036 嵐の夜に死んだ恋人を探して(5)
「……雨、止みませんね」
「ああ。朝まで続くかもな、この分だと」
ペーターの身体が俺の腕の中に小さくうごめいた。二人の間にあるものが柔らかくその形を変えた。部屋を満たす闇が少しだけ濃くなった気がした。
「したい、ですか?」
掠れる声でペーターは言った。そうしてまた少し身体を動かした。もうずっと固いままでいるペニスが柔らかい谷間に落ち入るのを感じた。それが彼女の脚のつけ根であるのに気づいて、一気に気持ちが高ぶるのを抑えられなかった。
「いいですよ、しても」
「……」
「したくないですか?」
「……したいよ」
「それなら、してください。私、先輩にあげるって決めてましたから」
素直にペーターを抱きたいと思った。二人で服を脱がせあってまた暗闇の中に抱き合い、ゆっくりと時間をかけて彼女と一つになりたいと思った。それは決して小さくない衝動だった。けれども俺は背に回していた腕の片方を離し、それで優しく彼女の頭を撫でた。
「……しない」
「どうして?」
「今は、やめておく」
それだけ言って俺はペーターの顔を引き寄せ、また唇を合わせた。触れるだけのキスをしばらく続けた。彼女の中に入りたい衝動は心に渦巻いていたが、そうするのはやはりどうしても明日の舞台を終えてからだった。その気持ちが伝わったのだろう。唇を離したあと、ペーターはもう何も言わなかった。
――雨の音が聞こえた。夏の夜の町を濡らす温かい雨。恋人になったばかりの人を腕に抱き、澱んだ青い闇を眺めながら、俺は真夜中の海に浮かんでいるような感覚を覚えた。航海の途中に船が沈み、板の切れ端にしがみついて生温い水に半身を浸し、星のない空の下を二人きりたゆたっている気持ちがした。そんな不安定な身空で、俺たちは抱き合ったまま何もできないでいる。せめて一つになりたいと互いに願いながら、そうすることができずに見えない明日を思っている……。
「どうしてですか?」
「ん?」
「どうして今は駄目なんですか?」
拗ねるようなペーターの呟きに俺は心の中で苦笑した。そんなことは彼女の方が俺よりもずっとよくわかっているはずだった。それなのにペーターはわざわざそれを俺の口から言わせたがる。女はちゃんと言葉になったものでないと何も納得できないのだと誰かが言っていたのを思い出した。
「夜が明けたら舞台だろう」
「え?」
「舞台を成功させて、それからでないと」
俺の言葉に、なぜかペーターは露骨に驚いた顔をした。何か違和感があった。その違和感を裏打ちするように、彼女の唇からまた一つ台詞がこぼれた。
「いいじゃないですか、そんなの」
「……よくない。けじめだ」
「……そうですか」
そう言って彼女は目を伏せた。俺よりも強く舞台の成功を願うペーターの言葉とは思えなかった。……それでも長い年月の果てに、こうして気持ちをたしかめあった夜であることを考えれば、それも無理はないのかと思った。彼女にとっては――そして俺にとっても、今夜は三年越しの思いが叶った夜に違いないのだ。
「でも、これで始まったんですよね」
「……ああ。始まった」
「……よかった」
そう、これで俺たちは始まった。今まで延々と回り道を続けて、ようやくこうして巡り会うことができた。これから俺たちはずっと手を繋いで歩いていける。この夜が明ければ。明日の舞台が成功に終われば――
「本当は私、舞台とかどうでもよかったんです」
「……?」
耳を疑った。ペーターが何を言ったのかわからなかった。そんな俺に構わず、彼女はなおもその告白を続けた。
「昨日、先輩は言いましたよね。私は強くなった、って。舞台が駄目になりかけているのに、どうしてそんなに気持ちを強く持っていられるのか、って。でも、それって当然なんです」
「……当然?」
「だって、私は舞台とかどうでもよかったですから。それに、先輩と二人きりの舞台というのにも興味があったし」
そう言って微笑むペーターに、俺の中の違和感はみるみる膨らんでいった。どこかで歯車がかけ違っている気がした。そんな印象を拭おうと、俺は慎重に言葉を選んだ。
「……そんなわけないだろう。いつもあんなに一生懸命やってたじゃないか」
「練習のことですか?」
「練習もそうだし、他にも舞台に向けて凄く一生懸命にやってただろう、おまえは」
「やってましたね……。自分でもびっくりするくらい一生懸命やってました。……でもいいんですよ。舞台のためにそうしてたわけじゃないですから」
「舞台のためじゃないって……じゃあ、何のために?」
「先輩に振り向いてもらうために決まってるじゃないですか」
「――」
思わず絶句した。かけ違った歯車が異様な音を立てて回り始めるのを感じた。俺の胸に頬を押しあてるペーターは、さっきと変わらない幸せそうな微笑みを浮かべ、ぼんやりと闇を眺めていた。だが俺の方ではもう、彼女の顔をさっきと同じ気持ちで見つめることはできなかった。
「先輩はいつも言ってましたよね。努力してる人が好きだ、って。周りが見えなくなるほど何かに一生懸命になってる人が好きだ、って。だから私は、そういう人になろうと高校の頃に決心して、今日までずっとそれでやってきたんです」
「……演劇が、好きじゃなかったのか?」
「え? 別に好きとか嫌いとかないですよ? 先輩と共有できるものが演劇しかなかっただけです。私の一生懸命を見てもらうには他にないじゃないですか。そもそも私と先輩を結びつけてくれたのも演劇でしたし」
俺の中で崩れ落ちていくものがあった。ペーターの言葉が嘘や冗談ではないことがわかって――それが混じりけのない彼女の本心であることが理解できて、俺の頭はまたぐるぐると迷走を始めた。
「……ヒステリカに入ったのも、それが理由か」
「もちろん、そうです。今だから言っちゃいますけど、去年に先輩に書いていた手紙、あれ少しだけ嘘を書いてるんです。本当は三年になってからは、私あまり部活に出てなかったんですよ。どうしても張り合いがなくて、先輩のいないところだと」
「……高校にも行ってなかったんだろう」
「え? そうですね、あまり行きませんでした。行く意味がないと思って、勉強もそんなに好きじゃないし。あ、でも家ではちゃんと勉強していましたよ? 先輩のいる大学には入りたかったですから……」
俺を掴むペーターの手に少しだけ力が入った。けれども俺の心にはもう何のときめきもなかった。そればかりか黒い渦が沸々と湧き起こってくるのがわかった。上に乗っている華奢な身体を重くわずらわしく感じた。
「今回のことは、私にとって幸運でした」
「……」
「アイネさんたちが消えていって、先輩が辛そうにしているのを見て、チャンスだと思ったんです。ここで頑張ればきっと振り向いてもらえる、って。それがわかったんです。だからいつもより一生懸命にやりました。たぶん今までの人生で一番、本当に一生懸命にやりました、私」
「……」
「もともとヒステリカとか、どうでもよかったんです。あ、でも明日の舞台は楽しみに思ってますよ? だって先輩と二人きりの舞台ですから。そういうのができたらいいな、って前から夢見てましたし。実現するとは思ってませんでしたけど。何だか怖いくらいですね。今まで思い描いていたことがみんな叶って――きゃっ」
小さな悲鳴があがるのを聞いた。俺は寝台の上に身を起こしていた。ペーターは床の上に倒れて頭を押さえていた。不思議そうに見開かれた目が、ゆっくりとこちらに向けられた。
「……え?」
「……帰れ」
「どうしたんですか……先輩?」
「……いいから帰れ」
急き立てる低い声が他人のもののように聞こえた。亡霊を見るような目でペーターは俺を見ていた。
「そんな……どうして」
「……早く帰れ」
「ごめんなさい……何か失礼なこと言いましたか? 私、全然そんなつもりは――」
「いいから黙って帰れ!」
怒号にペーターは小さく身を竦めた。そうして縋りつくような目を俺に向けた。その身体は震えているようにも見えた。だがそんな彼女に俺はもう何も感じなかった。
「ご……ごめんなさい。でも聞いてください、先輩」
「俺は何も聞きたくない! 早くこの部屋から出ていけ!」
「そんな……酷いですよ。せ……せめて訳くらい」
「いいから出ていけ! もうおまえの顔は見たくない!」
また一つ、ペーターは身を竦めた。それから今度は夜目にもはっきりと震え始めた。虚ろな双眸が湿りきった闇を泳いでいた。俺は寝台から立ちあがり、荒々しい足どりで彼女に近づいた。
「すぐにこの部屋から出ろ。そして二度と俺の前に姿を現すな」
「……え?」
「え? じゃない。早くしろ」
「……何を言ってるんですか? 聞こえませんよ、先輩」
「ならちゃんと聞こえるように言ってやる。すぐにこの部屋から出ろ。そして二度と俺の前に姿を現すな」
一言一言、耳元ではっきりと告げた。光を失った目がすぐ傍にあった。さっきまで口づけを交わしていた唇が震えていた。頭から足先まで全身、ペーターは熱病のように小刻みに震えていた。
「……なかったんですか?」
「ああ?」
「始まったんじゃ、なかったんですか?」
「……」
「これで私たち、やっと始まったんじゃ、なかったんですか?」
「もう、終わった」
「……え?」
「もう終わった! 早くこの部屋から出ていけ! そして二度と俺の前にその薄汚い顔を見せるな!」
吐き捨てるように俺は言った。「そうですか」と、かすかな声が聞こえた気がした。ペーターは亡霊のように立ちあがると、よろめきながら部屋を出ていった。
何かが階段を転げ落ちる音が聞こえた。それを無視して、俺は寝台に身を投げた。
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