035 嵐の夜に死んだ恋人を探して(4)

 雨が降り出したのは小屋についてすぐだった。俺が部屋に入るのを待ちかねたかのように屋根を打った数滴の雨粒は、ほどなくして叩きつけるような驟雨に変わった。それからずっと降り続け、だいぶ勢いは弱まったが止む気配はない。庇のない窓には雨垂れがあとからあとから伝うのが見える。濡れそぼった空気が部屋の中まで浸みこんでくる気がする。


 明かりをつけない真っ暗な部屋。帰り着くなり俺は寝台に倒れ伏し、そのまま糸が切れたように動かないでいる。昼から何も食べていなかったが空腹はなかった。喉はからからに乾いていた。だが水を飲むために寝台から起きあがる気力はなかった。


 頭はぐちゃぐちゃのままだった。眠りたくて目を閉じても眠れなかった。何度追い遣っても雨に打たれる少女の姿が頭に浮かんだ。諦めたはずの舞台が粘性の毒のように心にこびりついて離れなかった。


 ふと、下の扉の鍵を閉めていないのに気づいた。どうでもいいようなことだったが、今夜に限ってそれは一つの意味を持っていた。……鍵を開けておくことは無言の意思表示になってしまう。そこまで考えて寝台から身を起こした。――だから部屋の入口を塞いでいる影に、俺はあまり驚かなかった。


「……ちゃんと返してきましたよ、会場の鍵」


 どこか咎めるような声でペーターは言った。闇に慣れた目に、彼女の髪から水が滴っているのが見えた。真剣な眼差しが痛かった。それでも俺は目を逸らさず、立ち尽くす黒い影を見つめた。


「変な顔してましたよ、会場の人。今日はリハーサルじゃなかったのか、って」


「わかったから……帰ってくれ」


 影が小さく震えるのがわかった。心を埋め尽くす負の感情がその濃さを増した。


「……先輩」


「……帰ってくれ。頼むから」


 断腸の思いで言った。だがペーターはいつまでも立ち去ろうとはしなかった。長い沈黙の中に雨の音が虚しく屋根を叩いた。先にその沈黙に負けたのはペーターだった。


「……先輩らしくないですよ。こんなの」


 絞り出すような一言だった。その声に非難の響きはなく、ただ俺への気遣いが痛いほどに感じられた。


「しゃんとしてくれないと困ります。舞台は明日じゃないですか」


「……帰ってくれ」


「裏方の人、来なかったんですね。でも準備はぜんぶできてました。あれは先輩がやったんですよね?」


「……頼むから帰ってくれ」


「受付とか、どうしても必要な裏方は代理を頼まないと。いきなり明日ですし、そろそろ当たらないと遅いですよ。やってくれそうな友だちなら何人か――」


「……帰れ」


「……何人かいます。手帳は家ですから、帰らないと電話かけられませんけど。先輩の方には心当たりありますか? オペレーションとかは無理でも、大道具の転換みたいなちょっとした仕事なら、引き受けてくれる人もいると思うんです」


「いいから帰れ!」


 叫んで立ち上がった。頭は真っ白で何も考えられなかった。俺はきっと酷い顔でペーターを睨んでいた。けれども彼女は動かず、きっぱりとした口調で「帰りません」と告げた。


「帰れ!」


「帰りません」


「帰れと言ってるんだ!」


 荒い足どりでペーターに歩み寄り、俺はペーターの肩を掴んだ。一瞬、華奢な身体が小さく震えた。彼女はそれでも真正面から俺を見つめるのを止めなかった。


「大丈夫です」


「いいから帰――」


「大丈夫ですよ、先輩」


「……」


 ペーターは微笑んでいた。それは嘲笑でも、憐れみの笑みでもなかった。高校の頃から見慣れた、いつもの微笑みだった。俺への信頼の証である、穏やかで優しい笑顔だった。


「舞台はできますよ、二人いれば。だって、あんなに練習してきたじゃないですか。二人でもやれます。私は最後まできちんと演技してみせます、先輩と一緒なら」


 全身の力が抜けていくのがわかった。肩を掴む手にもう力は入らなかった。ペーターの言葉が胸の奥に沁みた。一片の飾りも、その言葉には含まれていなかった。混じりけのない彼女の本心だけがあった。それがはっきりと理解できた。


「お客さんが一人でもいれば舞台はできるんです。そう教えてくれたのは先輩ですよ? 『一人の役者と一人の観客がいればそれで舞台は成り立つ』って、そう先輩は言ってました。ちゃんと日記にも書いてあります」


 そこまでだった。俺は膝から崩れ落ちた。そうして恥も外聞もなく、目の前に立つ少女の身体に縋りついた。


「……先輩?」


「……好きだ」


「え?」


「俺はお前のことが、好きだ」


「……」


 それきりペーターは黙った。俺は床に膝をつき、額に彼女の鼓動を感じながら同じように沈黙した。その鼓動はしばらく早鐘を打つように高鳴り、やがてゆっくりと元に戻っていった。


「――駄目ですよ、先輩」


「え?」


「そんなこと言ったら駄目です」


 両手で俺の身体を押し戻して、諭すようにペーターは言った。彼女が何を言っているのかわからなかった。俺の頭は再び真っ白になった。


「駄目って……何が?」


「劇団『ヒステリカ』規則第一条。忘れちゃったんですか? 先輩」


「……」


 ペーターは薄い微笑みを浮かべていた。俺は舞台の最中に台詞を忘れた役者のように何も考えられず、何も言えなかった。即興劇団『ヒステリカ』規則第一条。団内の恋愛を固く禁ずる。右に違反した者は即刻退団――


「大切な決まりなんですよね? みんな守らないといけない。それなのに駄目じゃないですか。先輩がそんなこと言ったら」


「……そう、だった」


 何も考えられないまま、震える声で俺は返事をした。ペーターは優しい目で俺を見おろしていた。その顔が、ゆっくりと降りてくるのが見えた。


「ん……」


 柔らかい感触あった。合わさった唇の間から短い吐息が漏れた。ペーターの顔が目の前にあった。彼女は――俺たちはキスをしていた。


「好きです……私も」


 いったん唇を離してそう囁き、ペーターはまたついばむように唇を合わせてきた。俺の頭に手をまわし、髪をくしけずりながらキスを続けた。


 長いキスを終え、ようやく唇を離したとき、俺は寝台に横たわっていた。ペーターは俺の肩のあたりに頬を当てて、覆い被さるように寄り添っていた。彼女の服はまだ湿っていたが、あまり気にはならなかった。ときどき思い出したように俺を見つめてくる顔が、いつもとはまったく違う色に光って見えた。


「本当は振るつもりだったんですよ」


「え?」


「先輩に告白させて、振るつもりだったんです、私」


「……そうか」


 頭はだいぶ落ち着いていたが、まだまともに動いてはいなかった。それでもペーターの言うことは何となく理解できた。数年来の謎が解けた気がした。彼女はずっとそういうつもりで俺に接していたのだ。


「なら、どうして?」


「……」


「どうして、そうしなかったんだ?」


「……よくわかりません」


 ペーターは瞼を閉じた。そして心臓の音に耳を澄ますように少しだけ頭をずらした。


「最初はそうするつもりでした。先輩は私を傷つけるから。ずっと酷いことばかりしてたんですよ、高校の頃から。知ってますか? 先輩」


「……知ってる」


「だからお返しに。先輩から告白させて、酷い振り方をして傷つけるつもりだったんです。ちょうど今みたいな場面で。先輩が二度と立ち直れないように」


「……そうか」


 背筋が冷たくなるのを感じた。たしかにそれは恐ろしい復讐だった。さっき彼女から手厳しい言葉を浴びせかけられていたら俺はどうなっていたかわからない。逆上して彼女を犯すか、あるいは頭がおかしくなっていたかも知れない。


「立ち直れなかった。それされてたら」


「……そうですか?」


「惜しかったな。もう一歩のところで」


「……そうですね。でも、もういいんです」


「どうして?」


「好きだからです。先輩のことが」


「……」


「先輩から告白させて振るつもりでした。だから先輩に好きになってもらうために今まで頑張ってきました。そうやっているうちに、私の方がいつの間にか」


 そう言ってペーターは俺を掴む手に力をこめた。そこで初めて俺の心に、昨日の夜の気持ちが戻った。彼女を愛しく思う気持ちが、にわかに心に広がっていくのがわかった。


「先輩のことが好きです。だから、もういいんです」


「……そうか」


「ずっと好きでした。それは嘘じゃありません」


「わかってる」


「もう一度聞かせてください、先輩の気持ち」


「……好きだ」


「……」


「俺はお前のことが、好きだ」


 遊んでいた腕をペーターの背にまわした。わずかに湿った服の下の身体は、思ったよりもずっとたおやかで女びていた。穏やかに上下する背中も。二人の間で窮屈そうにしている胸も。


 ――車の排気音が聞こえた。濡れた窓に薄ぼんやりとした光が映った。雨道を滑るタイヤの音がゆっくりと近づき、停止した。そうしていつものように、重々しいアイドリングが窓をノックする。時計は十二時を指そうとしていた。魔法の解ける時間だった。


 だが俺たちは動かなかった。真っ暗な部屋の中に身じろぎもせず、息さえ殺して時が過ぎるのを待った。困惑した運転手の顔が頭に浮かんで、消えた。永遠のように感じられる短い時間があって、車の音は雨に濡れる夜の町に吸いこまれていった――

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