に浮かんでくるんです。といっても、思い出す時期はいつも同じで、それは一年前の夏です。先輩が演出をやり、私が舞台の中央に立ったあのときのことです。高校生活の中で一番苦しい一時期でした。たぶん今よりもずっと。どんなに頑張っても先が見えなくて、先輩たちはいつも喧嘩していて。その苦しい夏ばかりを私は思い出します。あれは高校生活の中で一番苦しい夏だった。でも高校生活の中で一番楽しい夏でもあった。そんなふうに思うんです。


 全国大会には行けなかったけど、あの夏は私にとってかけがえのない夏でした。無駄な時間は一秒だってなかった。あの夏を過ごせたことで、私は演劇が大好きになりました。大学に行っても続けたいとはじめて思ったのもそのときです。もし叶うなら、もういちど先輩と一緒に演劇がしたいです。あの夏のような充実した時間をまた持ちたいんです。そのことを思えば受験勉強もつらくありません。いくらだって頑張れます。解けない問題だって解ける気がするんです。


 あまり長く書いてかんじんの受験に落ちたら笑われてしまうので、そろそろ勉強に戻ります。桜の花芽も、今は雪のしたで寒さにたえているでしょう。満開に咲く日を夢みながら、この厳しい冬を乗り越えていこうと思います。それではまたお手紙します。  かしこ』


 手紙は最後まで淡々としたものだった。すべての手紙を読み終えて、寝台に俯せに倒れこんだ。……後悔と申し訳なさと愛しく思う気持ちがない交ぜになって、俺の胸を強く締めつけた。


 部活を辞めてから、俺は傍目にもそうわかるほどはっきりペーターを拒絶していた。廊下で会っても軽い挨拶だけですれ違うことが多かったし、ときどき言葉を交わすことはあってもものの三分で切りあげた。頭のいい彼女に伝わらなかったはずはない。そんな心の冷たい、自分を嫌っている相手に一年間手紙を書き続けたペーターの気持ちがわからなかった。


 ――そこでまた俺は大きな謎に突きあたった。一昨日オハラさんに小屋まで送ってもらったとき聞かされた話を思い出した。高校最後の年、ペーターはほとんど学校へ行っていなかったとオハラさんは言っていた。……にも関わらずその一年の間に彼女がくれた手紙には、学校と部活のことばかり書かれていた。それで俺はますますわからなくなった。もう何年もつきあっている――たった今好きになったばかりの人のことを、俺は何一つ理解できなかった。


 柱時計の針がかちゃりと合わさる音がした。もう十二時だった。その時刻がくるのを待っていたかのように、俺の心に舞台のことが舞い戻ってきた。重苦しい感情が渦を巻いた。……今の俺には浮ついたことを考える権利などない。そう思って舞台のことを考え始め、俺の頭はまた出口のない迷路をぐるぐるとまわり出した。ぐるぐるとまわる頭に、今度はまたペーターのことが染みこんでくる気がして――いい加減頭が変になりそうになり、俺はあえぐような思いで寝返りをうった。


「――!」


 腰のあたりに棒のような感触があり、飛び起きた。手で触れてみると、昼間にクララから手渡されたリボルバーがジーンズのポケットに入ったままになっていた。……こんな物騒なものをずっと持ち歩いていたのだ。DJと緊迫したやりとりをしていたときも、さっきのペーターとの会話の間も。そう考えてなぜか無性に可笑しくなり、裏路地に目覚めてから初めて、俺は何でもない一人笑いを漏らした。


『どうしても苦しければ、それで自分を撃って』


 暗示めいたクララの言葉が脳裏に蘇った。弾丸をこめなくても撃てるという拳銃。……これを自分に向けて撃てばこの迷路からも抜け出せる。彼女が言っていたのはそういうことだと、今になって気づいた。腕をまっすぐに伸ばし拳銃を構えた。そうして引き金に指をかけたまま、銃口を自分に向けた。


「ふ、ははは……」


 意味のない笑いがまた口からこぼれた。我慢しようとしてもできなかった。自分がなぜ笑っているのがわからなかった。本当に頭がおかしくなってしまったのかと思った。


 笑い止んだとき俺はまだ拳銃を握っていた。昼間そうしたように、まじまじとその拳銃を眺めた。しばらくそうしていたあと、俺は勢いよく部屋の窓を引き開け、静まりかえる夜の闇にいっぱいの力で拳銃を投げ捨てた。

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