072 隠された小部屋(1)

 風が鳴っている。


 夜になって吹き始めた風は刻一刻とその激しさを増し、今では文字通り砂嵐となって真夜中の砂漠に吹き荒れている。


 壁の破れ目からはひっきりなしに砂が舞いこみ、天井を見つめる俺の顔にも砂粒や小さな石の破片が降りかかってくる。城壁が風を切る音も生半可ではなく、ほとんど轟音に近い。


 だが寝台に仰向けになる俺がいつまでも眠りに就けないのは、顔に降る砂のためでも風の音のせいでもない。


 あのあとすぐ向かった『保管庫』、ウルスラにもらった物資を隠しておいた瓦礫の下には、空になった段ボール箱の他に何も残されていなかった。それから黄昏の陽光を頼りに巡った城のそこかしこで、粗末にうち捨てられた物資の残骸を目にした。そのどれもが律儀に切り裂かれ、ただのゴミになり果てていたのは予想した通りだった。ストックのビニール袋もすべて細切れにされていた。今頃はこの暴風がそれを荒野のどこかへ運んでしまっていることだろう。


 それが誰の手によるものであるかは考えるまでもない。


 俺が無意識にやったのでなければ、この廃墟にそれをできる人間は一人しかいない。なぜあいつがそんな暴挙に出たのか、そんなことは俺にわかるはずもない。だが彼女がそれをしでかしたこと自体は割とすんなり受け容れている自分がいる。……想像できなかったことではない。だからこそ俺はあいつに『保管庫』の場所を厳重に隠しておいたのだ。


 けれども、結果的にそれは俺の見通しが甘すぎたのだと考えざるをえない。あれしきのことであいつの目をごまかせると思ったのが間違いだったのだ。むしろ最初からこうなることを予想して物資を小分けにしておくべきだった。そこまで頭がまわらなかったことが、今さらながら無性に悔やまれた。


 これでウルスラが持ってきてくれた虎の子の物資はすべて失われた。食糧はと消え、水をつくる手段もなくなってしまった。ウルスラが来る前のあの何もない状況に戻ったのだ。それはつまり、避けて通れない生存の危機が再び俺たちにもたらされたことを意味する。


 絶望――もう一度その言葉を思った。前途に持っていた希望が完全に絶たれること。辞書を引けばはそんな説明が出てくるのだろう。そのことを思って自嘲めいた笑みに口元が歪むのを抑えられない。


 希望が失われたのならば、その希望とはいったい何だったのだろう? 元々ここには希望などなかった。何のためにこんな場所に来させられたのかも、自分が何をすべきかもわからなかった。そんな状況の中にあって俺が――俺たちがいったいどんな希望を持っていたというのだろう?


 もしあったとすればそれは希望ではなくだった。とりあえず当面は生き延びられるという最低限の保証。ただ、ここのところあいつが親しく接してくれるようになったことで、そこに小さな希望が生まれていたことは否定できない。……その生まれたての希望もこれで絶たれた。何の前触れもなく徹底的に、他ならぬあいつ自身の手によって。


 ……失ってみればその希望は俺の中で、思っていたよりもずっと大きくなっていたことがわかる。その証拠にいくら滑稽とさげすんでみても『絶望』の二文字が頭から離れない。なぜペーターがこんな滅茶苦茶なことをしたのか、その理由はさっぱりわからない。けれどもこの城で暮らすうちに、いつの間にか親密になっていたあいつが豹変した理由については、何となく思い当たるふしがある。


『現在、あの方の個性はふたつに分離しています』


『表ではどこまでも親密に、裏ではどこまでも辛辣に。ふたつの個性がまったく逆の態度でそれぞれ貴方に接している』


『あの方のそうした状態を、好ましくないと貴方が判断されるのであれば、その状態を打開するためにひとつの案をお聞かせします』


 あの歯車だらけの空間でウルスラが話していたこと。こちらでの個性とあちらでの個性の乖離。その乖離が固定されつつある現状を打開するために、俺たちが兄妹に扮するあの奇妙な即興劇を彼女は提言した。


 ……そのことを考えれば、今回のペーターの豹変はということになる。そしてこうなったのはある意味、ウルスラの意図した通りの好ましい変化と考えるべきなのかも知れない。


 だがそれならそうとウルスラも最初にそのあたりの危険性を少しでも教えておいてくれればよかった。そうすればせっかく持ってきてくれた貴重な物資をむざむざ灰燼に帰すことはなかった。こちらに戻ってきてすぐに『保管庫』に走り、あいつに先んじて物資を確保すればこの事態は免れたのだ。


 今さらそんなことを考えても始まらないが、過去に悩んで一度は解決した問題がぶり返されただけに、深刻な状況だとわかってはいてもそれについて考える気にはなれない……なりたくもない。


 ともあれ、ウルスラの思惑は見事に功を奏したとみていいのだろう。あちらでのあいつは完全に俺を拒絶していたこれまでの態度を改めてちらちらと姿を垣間見せるようになり、こちらでのあいつは昨日までの親密さをかなぐり捨ててまるで自殺の道連れにでもするかのような暴挙に出た。ウルスラの言う「強引なアクション」は実を結び、物語は一歩先へ進んだのだ。……ただ俺の目に状況は好転したどころか、むしろ致命的に悪化したように見えるのは精神的に疲れているためなのだろうか。


 ――そうして俺はまたあちらでのことについて考える。


 ウルスラとの即興劇という枠組みはあったにしてもとは違う、俺たちが元いたあの場所でのこと。彼女は確かにそう言っていた。あそこが俺たちの元いた場所に間違いない、と。だがそこで俺が目の当たりにしたものは、常識では計り知れない事件の連続だった。


 始まりは空の色。


 成り行きで観ることになったつかみ所のない映画と、その中で思いがけず邂逅した友人……目を背けたくなるような拷問。


 誰もいない炎天の広場で突然襲われた恐怖。


 そして脈絡なく開始され酸鼻な結末に終わった、追いかけても追いつけないあいつとの鬼ごっこ――


 ……何かが違うとかどこかおかしいとか、そんな次元はもうとっくに通り越していた。どう考えてもあそこが俺の元いたあの場所だとは思えない。あれが現実だと思うくらいなら、ウルスラの言う通りが現実だと思った方がまだ信じられる。少なくともここでは空が異様に変色することはない。映画の中で友人がペニスを切り落とされることも、何の前触れもなく妹が人の胸に刀を突き立てることもない。


 だが、あそこが俺たちの元いた町に違いないのだとウルスラは言う。俺たちのいたあの町に違いなく、そしてそれは見ての通り変質してしまったのだと。


 意味がわからず食い下がる俺に、ウルスラはさらに妙なことを言っていた。元々あちらは現実などではなかった。そもそもの初めからあちらは現実の世界などではなく、俺が今いる現実の世界なのだ、と。


 あべこべもいいところだ、と乾いた溜息をつく。そんな馬鹿げた話を信じられるわけがない。


 元いた町とは似ても似つかないあそこが現実の世界でないというのはわかる。だからといって隊長の言う残酷演劇とやらのために送りこまれたここがどうして現実の世界でありうるのだろう? もしそうだとして、それならば俺たちの元いたあの町はどこへいってしまったというのだ? こんな最果てのような砂漠の真ん中に置き去りにされた俺たちは、いったいどうやってあの元の世界に戻ればいい……?


 幾ら考えてみても答えは出ない、そう思って考えるのをやめる。こんな不毛な思考の一人遊びをさっきから何回繰り返したかわからない。横向きになって身体をまるめる。耳の裏に鋭利な砂の感触を覚え、半ば無意識にそれを払う。


 せめて少し眠った方がいい。今の俺にできることはそれ以外にない。


 砂嵐はやまない。漆黒の窓の外に、ただ荒涼とした風の音だけが響き続けている。地を這うようにうねり来る耳障りなその音が、けれども今の俺にとってはどこか心地よく鼓膜に届く。嵐の夜でよかった、と思う。この激しい風の音がなければ、出口の見えない感情の迷路の中に俺は本当に独りぼっちになってしまう。


 ――あいつはどこにいるのだろう。


 砂まみれの寝台にいつまでも訪れない眠りを待ちながら、この城に同じ夜を過ごすもう一人の人間を思った。


 ……あいつは今、どこで何をしているのだろう。この深い闇の底にどこで何を思い、風の音の他に寄り添うもののない独りぼっちの夜を過ごしているのだろう。


 考えるのをやめて目を閉じる。海鳴りのような風の音がいっそう力強く耳の奥に侵入してくるのがわかる。


 閉じた瞼の裏にあちらでの映像が蘇る。薄暗い小屋で今にも拷問にかけられようとするDJ。光を宿さない目でぼんやりと刑吏けいりを眺める、いつの間にかそのDJに俺自身の姿が重なってゆく――


 眉間に皺を寄せてその映像を追い払う。……夢の中にまで反芻したくはない。あんな映像を見るのは一度きりで充分だ。もう何も考えたくない。今はただ夢を見ることもない、泥のような深い眠りの淵に落ちたい――


 けれども閉じられた瞼の裏に、記憶は執拗にその映像を結ぼうとする。まるでそれが幻でなかったことを訴えるように、目を逸らそうとする俺を責め立てるように。


 虚しい抵抗の果てに、俺は溜息をついてその映像を受け容れる。せいぜい夢の中まで追いかけてくればいい。俺にはもうどこにも逃げる場所などないのだから――


 滅多打ちにされるDJの顔が見える。変形して醜く腫れあがり、あいつのものとは思えないほどに膨大となった顔。あらゆる苦痛にただ無気力に耐えることを自分に課した、どこまでも醜悪で哀しい顔。


 ……心の中でその顔に語りかける。いったいお前はそんな所で何をしている? 映画俳優をるなんて一言もなしに。相棒だの何だのと気安く呼んでいた、友人であるこの俺に何の断りもなしに――


◇ ◇ ◇


 ――浅い眠りの中に夢を見ている。


 薄緑の蛍光を放つ計器が壁の一面を埋め尽くす、窓のない小さな部屋。その部屋に白衣を着た初老の男と向かい合う人の姿があった。


 同じく白衣を着て銀縁の眼鏡をかけたキリコさん――共にあの日曜の舞台に立つはずだった《博士》としての彼女が、その見知らぬ男を前に右手を差し出し、慇懃に握手を交わすのを見た。


「始めましてキリコ博士。若き才媛さいえんのご高名は本国でもうかがっています」


「始めましてマリオ博士。こちらもお噂はかねがね。ただ率爾そつじながら女としての扱いはご遠慮いただきたい。あたしは一人の科学者としてここに来たのであり、それ以上でもそれ以下でもないのですから」


 どこの国の言葉だろう。少なくとも英語ではない、俺の知らない言語で二人は話している。


 だが不思議なことに俺はその話を聞きとることができた。俺の知らないはずの言語で話している二人が何を喋っているのか、その内容をまるで字幕か吹き替えのように理解できた。


 早々のとげに眉をひそめるマリオと呼ばれた男を前に、勝ち誇ったようなキリコさんの笑顔がある。いかにも彼女らしい言動と態度に、俺は内心に苦笑しながら夢の続きを見る。


「申し訳ない、他意はなかったのです。何しろ私をはじめ干涸らびたような男しかいないと思っていたから」


「この干涸らびた場所では遠からずあたしもそうなるでしょう。ですので、紳士としてのお気遣いは無用です。いずれ我々は等しく同士なのですから」


「違いない。前身ではその悪魔の助手を務めてこられたとか」


「助手とは名ばかりの小間使いです。ただそれでもう人並みの望みは持てなくなってしまいました。挙げ句に流れ着いたのがこの吹き溜まりです。人生を誤ったとしか思えません」


「私の方では多少事情は違うが、まあ似たようなものだ。実りある研究を成し遂げたいという点において我々の理想は一致している。あなたの才能に期待します。どうぞよろしく、キリコ博士」


「こちらこそ、マリオ博士」


 もう一度握手をして二人は挨拶を打ち切る。繋いでいた手を離したところで、二人はまるで彫像になったようにその動きを止める。


 一時停止した彼らのまわりを、時間は逆にテープの頭出しをするように早送りで過ぎてゆくのがわかる。その頭出しが終わってが回復した瞬間、キリコさんはどっかりとパイプ椅子に腰をおろし、男は彼女を背に計器の前に立った。


三ツ子トリニティを抑圧する動きは、まだどの国でも見られないようだ」


「当たり前だろ。どこの国がそんな子供の戯れ言みたいな話に気を払うってんだよ」


「プロトタイプが発生したときにはあれほど騒ぎ立てていたのが利用価値がないと知るや、現金なものというべきか」


「それ以前の問題さ。研究所一個まるごと潰された上にがないんじゃ、どこだってそんなものに手出したかないだろ」


「その悲惨な事故も内々に葬られ、か。遺産であるデータを持ち出して研究を進める我々に、彼らを悼む資格はないのだろうが」


「その因縁の三ツ子トリニティを弊害なく再現してみせたのがあの悪魔、ってわけだ。あいつがそれをどうやったかあんたにわかるかい? マリオ」


「わからない。皆目検討がつかないよ、キリコ。君はわからないのか? 我々の中で君だけは理解しているものと思っていたのだが」


「わかりっこない。卵細胞を分割するときに何かやってるってことまでは掴めたんだが、その先はまるっきり藪の中さ。第一助手が聞いて呆れる。相変わらず小間使いのまんまだよ」


「三分割した残りの二つの細胞をどうしているのか、それもわからないのか?」


「わからないね。再融合の線で疑ってたんだが、どうやらそうでもないようだ。ただ回収してる様子はないし、大方の予想通り処分してるんじゃないかい?」


「だとしたら、そのあたりに彼の技術を紐解く鍵があるのかも知れない」


「かも知れないね。けど、あたしはもう諦めた。あいつと張り合おうったって次元が違いすぎる。あたしはていのいい小間使いでいいよ」


「欲のないことだな。才気溢れる君のような研究者が、こんな辺境で人体実験もどきの小間使いとは」


じゃないだろ。あたしたちがやってるのは正真正銘の人体実験さ」


「8ヶ月で成熟し、思いこみで他人の身体に傷をつくる生物を、君は人間と呼ぶのか?」


「成熟の方はホルモンと遺伝情報いじって無理矢理。傷の方は蚊に刺されたようなもんだ。あたしらがやってるのは人体実験だよ。その意識から逃避するつもりはない」


「ならそうすればいい。君の意識の問題にまで口を挟む気はない。私はただ、人類の進化に立ち会えればいい。それだけが望みだと言っても、信じてはもらえないだろうか」


「信じるさ。けどね、あいつがこの研究の先に見てんのはそんななもんじゃない。もっと途方もなくどでかいものさ。壷のフタを開いちまったパンドラの気持ちがよくわかるよ。を見たときのあんたらの顔が見ものだね」


とは?」


「せいぜい楽しみに待ってるんだね。そいつに関われるだけであたしはここに来たかいがあった。それだけ言っとくよ」


 そう言い残し、ひらひらと手を振ってキリコさんは部屋を出ていこうとする。そこでまた彼女と話し相手である男の動きが止まる。さっきと同じように、静止した二人のまわりを時間だけがきゅるきゅると音を立てて進んでゆくのがわかる。そしてまた同期――

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