019 集団催眠(6)
小屋には先客がいた。黒い扉の前、雨垂れの滴り落ちる軒下に、幾分もの憂げな顔をしたキリコさんが一人佇んでいた。
「今日は早いですね、キリコさん」
「そっちはようやくのお出ましで」
「こんな早いと思わなかったから……」
「いや、いいんだよ。早く来すぎたあたしが悪いんだ。苦戦してた論文が昨日ようやく形になってね。時間ができたもんだからつい急ぎすぎたよ」
キリコさんはそう言って自嘲気味に笑った。途中で雨に遭ったのか肩のあたりが濡れ、髪の先から水が滴っているのが見えた。
「すぐに開けますよ」
俺はそう言ってジーンズのポケットに手を突っこみ、そこで動きを止めた。……そう言えば鍵はなかったのだ。変なことばかり続くせいか、どうも最近物忘れが激しい気がする。
「どうしたんだい?」
「あ、いやその。……実は鍵、人に預けてあるんですよ。届けてくれることになってるんで、もう少し待ってもらえますか?」
「ふうん。そうかい」
俺は傘を畳んでキリコさんの隣に並んだ。鍵は大学で受けとるつもりだったのだがペーターは顔を見せなかった。昨日はあまり眠れなかっただろうから、練習まで家で休んでいるのかも知れない。いずれにしろスペアはないし、彼女が来るまで小屋の中には入れない。
「鍵は誰が持ってくるんだい?」
「え? ああ、ペーターだけど」
「おや、そっちか。ちょっと予想が外れたね」
「? 予想って何ですか?」
「そんなの皆まで言わなくてもわかるだろ?」
わからないから聞いているのにキリコさんはそんなことを言う。それでも少し考えて、俺は彼女の考えていることがわかった。酷い誤解だった。自然と顔が赤くなるのを感じた。
「あのですね、キリコさん……」
「いいんだよ。よく決断したね」
「だから違うって――」
けれどもキリコさんは首を横に振り、俺にその先を言わせなかった。
「謝らなきゃならないのはあたしらの方さ。あんな道理に合わない決まりを、あんたたちにまで押しつけちまって」
「違うんです、決まりを破ったわけじゃ――」
「あの決まりはね」
力強いキリコさんの一言が俺の弁明を断ち切った。
「……あの決まりはね、もともとあたしらが劇団にドロドロを持ちこんで、これじゃいけないってんでできた決まりなんだよ」
「……」
「覚えてるかい? あんたが最初にあたしらの芝居を観に来てくれたときのこと」
「……覚えてます」
俺はその舞台を覚えている。夏の終わりの暑い日の夕暮れ、縁日に賑わう出店の裏で人知れず催されていた舞台。そこで俺は初めてヒステリカに出会い、心を奪われて今に至る。その思い出の舞台を、俺が忘れるはずはない。
「もちろん覚えています」
「ちょうどその頃だよ。とんだ性悪女がヒステリカにいたのさ。みんなから祝福される恋人が団内にいたんだが、他の男にも色目を使うようなことしてね。言ってみれば二股だ。しかもその相手ってのも団員だったから始末に負えない。もうこれ以上ないくらいに荒れに荒れた。酷かったね……あれは。もう思い出すのも嫌だ」
キリコさんはそう言って目を伏せた。俺は何も言えずに彼女を見つめた。
「団員はどんどん辞めていった。その性悪女が真っ先に辞めりゃ良かったんだけどね、そいつは辞めずに残った。何でかって言えば、その女は二股を罪とは感じてなかったんだとさ。自分は何も悪くないのに辞める必要はない、って意地になって居座った。周りは彼女を追い出せなかった。恋愛の形はひとつじゃない、ってのがその女の抗弁だった。女だてらに弁が立ったから誰も言い返せなかったんだよ」
「……それで、あの決まりですか」
「そういうこと。団内での恋愛それ自体を禁止にすることにしたのさ。もう滅茶苦茶もいいところだろ? そのうちに当の本人たちはいなくなって、形ばかりの決まりが残った。その大層な決まりは新入団員の防波堤としてはよく働いてくれた。もうこれで劇団も終わりか、と諦めてたところへあんたたちが来てくれた」
そこでキリコさんは伏せていた目をあげ、顔をこちらに向けた。慈しむような優しい眼差しが俺を捉えた。
「ところがあんたたちときたら、理不尽な決まりに腹を立てて出ていかないばかりか、今日の今日までそいつを守り通してくれた。それも、芽がなくてのことじゃない。ちゃんと芽はあったのに、そいつを踏みつけて抑えこんで。……それがあたしらにとって、どんなに救いだったかわかるかい?」
そう言うとキリコさんは息だけで軽く笑った。そして笑い終えると薄い笑みを浮かべたまま、小さくひとつ溜息をついた。
「嫌いになりかけたこともあった。ヒステリカばかりじゃない、それに懸けてた長い時間そのものをね。でもそうした日々は間違いじゃなかったんだって、あんたたちがそう教えてくれたんだ。……だからあの決まりはいいんだよ。もう何も気兼ねなんてしなくていい」
長い呪縛から解き放たれたような穏やかな笑顔でキリコさんは告げた。その目がわずかに潤んでいるのを見て、俺はそれで言うべきことを言えなくなってしまった。そんな俺の様子をどう取ったのか、キリコさんは俺の肩をぽん、と叩いた。
「あの子はいい子だよ。純粋で穢れを知らない。純粋すぎて怖いところもあるけどね」
「ああ……いや、ええとですね」
「まあそのあたりはハイジの方がずっとよく知ってるだろうけどさ。それでもひとつ。少し長く生きてる分、先輩としてアドバイスさせてもらっていいかい?」
「……はい、お願いします」
「あの子は、傷つけたらいけない。あの子の純粋さは、曇りのない透明なガラスと一緒なんだ。うっかり手を離して床に落としただけで粉々に壊れる、そういう類の脆さを持ってる。あの子に降りかかる火の粉の楯になってやらなくちゃいけない。そしてあんたは、たとえどんなことがあってもあの子を傷つけちゃいけない。……そんなところかね」
同意を促すように目配せするキリコさんに、俺は黙って頷いた。あらぬ誤解を抜きにすれば、それは俺が心の中に持っているペーターの認識そのものだったし、恋人ではないにしても、彼女と同じ時間を過ごす上で避けては通れない道がそこには含まれていたから。
「アイネちゃんの方はあたしに任せてもらえるかい?」
「――え?」
「どうしたってフォローは必要さ。あんたたちが動くわけにもいかないだろうし、まあここはあたしに任せておいとくれ。この手のごたごたが起こったときの手管ってものを最後に教えてやろうじゃないか。大船に乗った気でいてくれていいよ?」
「いや、キリコさん実はですね――」
俺がそう言いかけたのと、小屋の前に黒塗りの車が停車するのが同時だった。「あたしは何も聞いてないからね」と小声でキリコさんが呟いた。横目に見る彼女の表情は、鍵の到着を待ちくたびれたような疲れたものに変わっていた。……要するに、さっきの会話は二人だけの秘密ということだ。
「ごめんなさい、鍵ですね。預かってたのに遅れちゃって」
慌てて車を降りてくるペーターを眺めながら、まあ練習のあとで説明すればいいか、と仕方なくそう思った。
◇ ◇ ◇
三人が小屋に入ってから一時間が経った。四時五十五分。練習開始まであと五分を残すのみとなった小屋は、何ともいえない重苦しい雰囲気に包まれていた。
一言も喋らないままに耳にあてた携帯電話をおろして畳むキリコさんの姿が見えた。さっきから彼女はそんな虚しい動作をもう何度となく繰り返している。その隣に座るペーターも不安そうな顔を覗かせ、そわそわと落ち着かない様子を見せている。きっと俺も似たような顔で、似たような素振りを示しているのだろう。
俺たちがそうするだけの理由はあった。アイネが来ていない。練習開始五分前に彼女が姿を見せないというのは、普通では考えられないことだ。アイネはいつも練習の三十分前に来る。その時間は儀式と言っていいほど遅れもしなければ早まりもしなかった。今までずっとそうだった。その彼女が、今日に限って練習が始まる五分前になっても来ない。
キリコさんの視線がちりちりと肌に痛い。当然のむくいだった。彼女の頭に組み上がった構図からすれば、そうやって俺を睨むのはむしろ自然なのだ。……だが現実には違う。その弾劾はまったくの見当外れだ。俺とペーターとの間に新しい関係が始まったなどという事実はどこにもないのだから。
いっそそのことを洗いざらい話してしまおうと、さっきから何回思ったかわからない。けれども踏み切るには至らなかった。今この場でそれをキリコさんに明かして、彼女はどう考えるだろう? 結果はわかりきっている。新しい誤解と憶測を生むだけだ。
朝の電話と小屋の前での会話は、なりゆきとはいえ嘘に説得力がありすぎた。彼女はすっかりその嘘を信じこんでしまっている。それに事実を正確に伝えきるには、昨夜のあの不思議な出来事まで信じてもらわねばならないのだ。……そんなことできるはずがない。ただでさえ荒唐無稽な話を、こんな状況で話して信じてもらえるはずがない。
だがもう限界だった。息詰まる沈黙に俺はもう耐えきれなくなった。誤解を深めてもいい、嘘つきと罵られてもいい。それでも事実を事実としてキリコさんに聞いてもらいたい。決意をこめて俺は立ちあがった。
扉が重い音を立てて開き、隊長が中に入ってきたのはそのときだった。入って来るなり隊長は口を開いた。
「さて、では早速始めるとしようか」
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