033 嵐の夜に死んだ恋人を探して(2)
――寝台から眺める部屋はまだ薄暗かった。
起き抜けの意識はまとまりのない余韻の中にあった。温かで懐かしく、最後は寂しく途切れた夢の余韻。それが少しでも長く保つように、俺はしばらくそのまま動かないでいた。
そうしている間、俺の耳はくぐもった単調な音を聞いていた。初めはそれを雨の音だと思った。だがゆっくりとその強さを増していく黎明の光にそうではないと気づいた。それはノイズだった。窓際に置かれたラジオには小さな赤いLEDが点り、聞こえるか聞こえないかの希薄な雑音がそのスピーカから流れ出ていた。
「……何でついてるんだろう」
ラジオの電源が入っていることを訝しく思った。昨日の夜は聞いていない。アナクロを極めるこのラジオには予約もできなければ、うっかり触れてしまうリモコンの一つもない。こうして音を聞くためにはメインスイッチを指で押しこむ必要があるが、俺にはまったく身に覚えのない話だった。
「……俺が夢遊病か」
自嘲気味に独り言ちた。そういえば夢遊病は心に葛藤があるときに出るものだと物の本に書いてあった。……たしかに俺の心には葛藤がある。まだ半分眠ったままの頭に昨日のことを思い出し、とうとう明日に迫った舞台と一人だけになってしまった仲間――夢に見た少女のことをぼんやりと考えた。
やがて眩しい朝日でいっぱいになった部屋に、ノイズの雨は止むことなく降り続いていた。あえて雑音が流れるに任せながら俺は、その中に何かまたおかしな声が混じるのではないかと、そう期待していた。もう何が聞こえても驚かないと思った。だがいつまで聞いていても、期待したようなものは何も聞こえてはこなかった。
もう時間だった。俺は寝台から起きあがり、鳴り出す直前の目覚まし時計を鳴らないように切り換えた。そのあとラジオの電源を切り、大きく一つのびをしながら歯を磨くために階段を下った。
◇ ◇ ◇
太陽がのぼりきるのにそれほどの時間はかからなかった。俺は昨日と同じように交流会館前の石段に座り、緩慢に移ろいゆく景色を眺めていた。時計はそろそろ九時をまわろうとしていたが、登校する学生はあまり目につかなかった。土曜日で授業がないのだから当然かも知れない。交流会館に出入りする人間もまばらで、もはや疑いようもない夏の構内は微睡むような静謐の中にあった。
蝉が鳴いていた。早朝から響き始めた声は時を追うごとに幾重にも重なり、やがて無遠慮な洪水となって辺りを埋め尽くした。そのただ中にあって――俺は焼けつくような焦燥に駆られていた。ここに着いてほどなく生じたその感情は、まるで蝉の声に同調するように膨張していき、今では俺の心を決壊の一歩手前まで追いつめている。大声をあげ走り出したい衝動に抗い、俺はまた両手で思いきり膝を掴んだ。朝からそんなことをもうどれだけ繰り返したかわからない。
「絶対に来いって言ったのは、そっちだろう」
独り言は濛々とした蝉の声に溶けた。血を吐くようなその声が相手の耳に届くことはない。時計が九時を告げるのを喪心にも似た思いで見つめた。……ペーターは来なかった。朝練の終わる時間になっても、ついに彼女はこの場に現れなかった。
ジーンズのポケットに一枚の紙切れが入っているのを確認した。昨夜の会話でそれとなく聞きだしたペーターの家の電話番号を書きつけたメモ用紙だった。いても立ってもいられない思いで待ちながら、俺はその番号に電話をかけようと何度も腰を浮かせかけた。それでも今までかけないでいたのは、彼女が来ることを信じていたからではない。家の人に遠慮があったからでも、もちろんない。俺はただ恐ろしかった。ペーターの家に電話をかけて、昨日のように虚しい呼出音を聞くことが恐ろしかった。
けれども――もう限界だった。たしかに電話をかけるのは恐ろしかった。だが、こうしている間にも焦燥はどんどん大きくなっていき、このままいけば俺は本当にどうなってしまうかわからない。誰かが出てくれさえすればいいのだ。オハラさんでも、あのエツミさんという女性でもいい。……わずかに残された気力を振り絞って俺は電話ボックスに向かった。祈るような思いで受話器を取り、一つ一つ間違いのないように紙に書かれた電話番号を押していった。
「出てくれ……頼む」
電話の呼び出し音を聞きながら心臓が高鳴った。これが最後の砦だった。
「お願いだ……頼むから」
苦しい思いが唇から漏れた。そんな思いを嘲笑うかのように呼出音は鳴り続けた。十回……二十回。希望が失望に変わり、失望が絶望に変わっていくのを感じた。やがて何回目の呼出音か数える気も失せ、すべてを諦めて受話器を置こうとした。そのとき――唐突に呼出音が消えた。一瞬、俺は動きを止め、次の瞬間には自分の頭を殴りつけるような勢いで受話器を耳に当てていた。
「もしもし!?」
返事はなかった。回線はたしかに繋がっていて、その証拠に受話器からはごうごうと風のような、潮騒のような音が響き続けていた。
「もしもし聞こえませんか!?」
けれども返事はなかった。受話器を取りあげた誰かはこちらの呼びかけに応えず、裏返しの無言電話のように押し黙ったままだった。
「――ペーターなのか?」
ふと、そう思った。言葉にしてすぐそれは確信に変わった。この回線の向こう側にいるのはペーターだ。そうに違いない。なぜなら彼女の家の人間で、俺の呼びかけに応えず電話も切らないでいるような真似をする可能性があるのはペーターしかいない。
「ペーターなんだな?」
つとめて冷静にもう一度呼びかけた。返事はなかった。ここは考えるべき場面だ、と頭の中にそんな声が響いた。……たしかにその通りだと思った。下手に捲し立てて電話を切られたら元も子もない。内心に渦巻く不安と焦燥を抑え、俺もまた沈黙して状況の整理にかかった。
――問題はなぜペーターが電話に出ながら黙っているかということだ。理由として考えられるのは……朝練のことしかない。昨日、別れ際に自分で念を押しながらペーターは朝練に来なかった。あるいは家で何かあったのかも知れない。それはそれで心配だが、とにかく彼女は来なかった。そのことでペーターはまともに電話の応答もできないほど畏縮してしまっている。そう考えれば辻褄は合う。……裏を返せばそれ以外考えられない。
そう結論づけて、俺は言葉を探した。責めるのはもってのほかだった。いきなり理由を聞くのも駄目だと思った。この場面で彼女の心を開かせる最も適切な言葉は何か……。しばらく必死に頭をはたらかせて、どうにかそれらしい流れを思いつき、俺は慎重に唇を開きかけた。そのときだった。
『おはよう』
「!?」
予想もしなかった声に息を呑んだ。心臓は一気に早鐘を打ち始め、逆に身体は塩の柱になったように固まった。唐突に声がかかったことよりも、声そのものが俺を驚かせ、混乱させた。充分に落ち着いた女の声だった。それが誰の声であるか、俺にはすぐにわかった。
「キリコさん……ですか?」
『おはようハイジ。はじめまして』
「――え?」
『はじめまして……は今更か。きっとあたしたちは何回か会ってるものね。ジャックが間にいて会っていない、なんてことは考えられないから』
「……なに言ってるんですか。キリコさんなんですよね? いったいどうし――」
『そうすると何回か、じゃなくて毎日会っていたということになるのかな。毎日顔を合わせて、何でもないことを喋って笑い合う……あたしたちはそんな間柄だった。そういうこと?』
こちらの声が届いていないのだろうか。キリコさんは俺の問いかけを無視して独白を続けた。ぐるぐるとまわる頭の中で、俺は彼女の口調が普段のものではないことに気づいた。それは水曜日の練習で隊長をジャックと呼んだときの、あの聞き慣れない口調だった。俺は問いかけるのを止めて話を聞くことにした。そうするしかなかった。
『あるいは毎日身体を合わせるような関係だったのかも……。それならそれで考えないといけないでしょうね。きっとそう仕向けたのはあたしだから。もっとも、あたしの方では何の問題もないし、色々と都合が良くなるから、むしろそうあってほしいところだけど』
――これは『向こう側の世界』にいるキリコさんだ。沈黙して話を聞き続けるうち、俺はそのことに気づいた。この回線の先は別の世界に繋がっている。一昨日の路地裏で俺を撃ったアイネのように、『向こう側の世界』への参入を果たしたキリコさんが俺に語りかけている。これはそういう会話だと思った。
『いずれにしてもあなたはジャックが残していった最後の一人で、あたしはその意味をよく理解している。……その意味を理解して、こうしてあなたの前に立っているの。分の悪い賭けだけど、あたしにはもう他に方法がないの』
縋りつくような言葉だった。キリコさんの話す内容は俺にはほとんどわからなかった。それでも彼女が何かに追いつめられて俺の助けを求めていることはわかった。そしてこちら側の俺が向こう側の彼女のことを知らないように、向こう側の彼女がこちら側の俺を知らないことも、何となくわかった。
『ここは今、変わろうとしている。ジャックが何か大きな目的のために動いているのがあたしにはわかるし、娘たちの動きも慌ただしくなってきた。それを食い止めるにはあなたに頼るしかないの。……ねえ、聞こえてる?』
「……聞こえてます」
真剣な声に思わず返事を返した。だがこの声が彼女の耳に届くことはない。その証拠にキリコさんは俺の反応を気にもかけず、眠る子供に暗示をかけるように切々と懇願の言葉を繰り返した。
『あなたがジャックを信じてるのはわかってる。でも、もう忘れて。彼のことは忘れて、あたしのために動いて。あたしのためにだけ動く忠実な道具になって。そうすればあたしもそれに見合うだけのものを返すから。あたしにできることなら何でもする。あたしの持っているものなら何でも差し出すから――』
そこで唐突に電話は切れた。受話器を耳にあてたまま、俺はしばらく動くことができなかった。思考を断ち切られ真っ白になった頭に、無機的な電話の発信音が一頻り響いた。
どれほどの時間そうしていたのだろう。呪縛から解き放たれた俺は電話ボックスの扉を開け外に出た。蝉の声は続いていた。誤魔化しのない夏はどこまでも広がっていた。けれどもそこはもう俺の知っている世界ではなかった。目に映るすべてのものが俺を拒み、触れることのできない遠いところにあった。昨日の朝に眺めた町の景色のように――いや、あのときよりもなおはっきりと。
もう何も考えられなかった。どこへ行き、何をすべきなのか見当もつかなかった。……それでも俺は歩き始めた。炎天にあぶられる休日の構内を抜け、結局は発声の練習もしないまま大学をあとにした。
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