037 嵐の夜に死んだ恋人を探して(6)

 黒い感情が身体の隅々まで行き渡っているのがわかった。嘔吐して、中にあるものをすべて出してしまいたくなるような、堪らなく嫌な気分だった。


 ペーターの裏切りが許せなかった。それも今になっての話ではない。これまで過ごしてきた長い年月、ずっと俺を――俺たちを裏切り続けてきたことが許せなかった。ペーターにとって演劇はただの手段に過ぎなかった。俺を振り向かせるための……そして当初の予定では、拒絶して俺を傷つける復讐のための。


 高校の演劇部での二年間、そしてヒステリカでのこの半年、あいつはそんな不純な動機で演劇をしてきたのだ。誰よりも一生懸命な振りをして、俺も周りの人間も……真面目に演劇に打ちこむみんなを騙し続けて。俺はそんな彼女の演技を素晴らしいものだと思い、かすかな嫉妬すら覚えていた。それが悔しかった。


 そう、俺はそれが何より悔しかった。あいつは自分の演劇を否定することで、俺の演劇をも否定したのだ。……それもそのはずだった。高校二年の春に出会ってから今日まで、俺の演劇生活の中には常に彼女がいた。離れていたヒステリカでの一年間も、いつだって彼女の演技を意識していた。俺にとって……彼女の演劇は一つの理想だったのだ。だから振り払うことができなかった。……いや、違う。だから俺は、きっと自分からも望んでペーターと一緒に演劇をしてきたのだ。


 怒りに支配されていた心に、すっと悲しみの影が差した。涙を流したくなるような辛く切ない悲しみだった。昨日まで気づかなかった――気づかないふりをしていた感情。彼女を誰よりも大切に思う気持ちの残骸が胸に痛かった。辺りにはまだ甘いミルクのようなペーターの匂いが残っていた。初めて彼女としたキスの柔らかさが、まだ唇に残っていた。


 雨の音が聞こえた。泣き濡れる夜の町を窓の外に見つめた。その闇の中に傘もささず彷徨い歩く少女の姿を思い描いて……こみあげてくるものを躍起になって押し殺した。――もう終わったことだ。俺にはもう関係のないことだ。そう自分に言い聞かせて……それでも俺は、また彼女のことを考えた。


 なぜペーターはあんなことを言ったのだろう、と思った。なぜ今日この場で、隠し通してきたことを洗いざらい喋ったのだろう……それがわからなかった。彼女が喋らなければこんなことにはならなかった。優しく抱き合ったまま朝を迎え、二人きりの舞台を立派にこなし、そうして今まですれ違ってきた時間をこれから取り戻していくはずだった。


「演技なら、ちゃんと最後まで演じきれよ……」


 思わずそう独り言ちた。……どうせなら最後まで騙されていたかった。そう思って、そんな自分をまるで悪い男にかかった少女のようだと感じて、自嘲の笑いを浮かべようとして――浮かべられなかった。


 これですべてが終わった。半年間かけて創ってきた舞台は、結局生まれ落ちる前に流れてしまった。もう俺にできることは何もない。もっとも……諦めはすでに済ましたのだ。誰も来なかったリハーサルのホールで、声もなく肩を震わせて泣いて。


 ――俺を励ますペーターの幻影が頭の中に浮かんで、消えた。


 もう励ましてくれる人はいない。いたとしても、俺が彼女の言葉によって励まされることは、もう二度とない。みんなで創ってきた舞台を踏みにじるような、そんな不純な動機で動いていたペーターを許すことはできない。……あいつは不純な動機で動いていたことをずっと隠していたのだ。その不純な動機で俺を励まし、崩れそうになる舞台を必死に支え、たとえ二人でも舞台を成功させようと――


「……頑張っては、いたんだ」


 胸が痛んだ。この一週間、あいつは本当に頑張っていた。舞台を成功させるために俺たちの誰よりも頑張っていた。その一つ一つを思い出して、締木にかかったように胸が痛んだ。あまりの痛さに息が苦しくなり、俺は寝台から身を起こした。


「――」


 不意に――高校の頃の記憶が蘇った。それは今朝に見た夢の続き、三年前の彼女との会話だった。


◇ ◇ ◇


『俺は悪いとは思わないよ』


『え?』


『その子のことを別に悪いとは思わない』


『でも、バスケが好きでやってるんじゃないんですよ?』


『そっちこそいつか言ってただろう。きっかけなんて大したものじゃないって』


『それは言いましたけど。でも憧れの先輩に振り向いてもらいたいからなんて、動機が不純じゃないですか?』


『何の問題もない。動機なんて多かれ少なかれそんなもんだ』


『本当にそう思ってますか?』


『ああ、本当にそう思ってる。大事なのはその子がバスケを始めたことだ。もしその先輩ってのがいなくて、振り向いてほしいって気持ちがなかったら、その子はきっとバスケ部に入らなかっただろ。それならそれで別の部活に入ったかも知れないけど、どこの部活にも入らず、ただ漫然と生活を過ごした可能性だってあるだろ』


『……そうかも知れません』


『でもその子はバスケ部に入った。そうしてその先輩に振り向いてもらうために頑張るようになった。最初はバスケが目的じゃなかったとしても、そうして頑張る中でバスケのことを好きになる可能性はある。いや、きっと好きになるはずだ。その不純な動機があったからだ。そこで一歩を踏み出したから、その子は一つのことに頑張ることができた。そうじゃないか?』


『頑張れるなら不純な動機もあり、ってことですか』


『俺はそう考える。モテたいから演劇やるなんて理由で入部してくれるやつがいたら大歓迎だ。きっとそのために一生懸命になるだろうからな。不純な動機でそいつが一生懸命になれるなら、それはもう不純な動機じゃなくて、充分に純粋な動機だと俺は――』


◇ ◇ ◇


 転がるように階段を駆け下りた。


 真っ暗なホールに人の気配を探し、ないことをたしかめて扉を跳ね開けた。靴の紐を締める手ももどかしく、傘もささず行く先もわからないまま、殴りつけるような雨の降りしきる真夜中の町に駆け出した。


 ――あいつはちゃんと動いていた。舞台を成功させるために自分にできることをした。投げやりになった俺を励まし、たとえ二人でも舞台を作ろうと言った。……それは不純な動機によるものだった。だがそれのどこがいけないんだ!


 あいつは舞台のために動いていた。舞台を成功させたいという一点において、あいつの動機は純粋だった。壊れた欠片を拾い集め、それを貼り合わせるように頑張っていた。あいつはたしかに舞台を成功させるために頑張っていた!


 それに引き替え俺が何をした! 希望のない舞台のためにいったい俺が何をした! 手をこまねいていただけじゃないか! もう駄目だと諦めて自暴自棄になっていただけじゃないか!


 今度は俺が支える番だ。酷い言葉で傷つけてしまったのなら償えばいい。あいつが欲しいと言うのなら、この俺をそのままくれてやればいい。そんな役なら喜んで引き受ける! あいつの三年分の思いを引き受けて、これから長い長い時間をかけて償えばいい!


「はあ、はあ……。く……くそ」


 心当たりなどなかった。行くあてもないまま、俺はただ雨の町を闇雲に駆け抜けた。疲労のために両脚が痙攣し、肺も心臓も悲鳴をあげ続けていたが走らずにはいられなかった。この夜の町のどこかにペーターが一人で泣いていると思うと矢も楯もたまらなかった。


 ……心当たりなどなかった。だが閉ざされた金網を越え、大学の構内に入った俺は、導かれるようにその場所を目指した。何の根拠もなかった。それは不確かな希望でしかなかった。それでも――いた。外灯の消えた漆黒の庭園に、追い求めた彼女はいた。


 ペーターはそこにいた。両手をだらりと下げ、ずぶ濡れの服を身体に張りつかせて、呆然とした表情で立ち尽くしていた。……すぐには声がかけられなかった。けれども意を決して俺は口を開いた。


「……ペーター」


 反応はなかった。彼女は暗闇を見つめ、小さく唇を動かして何かを呟いているように見えた。――あるいは『発作』を起こしているのかも知れない。この状況で『発作』を起こしているのなら、それは相当やっかいなことだと思った。


「ペーター!」


 大声での呼びかけに、ようやく彼女は顔をこちらに向けた。俺は駆け寄ろうとして……その場で足を止めた。正確には足が止まった。ペーターは笑っていた。ぞっとするほど虚ろな表情で、声もなく彼女は笑っていた。


 ――それでも俺はゆっくりと彼女に歩み寄った。手を伸ばせば触れることのできる場所まで近づき、そこで改めて彼女に向きなおった。


「ごめん……。俺、おまえに酷いこと……」


 ずっと伝えたかった気持ちは、けれどもうまく言葉にならなかった。言いながら俺は、雨に濡れたペーターの身体を抱き締めようと手を伸ばした。


「だれですか?」


「え……?」


「あなたは、だれですか?」


 きょとんとした顔で小首を傾げ、平坦なたどたどしい口調でペーターは言った。やはり『発作』を起こしているのだと思った。だが次の瞬間、金属どうしが無理に引きずられるような耳障りな音が周囲の空気を震わせた。


「きぃやぁあぁあぁあぁ――」


 鼓膜が破れるほどの絶叫の裏に、あどけなく笑うペーターの顔があった。笑いながら彼女は泥を跳ねあげて走り出した。……転んだ。起きあがりこちらを見て、また螺子が外れたような凄まじい叫び声をあげた。


「きぃやぁあ――ぁ――あ――」


「くっ……!」


 ペーターを追って俺もまた駆け出した。彼女は逃げた。ときどきこちらを振り返って笑顔を見せ、そのたびに絶叫して俺の心を凍らせながらペーターは逃げ惑った。


「きやぁああ――ぁぁ――ああ――」


 何度も地面に転び、泥だらけになって彼女は逃げ続けた。俺は必死で追いかけた。文字通り全力で、息を切らして走り続けた。……だが追いつけなかった。どれだけ走っても、転んだ彼女に駆け寄っても、俺はその身体に手を触れることができなかった。……こんな不思議なことがいつかどこかであった気がした。思い出せないまま俺は、がむしゃらにペーターの背中を追い続けた。


「はあ、はあ、はあ。くっ……ペーター!」


 追いながら繰り返し彼女の名前を呼んだ。それに答えるように彼女は繰り返し絶叫した。雨水と泥と、二つの叫びをまき散らしながら俺たちはぐるぐると庭園を回った。ぐるぐると、ぐるぐると。鬼ごっこは永遠に続くかと思われた。


「……!」


 だがそれは唐突に途切れた。ペーターの方で逃げるのを止めたのだ。庭園の中央に立ち、苦しそうに肩で息をしながら、彼女は思い出したようにこちらを振り返った。


「ほら……聞こえませんか?」


「……え?」


「よく耳を澄ましてください。……聞こえるでしょう?」


 片手を耳にあて、神妙な表情をつくってペーターはそう言った。俺は彼女に近づきながら、同じように手をかざして耳を澄ました。


「……何も、聞こえない」


「そんなはずないですよ。……ほら」


「それよりも聞いてくれ、俺は――」


 ――ぱん。


「ぎっ……」


 太腿を殴られたような衝撃があった。咄嗟に目を遣った。濡れたジーンズに穴が空き、その周りに色の濃い沁みがみるみる広がっていくのが見えた。時間遅れの反射のように、激痛が背筋を抜け全身を突き抜けた。


「きいゃぁあああ――ああぁぁ――」


 苦痛の呻きは彼女の絶叫に掻き消えた。ぎこちない姿勢で固まったまま頭をあげた。ペーターは笑っていた。手にしたデリンジャーを振りまわし、絶え間なく獣じみた声で叫びながら、子供のように無邪気に彼女は笑っていた。


「ペーター!」


 腹の底から精一杯の声で叫んだ。


「ペーター! ペーター! ペーター!」


 ありったけの声で叫んだ。彼女への思いを、焼けつくような腿の痛みを、何もできない自分への怒りをこめて何度も叫んだ。喉が破れるほどに、血が出るほどに、壊れた機械のように俺は叫び続けた。


「――どうして?」


 か細い声が耳に届いた。俺は叫ぶのを止め、声のした方を見た。悄然と立ち尽くすペーターを見た。その顔にはもう、さっきまでの笑いはなかった。


「どうしてですか?」


 そう呟いて、彼女はまた笑った。……悲しそうに笑った。泣き腫らした少女の幼気な目で――今までとはまったく別の目で俺をじっと見つめた。


「どうして、酷いことばかりするんですか?」


「……ごめん」


「どうしてですか?」


「……」


「どうしてそんなに、簡単に謝れるんですか?」


「本当に、悪いと思ってる。ごめん!」


「そうやって謝っておいて、またすぐに酷いことをするんじゃないんですか?」


「な……しない!」


「しますよ」


「もう絶対にしない!」


「絶対にします。だって、今までずっとそうでしたから」


 泣き笑いの顔で、突き放すようにペーターは言った。彼女の頬を一筋の水が伝い落ちていった。それが雨なのか、それとも別のものなのか、俺にはわからなかった。


「もう、しない」


「……信じられませんね」


「もう二度と、俺はおまえを傷つけない」


「来ないでください」


 一歩を踏み出そうとした俺に、デリンジャーの小さな銃口が向けられた。


「それ以上、近づいたら撃ちます」


「ずっと大切にする。約束する」


「駄目ですよ。もう手遅れです」


「そんなことはない! これからいくらだって――」


「もう壊れましたから。もう……何もかも」


 そう言って笑うペーターの目から、はっきりと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……ずっと壊さないでいてくれました。先輩は私に酷いことばかりしたけど、それだけは……ずっと大切に壊さないでいてくれた。だから私は……本当は。……でも、もう駄目ですね。もう元には戻りませんから。壊れてしまったものは、もう元には戻りませんから」


 ペーターの手が動いた。銃口がその向きを変えた。反射的に走り出そうとして、腿の激痛に脚が――


 ――ぱん、と小さな音がして、彼女の胸から赤いものが舞った。


 俺は何かを叫びながら狂ったように駆け寄った、倒れようとする身体をしっかりと抱きとめた。抱きとめた身体から、頭と両腕が力なく垂れ落ちた。


「……ペーター?」


 淡く膨らんだ胸から、温かい血が泉のように溢れていた。もうペーターは、息をしていなかった。俺はきょろきょろと辺りを見回した。そこにはただ、闇を濡らす雨があるだけだった。


 腕の中に目を戻した。――そこには何もなかった。赤い血も拳銃も、死んでしまった恋人の身体もなかった。何もなかった。


 そこには、もう何もなかった。


 俺は立ちあがり、もう一度周囲を見回した。そこにも、もう何もなかった。四方を覆い尽くす濃く深い闇。その闇の中から、圧倒的な虚無が押し寄せてきた。虚無は毛穴から入りこみ、血に溶け身体の隅々まで染み渡っていった。


 すべてが終わった。……これで本当に誰もいなくなった。そう思い、どこまでも空虚な安らぎにも似た気持ちを抱いて、俺という存在は髪の毛一本に至るまで、残すところなく虚無に呑みこまれて、消えた。

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