034 嵐の夜に死んだ恋人を探して(3)

 どこをどう歩いてたどり着いたのかわからない。何も考えられないでいた頭がようやくまた動き始めたとき、俺は公園にいた。真昼の太陽が照りつける広場の中央に、顔も背筋も汗にまみれ、木偶のように突っ立っていた。公園には俺の他に誰もいなかった。そこには折からの強い陽光と、大気を震わせる蝉の声だけがあった。


「う……」


 額から流れ落ちた汗が目に入り、染みた。俺は日射しを避けるため楡の木陰に入り、ブランコに腰かけて落ち着いた。ところどころ塗りが剥げ、錆の浮いた鉄柱が木漏れ日の中にわびしかった。ここ数日というもの、俺はこのわびしい情景を見続けていると思った。


「何でまた……ここに来てるんだろうな」


 始まりは月曜日だった。ペーターと一緒にリカたちを追いかけ、この公園のすぐそばで見失い、道に迷った。翌日の火曜日にはアイネとこのブランコに座って語らい、そのすぐあとに彼女は消えた。なか一日で木曜日、降りしきる雨を眺めながら問題の解決の糸口を探り――何も解決できないまま現在に至っている。


 アイネとの会話を思い出した。あのときこの公園には一匹の蝉が鳴いていた。彼女はそれを最初の蝉と呼び、羽化を急ぎすぎて仲間に会えず、それでも鳴くことを止めない境遇を憐れんだ。……今ここには蝉の声が溢れている。あれからたった四日、無数の蝉たちが暑い日射しの中に我が世の夏を謳歌している。


 だが俺の心からはあの最初の蝉が消えなかった。まだ誰もいないこの公園に虚しい声を張りあげていた悲しい蝉のことを考えた。それはどこか今の自分に似ていると思った。そうしてふと、この蝉たちもやがて死に絶え、季節の終わりには最後の一匹が土から這いだしてくるのだと思った。――最初の蝉は悲しいが、最後の蝉はもっと悲しい。俺は、自分がその最後の蝉だと思った。


 ……その通り、俺は最後の蝉に違いなかった。舞台を前にして仲間たちは一人消え、二人消え、そうしてとうとう俺だけになった。皮切りにアイネが消え、謎の言葉を残して隊長が消え、目の前で忽然とキリコさんが消え、最後に残ったあいつもこうして――


 ペーターのことに考えが及んだとき、全身から力が抜けていくような頼りない感覚に襲われた。それは他の仲間たちがいなくなったときの気持ちと似ているようで、どこか違っていた。


 心にぽっかりと穴が空いていた。こちらの顔色を窺うような子供っぽい表情や、いつも見せていた何でもない仕草が代わる代わる頭に浮かび、そのたび毎に心の穴に冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。……この感覚がどういう名前で呼ばれるものなのか、俺にもそれくらいのことはわかる。堪らなくペーターに会いたかった。会って話がしたかった。昨日の夜の言葉を今の俺にもう一度かけてほしかった。


『先輩がいるから、私はいつだって安心していられるんです。この舞台だってきっと成功するって、そう信じてます』


 たった半日前の記憶がうまく思い出せなかった。額からの汗が頬を伝い、顎から滴って地面に小さな黒い染みを作っていた。そんなものをぼんやりと眺める俺には、垂れ落ちる汗を拭う気力さえなかった。……もう何もかもどうでもいい。投げやりな気持ちをこめた溜息は、盛大な蝉たちの声の中に溶けた。


「――おや?」


 嗄れた声に頭をあげると、一人の老人が驚いたような表情でこちらを見ていた。眩しい日溜まりの中にいるその人は、あの模型屋の店長だった。


「あ……どうも」


 俺は思わず間抜けな挨拶を返した。それをどうとったのか、老人はゆっくりとした足どりでこちらに近づいてきた。


「珍しいこともあるもんじゃないか」


「……?」


「ここでおまえさんと会うのは何年振りだろうな。まだ小さかった頃には、四つ角のに連れられてよく来ていたのを覚えているが」


 老人はそう言いながら俺の隣のブランコに腰をおろした。それきり何を言うでもなく前を眺めてくつろいでいる様子だった。俺は初め何か言葉をかけるべきかと思ったが、そのうちに沈黙する老人と並んでブランコに座っているのが、それほど苦痛ではないことに気づいた。……と言うよりも、俺はむしろ安心を覚えた。気心が知れているとは言えないまでも、顔見知りの人間が傍にいることで、自棄になりかけていた心が少しだけ落ち着いたと思った。


「こんなところで油を売っていていいのかい?」


「え?」


「例の舞台は明日なんだろ。最後の詰めをしっかりしなけりゃ」


「どうしてそれ、知ってるんですか?」


 俺の質問に老人はこちらを向き、顔という顔に皺を走らせて渋く笑って見せた。


「一昨日だったかな。嬢ちゃんが券を持ってきてくれたよ。この間のお礼だって言って。券には明日と書いてあったんだが、日程の変更でもあったかな?」


「いえ……舞台は明日です。間違いありません」


 そう答えて俺は何とも言えない気分になった。ここ数日のごたごたの中で、俺はお礼のことなどすっかり忘れていた。だが同じような状況にあったはずのペーターはそのことを忘れず、一人で老人の店を訪ね、ちゃんと券を渡していたのだ……。


「……済みません。本当は二人でお礼がてら招待に伺おうと思ってたんですが、俺、ちょっと都合が悪くて」


「どんな芝居なんだい?」


「え?」


「不親切な券もあったもんだ。場所と時間の他は何も書いてないじゃないか。こういうのには題名くらい書いておかないと」


「題名はないんです」


「題名がない?」


「はい、題名はありません。うちの劇団が手がけているのは即興劇です。それぞれ役割が決まっていて、簡単な筋書きに従って即興で劇を組み立てていく芝居なんです」


 それは俺が入団したばかりの頃、まだ話しづらい隊長から聞かされた話だった。他所とは何もかも違う即興劇団ゆえのヒステリカの信条。そんな話を聞くたびに、自分がヒステリカに染まっていくのがわかって、嬉しかったのを覚えている。


「そういう舞台だから、題名はありません。決まった形のない芝居に決まった題名をつけるのはおかしいだろう、ってことで」


「そいつはひょっとして、コメディア・デラルテかな?」


「知っているんですか?」


 俺は少し驚いて老人を見た。そんな俺に老人はいかにもという感じの笑みを返してきた。


「知らいでか。だてに長く生きてはおらんよ。たしかそれぞれの役を表す仮面をつけて演技するものだったか」


「伝統的なものはそうです。でも、俺たちは仮面はつけません」


「ほう。それはまたどうして?」


「仮面は、言ってみれば時代遅れの記号です。盛んだった当時のヨーロッパでは仮面がうまく機能したんだと思います。けれど、コメディア・デラルテの存在を知ってる人がほとんどいない今ここでは、仮面は形骸化した様式に過ぎないとうちの劇団では考えているんです」


 これも同じ、ヒステリカをヒステリカたらしめている特異な信条だった。隊長に、そしてキリコさんに、俺は何度も繰り返しこの話を聞かされてきた。ヒステリカの一員になりきろうとアイネと共に汗を流した一年間。そしてこの春にペーターを迎えて、今度は俺がこの話を彼女に語って聞かせたのだ。


 ――ヒステリカに入団してからの思い出が濁流のように突き抜けていった。強くはっきりとした感情が胸のうちから湧き起こってくるのがわかった。その感情に衝き動かされるままに、俺の口は言葉を紡いでいた。


「形を模倣するのは簡単です。でも、形だけ真似てみたところで、過去に多くの人たちが演じてきた即興劇の根底にあるものを汲みとったことにはならないと思うんです。俺たちが目指すのはそこです。形を真似るのではなく、一番根底にあるものを汲み取って、新しい即興劇を自分たちの手で作り上げていきたい。それが俺たちの芝居です」


 自分の言葉が熱を帯びているのがわかった。問われもしないままに、俺は憑かれたようにヒステリカのことを老人に語った。途中から何を喋っているのか自分でもよくわからなくなっていた。けれども老人は何も言わず、興味深そうな笑みを浮かべて何度も頷きながら俺の話を聞いてくれた。


 ふと我に返ったとき、俺の舌はもう動いていなかった。昼下がりの公園に老人と二人、並んでブランコに腰かけていた。その滑稽な絵を笑うかのように蝉たちは鳴き続けていた。「よいしょ」と小さな掛け声をかけて老人がブランコから立ち上がった。


「もう、すっかり夏だ」


「え……? あ、はい」


「興味深く聞かせてもらったよ。真剣にやってることがよくわかった」


「……はい」


「明日を楽しみにしている。では、また」


 穏やかな笑顔でそれだけ言って、老人は歩き去っていった。小さくなっていく背中を眺めながら、俺は老人の別れ際の言葉について考えた。楽しみにしている? 何を? ……考えるまでもなかった。老人は明日を楽しみにしていると言った。明日の舞台を楽しみにしていると言ったのだ。そう――明日こそは待ちに待った舞台の本番なのだ。


「……二時半か」


 リハーサルは四時に始まる。食事をとって向かっても充分に間に合う。そう思い俺もブランコから立ち上がった。……長い時間座ったままでいたせいか、小さな立ちくらみを覚えた。俺は小さく頭を振って、公園の景色を眺めた。


 色彩が戻っていた。そこは触れることのできない作り物の世界ではなかった。俺は自分が――自分だけはたしかにまだ『こちら側の世界』にいることを確認した。もはや一人の仲間もいなくなってしまった世界。けれども舞台を思っている限りここにいられるのだと思った。……縋りつくことができるのは、もう舞台だけなのだと思った。


「……よし」


 呟いて俺は歩き始めた。溢れ返る陽光も、うねり来る蝉の声も気にならなかった。


◇ ◇ ◇


 準備はすべて調えた。小道具は『虎の巻』に書かれた通り上手下手に振り分けた。板目に敷いた白い布の上に並べて置くのは恒例で、こうすることで弱いブラックライトの下でも目的のものがすぐ見つかる。大道具は舞台裏に持ってきてある。数は知れたものだし、舞台に出すのは本番直前で構わないだろう。


 ロビーには受付用の長机を用意した。パンフレットの類もちゃんと山にしておいたし、モギリのための鋏も抜からず控えてある。当日券のための小銭は明日でいい。花束の目録は前回公演のノートがまだ使える。


 もうやり残しはない。効果の確認は昨日のうちに済ませた。スポットライトの位置はあのままでいいはずだ。すぐにでもリハーサルを始められる。本番のつもりで一回限り。リハーサルとはそういうもので、即興劇でもそれに変わりはない。もういつでもいける、いつでも始められる。ベルが鳴り緞帳が上がれば、額を弾き合い役になりきった俺たちが、舞台の上に目眩く世界を創り出してみせる……。


「はは……」


 唇から笑いがこぼれた。力のない笑いはがらんどうのホールに虚しく反響した。


「ははははは……」


 意思とは関係なく、笑いはあとを引いた。笑いながらふと、思い出した。人は泣くとき、泣いてもどうにもならないことがわかっているけれど、それでも泣かずにはいられないのだ、と誰かが言っていた。――俺は今、涙を流す代わりに笑っているのだと思った。こうして笑ってもどうにもならないことはわかっている。それでも俺は笑わずにはいられないのだ……。


 リハーサルには誰も来なかった。隊長も、キリコさんも、アイネも、ペーターも来なかった。DJも、リカも、他の裏方の人も来なかった。時間通りに着いた俺は、待ちながら一人で準備を進めていった。二時間かけて準備は終わった。そうして準備が終わるまで、扉を開けホールに入ってくる者は、誰一人いなかった。


「ははははは……」


 考えてみればとんだお笑い種だった。こうなることは初めからわかっていたのだ。仲間たちがみんな『向こう側の世界』に行ってしまったことを俺は知っていた。――役者もいないのにリハーサルで一体何をするつもりだったのだろう。


 何も知らない裏方の人たちのために、と意気込んではいた。そうして蓋を開けてみれば、肝心のその人たちは誰も姿を見せなかった。これも自然と言えば自然だ。そつのない隊長のことだから、裏方も早々に『向こう側の世界』へ連れていってしまったのだろう。明日の舞台を打つための準備は、きっとそちらで着々と進められているのだ。こうして置いてけぼりを食らった、一人の間抜けを除いて……。


「ははははは……」


 笑いは止まらなかった。仕舞いに俺は涙さえ流していた。けれどもそれは悲しみの涙ではなく、ただ笑いすぎて流れ出た涙だった。引きつる脇腹を押さえてうずくまりながらもなお、俺は笑い続けた。


 ――諦めよう。初めてそう思った。そう思った途端、俺は笑うのを止めていた。この舞台をもう諦めよう、と心の中で繰り返した。繰り返した途端、堰を切ったように俺の両目から涙がこぼれ落ちた。


 非常口の照明とフットライトだけの薄暗いホールに、俺はうずくまったまま泣いた。口を固く結び、声を漏らすのを堪えながら、激しく背中を震わせて泣いた。今日まで必死に取り組んできた舞台が日の目を見ることは、遂になかった。ペーターを迎えての新しい舞台――隊長たちを送るはなむけの舞台。……思い描いてきた夢の舞台は、夢のまま終わってしまった。


 やがて俺が泣き止むと、ホールにはようやく静寂が戻ってきた。毛穴から浸みこんでくるような、濃く深い静寂だった。俺は……空っぽだった。心の中にあったすべてを、涙と一緒に流してしまったのだと思った。舞台への思いも消えていた。今はただ、小屋に帰って深い眠りに就きたかった。


 立ち上がろうとして膝が笑った。それでもどうにか立ち上がり、よろめくようにして舞台から降りた。ロビーへ抜ける通路を行きかけて、最後に一度だけ舞台を振り返った。……そうして俺はまた向き直り、勾配の緩やかな通路をゆっくりとのぼっていった。


 ――そのとき、正面の扉が勢いよく開いた。


 押し開けられた扉の間に、肩を大きく上下させて荒い息をつく影があった。ロビーの照明を受けて淡い輪郭を描くその影を、俺は幻だと思った。


「す……すみま……せん。遅く……なり……ました」


 乱れた息をそのままに幻は通路を降りてきた。汗まみれの顔がここまで走り続けてきただろうことを物語っていた。


「も……もうリハーサル……終わっちゃいました……か?」


 不安をいっぱいに湛えた表情で俺を見た。まだ落ち着かない吐息をシャツ越しに感じた。――幻ではないことを知った。目の前に立っているのは生身のペーターだった。


「ほ……本当に……すみません。こんなに……遅れちゃって……。でも……まだ時間があるなら」


 ペーターは無造作な手つきで額の汗を拭い、光る目を向けてきた。その意味はよくわかった。遅れてきたことに言い訳一つせず、明日のために今できることをしようと言っている彼女の声が届いた。空っぽの心に小さな火が点るのを感じた。……けれども、それはすぐに消えた。


「……今さら何しに来た」


 俺はそれだけ言ってペーターの脇を抜け、ホールを出た。


「先輩……?」


 戸惑う彼女の声を背中に聞いた。だが俺は振り返らなかった。……茶番はもうこりごりだった。不確かな希望に縋って苦しむのには飽き果てた。俺の中で、明日の舞台は終わったのだ。


「待ってください、先輩。どうしたんですか? 鍵も返さないで出てきちゃって……会場の人に怒られますよ?」


 既に夜だった。漆黒の厚い雲が夜空をくまなく覆っていた。重く湿った風に雨が近いのを感じた。――どうせ降るのならすぐにでも降り出してほしいと思った。土砂降りの雨に打たれて全身ずぶ濡れになって、とことんまで惨めになりたかった。


「裏方の人に頼んであるんですか? でも、ホールには誰もいませんでしたよね? 戻りましょう、先輩。いちど戻った方がいいですよ」


 すぐ後ろからかかるペーターの声が、俺の耳にはどこまでも遠かった。理性ではわかっていた。彼女の言葉が正しいことは充分にわかっていた。けれども俺の足は止まらず、頭は背後を顧みようとしなかった。


「……怒ってるんですか? 私が遅れてきたこと」


 自分が情けないことをしているのがわかった。ふて腐れて駄々をこねる子供のようだと思った。そうして後ろから追いかけてくる声にどこか慰めのようなものを感じていることに気づいて、空っぽだった心はみるみるうちにどす黒い負の感情でいっぱいになった。


「言い訳は……しません。朝練にも行けなかったし、先輩が怒る気持ちはわかります。でも、それとは別で、会場に戻りましょう、先輩。せめて施錠して、鍵を返すのだけは」


「……おまえがやればいい」


 ようやくそれだけ言うことができた。ペーターが足を止めるのを背中に感じた。それでも俺は振り返らず、その場から逃げるように一層歩調を速めた。心がずたずたに引き裂かれるようだった。


 ……舞台を諦めたところで、結局はこんな思いをしなければならない。血が出るほど奥歯を噛みしめ、ぐるぐるまわる頭を持て余しながら、今にも泣き出しそうな空の下を、すべてを忘れ一人きりになれる場所を目指し急いだ。

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