184 共同作戦の夜(7)

 ――廃墟に風はなかった。青白い景色の中に動くものはなく、自分の呼気いきを除けば耳に届く音もなかった。


 厚い襤褸の内側に侵入してくるのは冷たく乾いた夜の大気だけで、それがなければ誰もいない空虚なコンクリートの墓場に、自分という存在さえも見失ってしまいそうだ。


「……はあ」


 思わず溜息をついた。軍曹たちがいなくなってからもう三十分は経っただろうか……あるいは一時間にもなるのではないか。そう思いつつ眺める慣れないフィルター越しの景色に変化はなく、空っぽの広場には誰も現れない。


 つまり、まだではないということはわかっているのだが、こんな荒みきった場所に一人、しかも路地裏の暗闇にじっと身を潜めていると、自分が世界の最果てに置き去りにされたような、そんな気持ちになってくる。


 ビルの一室で二カ国語の会話に耳を傾けながら覚えた高揚はまだ胸の奥に燻っていた。だが正直なところ、それはあのときとは比べものにならないほど小さく、ちょうど消えかけたのようなものに成り果ててしまった。


 ……今さら捨て駒としての役割に怖じ気づいたわけではない。ただ、意気込んでその役に立ったところがまたぞろこんなものを着せられ、こそこそと身を隠していなければならないことに不満に近いもの――いや、はっきりと不満そのものを感じる自分がいるのである。


「……つまりそこか」


 力ない独り言がこぼれた。この路地に隠れてからというもの、いまいち気分が盛り上がらない理由はやはりそのあたりにあるようだ。


 取り巻きの男たちに銃を突きつけられたあの袋小路で、キリコさんの制止を無視し役に立つことを決めたのは、第一には今夜の仕事の重要性を考えてのことだった。そこに疑う余地はない。だがその裏に――頭ではなく心のどこかに、この廃墟で対決するというシュールな役へのロマンのようなものを、俺がまったく感じていなかったと言えば嘘になる。


 その役がどこかへいってしまったわけではない。襤褸これを被ろうが被るまいが、自分自身と撃ち合うという当初の構図は何も変わっていない。


 ただ、襤褸を被ったことでもう一人の俺の方ではその構図を認識できなくなった、というだけの話だ。俺自身との対決はこの俺だけが知り得る秘密であって、もう一人の俺はその事実を知らないまま今夜の戦いを戦うことになる。


 ……どうも俺はそのあたりに不満を感じているようだ。俺は俺自身と対決することをはっきり認識しているのに、もう一人の俺はそうではないというのがいかにも不公平で、もっと言えば卑怯であるとさえ感じる。……正々堂々と向き合い、思う存分に勝負がしてみたかった。互いに素顔を晒して対等な立場で、この不条理にも程がある幕間劇の舞台に立ってみたかった。


 だがその一方で、キリコさんのたっての願いだというこの扮装の理由もわかる。ありのままの俺を目の当たりにしたとき、もう一人の俺が何を思うかはよくわかっている。


 素顔を晒したこの俺を目にしたもう一人の俺は、まず間違いなく混乱に陥るだろう。……あのとき、俺が彼の姿を目にしてそうなったように。そうすることで今夜の仕事を有利に進めることはできる。軍曹たちが本来の目的を達成するまで彼を足止めしておくことなど、それこそ容易にできるかも知れない。


 けれども、その混乱はおそらくこの作戦に連なるキリコさんの計画にとって致命的な要素になりうる。


 彼はひどく入り組んだ感情の迷路に迷い込み、そこから出てこられなくなる。隣にキリコさんがいた俺とは違う、その迷路から抜け出すのはきっと簡単なことではない。民族大移動という難しい仕事を課せられている彼に、そんな試練まで与えるのはどう考えても得策ではない――


「つか、まだかよ……」


 ……それにしてもいい加減待ちくたびれた。


 そろそろ一時間になるのではないか。……いや、一時間などとっくに過ぎている気がする。スコープの中の景色に変化が現れない以上、俺としてはただ待ち続けるしかないわけだが、この時が止まったような静けさの中にいつまでも来ない相手を待ち続けていると、自分が何をしているのかわからなくなってくる。


 そういえばこんな展開の戯曲があった。いつか大学の図書館で読んだ、二人の浮浪者が来ない相手をただ延々と待ち続けるだけの劇。


 愚痴とも諦めともつかない台詞を連ねるうち、やがて二人は誰を待っているのかさえわからなくなってしまう。あの戯曲の最後はどうだっただろう……確か二人がどういうわけか自殺しようとして――そのあとがどうなったのか思い出せない。


 今のこの状況はあの戯曲の展開とよく似ている気がする。違いがあるとすればあの戯曲の登場人物は二人で、俺は一人だということだけだ。殺風景な舞台にいつまで経っても現れない相手を待ち続けていることは一緒で、あともう少しすればその相手が誰かわからなくなってしまうことも共通している。


 衣装はだいぶ違う、あの戯曲の浮浪者たちはこんな襤褸布を纏ってはいなかった。だが逆に浮浪者というくくりで考えれば、を着ていることで役柄が近いものになっているようにも思える――


「……」


 そこまで考えて、不意にこれが演技であることを思い出した。


 俺が今こうしてここに立っているのは演技であり、俺の周りにあるこれは舞台だった。


 いや……今に始まった話ではない、それは何日も前から始まっていたのだ。あの日曜日のホールで自分の頭に向けきっかけのトリガーを引いたその時から俺はにいる――ずっと忘れていたそのことを、今さらのように俺は思い出した。


「……あれ」


 そうして俺は、ひとつの疑問に突き当たった。


 今、俺が立っているこれが舞台だとしたら、この劇はこれからどこへ向かおうとしているのだろうか?


 と言うより、この劇はいったい何なのだろうか?


 誰がどこで観ているのか、何のために演じられる劇なのか。そもそもこれが劇などと、そんなことが俺以外、誰に信じられるというのか――


「……と言うか、本当に舞台なのかこれ?」


 そう呟いた瞬間、狭いスコープの視界の中で世界が急速にそのリアリティーを喪い始めた。瓦礫のうずたかく積もる廃墟は廃墟のまま、けれども廃墟ではないへと変貌を遂げてゆく。


 ここまで一度も考えてこなかったこと……ここがいったいという形而上学的メタフィジカルな疑問。演劇の中にいる俺がその疑問について考えること――それは日曜日のホールで舞台に立つ直前に隊長から釘を刺された、絶対の禁忌だった。


 ……そのはずだった。だがその疑問について考えても漆黒の夜空は降ってこない。黒々と立ち並ぶ窓のないビルの壁が音を立てて崩れ落ちることもない。


 物言わぬ廃墟のように、静かな混乱があった。その混乱の正体を、はっきりと言葉にすることができなかった。


 ひとつだけ確かなのは、俺はここまで、自分が劇の中にいるのを忘れていたということだ。役者としてあるまじきことに、俺は役の中で役を忘れていた。


 ……ただ言い訳をすれば、それはきっとここまでキリコさんと共に踏んできた場面があまりにもだったからだ。あまりにも劇的な展開に没入するあまり、その中にいることさえ俺は忘れていた――


「……いいのか」


 考えがひとまわりしたところで、小さくそう独りちた。劇にのめりこんでその劇が見えていなかったとするのならば、それはそれで悪くないことのように思える。……と言うより、それこそ俺がずっと求めてやまなかった理想の舞台ではなかっただろうか。


 俺がずっと目指し続けてきた場所――演劇に埋没することでたどり着ける『向こう側の世界』。もし自分が今いるのがそこだとしたら、俺がここで考えなければならないことは――


 思索に入り込みかけたところで、急速に近づいてくる靴音を聞いた。


 ふと我に返った。真っ黒な軍服に身を包んだ一陣、あのビルの部屋で車座になっていた男たちの一部に違いない人影が足速あしばやに目の前の広場を通過していった。


 それに続いて――打ち合せ通りが現れた。壁を背にまるで寸劇コントの探偵よろしく、真剣であることがはっきり見てとれる視線を真っ直ぐ彼らに向けて。


 その姿を見た瞬間、あのときと同じように心臓が止まった気がした。


 ――そうしてすぐ、さっきまでの混乱が嘘のように消えた。俺はこれからあいつと撃ち合うのだという思いが、じりじりと熾火おきびのように胸の奥を灼いた。


 そう……俺はあいつを殺すことができないが、あいつはそうではない。俺が撃ちかけた瞬間、あいつは間違いなく撃ち返してくる。彼女たちが『魔弾』と呼んだ、の効かない銃弾で俺を殺しにくる。


 今、俺が始めようとしているものは実戦だ。あの場所で少女と繰り返してきた訓練とは違う、やり直しのきかない文字通りの実戦なのだ。


「……っし」


 小さく気合いの吐息をもらし、腹に力を入れた。“ lurおとりe ”としての行動ということなのか、衛兵隊は広場の向こう側で塊になっている。それに合わせてもう一人の俺が立ち止まり、両手に構えた銃を彼らに向けようとしている。


 ――彼に引き金を引かせてはならない、咄嗟にそう思った。次の瞬間、俺は既にトリガーに指をかけていた銃をもたげ、その指を引き絞りながら路地を飛び出した。


 静寂を破る銃声にもう一人の俺は驚愕の表情でこちらを振り返り、だが予想よりも遙かに俊敏な動きで駆け出した。


 振り向きざまに撃ち返される銃弾が頭の真横を通り過ぎる音を聞き、慌てて真横に開いていたビルのエントランスに飛びこんだ。同じように、もう一人の俺が狭隘きょうあいな路地に駆け込んでゆくのが見えた。


 広場の向こう側で一斉に遠ざかる彼らの靴音――そしてまた二人分の銃声が誰もいない廃墟の闇に高らかに木霊こだました。


 ――なし崩しに戦闘は始まっていた。


 衛兵隊が離脱する靴音があがったときもう一人の俺は路地から飛び出そうとする素振りを見せ、だが俺が撃ちかけるとまたそこに引っ込んだ。そのあとは路地に籠もり、わずかに顔を覗かせては撃ってくる。闇の中に微少な光を拾う暗視スコープには焦燥をにじませた俺の顔と、威勢よく火炎を噴く大型のハンドガン――常に俺の手元にあったデザートイーグルがはっきりと映っている。


 俺は最初に飛び込んだエントランスから動かず、そこを砦にして撃ち合いを続けた。路地裏とエントランス、ほぼ真向かいに位置する穴蔵にお互い身を隠しての銃撃の応酬――けれどもその構図が俺の側にとって有利であることに気づくまでに時間はかからなかった。


 彼の潜む路地はV字を描く側道の底にあって、俺のいるエントランスはちょうどそのV字に蓋をするような位置にある。ここから撃ちかけている限り、もう一人の俺はあの路地を抜け出すことはできない。そしてあの路地を抜け出さない限り、もう一人の俺はどこへも行けないのだ。


 月の光もにとって都合よく働いてくれている。おそらくこのビルの真上に出ている月は路地の奥まで射しこむ一方で、このエントランスの中を真っ黒に塗り潰しているに違いない。


 そうでなくともこのスコープのお陰で、もう一人の俺の動きは手に取るようにわかる。狙って撃てば仕留められないまでも、身体のどこかにてることは簡単にできる。そして――だからこそ、これだけ闇雲に銃撃を続けながら俺は、一発も彼にいられるのだ。

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