032 嵐の夜に死んだ恋人を探して(1)

 曲がりくねった回廊を歩いていた。


 そこは荒野の真ん中に孤立する荒れ果てた城で、俺はあてもなくただ一人その中を彷徨っていた。


 ところどころ破れた壁の外には夜の景色が広がっていた。荒涼とした景色だった。夜空には赤みを帯びた大きな満月が浮かび、その光のもとに草木の一本もない丘陵が遥か地平まで連なっていた。


 やがて俺は一つの部屋にたどり着いた。部屋といっても、そう呼ぶのがはばかられるほど荒廃した場所だった。外庭に面する壁はほとんど崩れ落ち、屋根の一部さえ欠けてそこから満月が覗いていた。床は瓦礫と土埃に覆われ、中央には古びたあばら屋のようなベッドが鎮座していた。今にも落ちてきそうなぼろぼろの天蓋に覆われたベッド――


 そのベッドの上に薄い夜具を身にまとった少女が身を起こした。ペーターだった。


 ペーターはしばらくの間ぼんやりとした瞳で俺を眺めていたが、そのうちに小さく唇を動かして何かを囁き始めた。けれども俺にはよく聞こえず、何を言っているのかわからなかった。もっと傍に寄ってその言葉を聞きとろうとした。……できなかった。気持ちとは裏腹に両脚は根が生えたように動かず、俺はペーターの傍に近寄ることができなかった。


 ふと、部屋の隅に人がいるのに気づいた。月の光の届かない最奥、その薄暗がりに二つの人影がたたずんでいた。けれどもよく目を凝らして、それが人ではないことを俺は知った。それはかつて人であり、今はもう人ではなくなったもの――木乃伊ミイラだった。二つの木乃伊は儀仗兵のように直立して横に並び、暗がりからじっとこちらを見ていた。


 不思議と恐怖はなかった。落ち窪んだ眼窩は優しく微笑んでいるようにさえ見えた。そうして見つめているうちに、俺にはその木乃伊がペーターの家人――オハラさんたちのものであることがわかった。


「――わかりません。考えたこともないです、そんな哲学的なこと」


 不意に声が届いた。ラジオのチューニングが合うようにゆっくりとペーターの声が聞こえ始めた。


「――そんな難しいこと聞いてるわけじゃない。要するにどうして劇部ゲキブに入ってくれたのか、その理由が聞きたいってことだ」


 知らないうちに俺は返事をしていた。唇はひとりでに、頭の中にない言葉を紡いでいった。


「そういうことなら、あれですよ。先輩の口車に乗せられたからです」


「ああ……いや。きっかけはそうだったかも知れないけどさ」


「きっかけはそれで、あとは何となくです。何となく興味が湧いて、気がつけば入部届にサインしていた、ってところです。だいたい先輩の言うように、きちんとした理由があって部活に入る人なんて、そんなにいないと思いますよ?」


「そうなのか? ……うん、そうか。まあそんなものか」


 言葉を交わしながら俺は、この会話が過去に実際にあったものだということを思い出した。色褪せた記憶が幻灯のように脳裏に蘇った。これは三年前の会話だった。出会って間もない頃、まだお互い真新しい気持ちで接していた季節の瑞々しい思い出だった。


「そう言う先輩はどうなんですか?」


「え?」


「先輩はどうして演劇をやってるんですか?」


「俺か。どうなんだろうな」


「ほら、先輩だって答えられないじゃないですか」


「いや待て。いきなり聞かれたからうまく言葉にできないだけだ。少し考えれば出てくる」


 目に映るものは違っていた。薄衣のみで寝台の上にいるペーターはあの頃よりずっと大人びていたし、半壊した城も屋根の切れ目から覗く赤い月も俺の記憶にはない置き換えられた情景だった。闇からじっとこちらを見つめている二体の木乃伊も。――けれども心はあの頃に戻っていた。三年前の初夏の日に感じていた思いを、俺は今ここに同じように感じていた。


「……そうだな。それなら一般論から入るか。役者が演じる理由には大まかに二つの方向がある。まず一つめは普遍的な表現欲求だ。演じる姿を多くの人に見てもらいたい、自分の演技に共感してほしいという気持ちだ」


「それならわかります。私にもありますよ、そういう気持ち」


「そうだろ。舞台に立つ人間は多かれ少なかれその手の欲求を持ってる。当然、こんなこと喋ってる俺もな」


「というか、それだけじゃないんですか? 人が舞台に立つ理由で他のものといっても、私には想像できないんですけど」


 そう言ってペーターは不思議そうに小首を傾げた。もう忘れていた懐かしい気持ちが心に広がっていくのがわかった。出会ったばかりの頃、ペーターはよくこんな表情を見せていた。俺は彼女との間に充実した関係を築いていけると信じていたし、彼女の方でも同じように思っていることを疑わなかった。こうした会話を交わしながら、俺たちは多くの人々が普通に通る道を一緒に歩いていけると思っていた。……少なくとも、俺はそう思っていた。


「もう一つはだな、これもまあ普遍的な好奇心だ。自分たちが演じる世界に入りこみたい、その世界の中心に立って未知なる風景が見たいという憧れだ」


「そちらはあまり実感がわきませんね」


「かも知れない。でも俺はその気持ちの方が強い。混沌こそが演劇の魅力だと俺は思っている」


「混沌ですか」


「ああ、混沌だ。物心つくかつかないかの頃、爺さんにどこかの小屋での舞台に連れていってもらって、それが俺にとって演劇の原点になったんだ。内容はもうほとんど覚えてないし、たぶんどこにでもあるアングラを気取った芝居だったんだろうと思うけど、子供だった俺はその舞台に強烈な妖しさを感じた。縁日の祭で道に迷って、気づいたら狐の面をつけた連中に取り囲まれているような、そういう類の妖しさだった」


「つまり先輩は、その妖しい記憶を消すために演劇をやってる、ということですか?」


「いや、そうじゃない。むしろ逆だ。さっきも言ったようにその妖しい舞台は俺にとって演劇の原点なんだ。俺はその雰囲気に憧れて、そうした憧れは背がのびるにつれて大きくなっていった。舞台は俺の中で混沌とした未知の世界になって、その中に入りたいという気持ちも、同じように膨らんでいったわけだ。俺はその世界に入りたい。それが演劇をする理由だな」


 大仰な言葉で語った演劇への思いは、けれどもそのとき俺が抱いていた偽りのない気持ちで、それは三年を経た今もなお変わってはいない。俺はずっとその場所を目指して舞台に懸けてきた。憧憬の中にある『向こう側の世界』に入りたい一心で――入りきれない葛藤の中に、今日まで幾つもの舞台に立ち向かい続けてきた。


「混沌とした未知の世界ですか、舞台は」


「ああ、俺にとってはそういうものだな」


「でも、舞台には台本がありますよね? 台詞もぜんぶ決まってるし。それなのにどうしてそこが未知の世界なんですか?」


「それは舞台に立てばわかる」


「そうなんですか?」


「ああ、きっとわかる。舞台というのは生き物なんだ。台本があっても、台詞がぜんぶ決まっていて同じ役者たちが同じ配役で演じていたとしても、一つ一つの舞台は何から何まで違ってくる。同じものは二度と作れない。そんな世界だから俺は中にいて楽しい。何回でもその中に入りたいと思う」


「それが舞台に立つ理由ですか? 先輩の」


「まあ、そうだな。そういうことになるんだろう」


「お客さんに見てもらいたいという気持ちよりも強いものなんですか? それは」


「比べられるものじゃないけど、同じくらいだと思う。俺の中では」


「私も入れますか?」


「――ん?」


「先輩が言っているその世界に、私も入れますか?」


 わずかに不安を滲ませた曖昧な表情でペーターはじっとこちらを見つめてくる。返事は決まっている――彼女はその世界に入れる。俺が入れないその場所に彼女はいとも容易く入ることができる。告げる必要などない。……俺には告げる資格などない。それでも俺は彼女に向かい、あのときと同じ先輩としての言葉を口にする。


「もちろん。入れる」


「その世界でも、こんな風に話をしてくれますか?」


「するに決まってる。どんな話をするかはわからないけどな」


「でもやっぱり、優しくしてはくれないんですね」


「え?」


「たとえ世界は違っても、先輩は私に優しくしてくれないんですね――」


 それきりまたペーターの声は聞こえなくなった。彼女の唇から漏れる言葉は、もうこの耳に届かない。助けを求めるように俺は奥の暗闇に目を遣った。二体の木乃伊はさっきと変わることなく立ち尽くしていた。枯れ果て黒ずんだ皺まみれの顔は、相変わらずこちらを眺め微笑んでいるように見えた。


「……?」


 不意に木の葉の揺れるような音が聞こえた。振り仰げば赤い満月は既に消えていた。夜目にも明らかな黒雲が天穹を覆い、前触れのない雨がそこから降り落ちてくるのを俺は目にした。


 視線を戻すと、ベッドの上にペーターはもういなかった。木乃伊たちの姿もなく、雨に濡れる荒れ果てた部屋があるだけだった。


 天蓋の破れ目から流れ落ちる小さな滝と、次第に黒く染まっていく瓦礫の絨毯。そんなわびしい情景にこみあげてくるものを感じながら、俺は一歩も動けず――どうすることもできず、いずことも知れない廃城の懐に、蕭々と降りしきる生暖かい雨に打たれていた。

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