183 共同作戦の夜(6)
【――つまり、我々が “lure” になるということだ】
【Lure ? ああ…… “
【そうだ。我々が “
青黒いブラックライトの
廃ビル――と呼ぶことさえはばかられるほど朽ち果てた建物の一室だった。ジープを停めたあの袋小路からどこをどう通ってここに辿り着いたのかわからない。ただ彼らに引き立てられるままにここまで来た。そのあとはこうなるまで夢にも思わなかった、身振り手振りを交えての即興英語劇の幕開けだった。
【よくわからないな。危険を避けるために俺を使う、ってことじゃなかったのか?】
【もちろん、そのために君を使う。だから我々は彼の射程範囲には決して入らない】
【なるほど】
【充分に距離をとった上で姿を見せる。射程に入らない距離を保ちながら然るべき場所まで誘導するのだ】
【で、その然るべき場所で彼の射程に入って撃ち合うのが俺、と】
【そういうことだ】
ほとんど前世の記憶を掘り起こしながらの会話だった。受験はもう遠い昔の出来事で、あれほど必死になって覚えた語彙もあらかた消えてしまっている。こんなことなら大学での語学をもっと真面目に受けておくのだったと後悔しつつも、どこかでそれを楽しんでいる自分がいた。
たどたどしい英語で交わされる不自由な作戦会議はその実、俺にとって決して苦痛な時間ではなかった。それに実際、その英語が理解できないというわけでもなかった。
あの場所での約束通り、エツミ軍曹は子供に話しかけるように一言一言ゆっくりと喋ってくれるし、簡単な表現を心がけてくれている。あるいはここへ来るまでのキリコさんの方言よりましかも知れない。けたたましいジープの駆動音に紛れたあの方言を逐一訳してゆくのは本当に骨の折れる作業だったのだ。
そのキリコさんはこの場にはいない。あの袋小路で二人の黒服に連れられてゆく後ろ姿を見送ったあと、どこでどうしているのかもわからない。まがりなりにも『研究所』の博士であるキリコさんの身に危険が及ぶことはないだろうが、体のいい人質には違いなかった。
もっとも、そんなことをしなくても俺には逆らう気などない。目的とするところが同じである以上、作戦を成功に導くため自分の果たすべき役割は果たす――それが俺のスタンスだった。
作戦会議は
⦅――そうだ。A-16付近で彼同士が接触することになる⦆
⦅了解致しました。では当初の計画通りA-24を起点とする陽動の後、彼らが接触した時点で離脱致します⦆
⦅いや、それでは良くない⦆
⦅は、ではいかように⦆
⦅彼らが接触し次第、可及的速やかに離脱するように⦆
⦅了解致しました、軍曹!⦆
なるほど、こうした状況に置かれてみれば、彼らの話す言語を理解できないことにしておいた方が何かと都合がいいことがわかる。
俺が理解できないことを前提に、彼らは本当のことを話している。俺に聞かせるのが不適切であるに違いない、彼らの間だけで共有されるべき情報をその言語でやりとりしている。……それはつまり、俺が自分にとって有利な情報を労せずして手に入れられるだけでなく、その情報を使って彼らの裏をかくことさえできるということだ。
もっとも、エツミ軍曹が彼らに下す命令は、おおむね俺に下されたそれと整合していた。――彼らの陽動によりもう一人の俺をDJの本隊から隔離し、当初の話にあった通りそれを俺に押しつける。その上で総員をあげてDJを生け捕りにし、『研究所』の施設内に連行する。
幾通りものプランで綿密に詰められてゆくその打ち合わせの内容を聞く限り、やはり彼らの目的がDJを捕らえることにあるのは間違いないようだ。
そしてその話の中にたまに俺の名前が出るとき、もっぱらいかにして俺にもう一人の俺を押しつけるかという議論に終始している。そのあたりをみれば、この廃墟に現れた危険因子であるもう一人の俺を排除する意思が彼らにないこと――それもはっきりと見てとれる。
その議題について話すとき、彼らは俺のことを⦅捨て駒⦆という名前で呼んだ。そればかりか⦅生け贄⦆という言葉さえ何度となく飛び交っている。そのあからさまな単語がこの作戦における俺の役割を雄弁に物語っているように思える。
ただそんな役割に、俺の方では不満もなければ嫌な気もしなかった。むしろその打ち合わせを盗み聞きながら強く感じたのは、この作戦に乗ることで確かにDJを捕らえることができるかも知れないという期待だった。エツミ軍曹の指令は驚くほど緻密であり、ここへ来るジープの車中で聞かされた我が主の
実際、あの人がどこまで考えていたかはわからないにしても、とてもこうはいかなっただろう。そのことを思えば、人質を取られて強制されているという立場を忘れ、率先して彼らに協力しようという思いさえ湧いてくる。
⦅分隊がC地区へ抜けた場合、後詰めに向かってもらうことに問題はないか?⦆
⦅問題ありません。ですが、分隊の規模によっては自分一人での対処は困難であるものと思われます⦆
⦅その場合には増援を検討する。分隊の規模を確認し次第、速やかに報告するように⦆
⦅了解致しました、軍曹!⦆
それにしても指揮官としてのエツミ軍曹と、それを前にした部下である彼らの態度は、俺がこれまで耳にしていたものとはだいぶ趣きが違っていた。雌犬だの何だのとあなどられていないどころか、統率の乱れはみじんも感じられない。
この場だけ彼らが忠実になる、などということはどう考えてもありえない。……だとすれば、聞くに堪えない下世話な噂話の裏で、彼女がここまでこの正体を隠し通してきたということになる。
【――N
【え?
【I
【あ……
【
不意に皮肉めいた笑みを浮かべると軍曹はそう言った。慌てて否定しようとする俺に、周囲からわっと大きな笑いが押し寄せた。
俺と軍曹のやりとりを聞いていた彼らからかかった笑い――さっきから薄々気づいていたことだが衛兵隊の面々も英語はできるようだ。そしてそんな俺たちのやりとりに浴びせられる無遠慮な笑い声は、この部隊がにわか仕立てでなく一枚岩だという何よりの証拠だった。
【W
【You
【Ye
【Wh
【Y
【Hey.
急に低い張り詰めた声でエツミ軍曹は言った。ブラックライトに照らされるその顔が声と同じ表情に変わっていることに気づき、今度こそ何か口を滑らせてしまったかと息をのんだ。
だがそんな俺を前に軍曹は小さく鼻を鳴らすと、やれやれといった調子でつまらなそうに吐き捨てた。
【Do
そこでまた笑いが起こった。さっきとは比べものにならないほど大きな笑いだった。俺としては一緒に笑っていいものかわからず、おそらく引き攣った笑みを口元に張りつけていた。
だが、藍色の闇に浮かぶそんな情景を前に、心ではまったく別のことを考えていた。……これは軍隊だった。まさに正真正銘、映画の中でしか観たことがない本物の軍隊。
その一員として今夜の作戦に関われることに――たとえそれがどんな役割であるとしても――高揚を抑えきれない自分がいた。彼らのために、俺は自分にできる限りのことをしよう。笑うのをやめ、作戦の詰めに入る彼らを眺めながら、いつしか俺は本気でそう考え始めていた。
◇ ◇ ◇
それから
深夜を迎えようとする乾ききった大気が肌に冷たかった。日較差――とか言っただろうか、真昼はすべてを焼き尽くすほどの暑気をたたえる砂漠も、太陽が死に絶えたあとはこんなにも寒い。だがおそらくは身に纏っているぶ厚い布のおかげで、その凍てついた夜気の中にもどうにか身動きせずうずくまっていられる。
――軍議が終わり、引き立てられるままこの場所に連れて来られた俺は、エツミ軍曹から薄汚い襤褸布の塊を手渡された。広げてみるまでもなく、それがあのとき身に纏った『蟻』の衣装であることがわかった。
俺からの質問を待たず “W
【顎の下に小さなつまみがあるだろう】
【……ええと、これ?】
【そうだ。そのつまみを捻ると、そのマスクは暗視スコープになる】
【え? ああ……なるほど】
軍曹に言われたとおりつまみを捻ると、真っ暗だった夜の底に窓のないビルが現れた。そのビルの根本にうずたかく積もった瓦礫と、壁に穿たれた夥しい銃弾の痕と。
もっとも、狭い視界に映し出される景色は一昨日の陽射しの下に見たものとはだいぶ違っていた。白黒――というより全体が淡く青みがかったそれは、まるで黎明の光に照らされる寝起きの街のようだ。
【今夜、俺はこれを着て動くってことでいいんだろうか?】
【そういうことだ】
【余計な質問かも知れないけど、俺がこれを着なければならない理由は?】
【君がそれを着ていないと驚くやつがいる】
【ああ……けど、驚かせた方がいいんじゃないか? そうすれば隙もできるだろうし】
【自分もそう思う。だがこれは君の主からのたっての願いだ】
【キリコさんからの?】
【そうだ。君の意思を尊重して我々の要求はすべて呑む。ただし君たち二人を対面させないことを条件に――というのが博士の唯一の要望だ】
【なるほど】
そんな遣り取りのあと、エツミ軍曹は思い出したようにホルスターから銃を抜き、それを俺に差し出した。任務の遂行のために貸してくれるというその銃を、俺はやんわりと断った。
懐にはあの袋小路を離れる前に回収した自分の銃があった。俺はこの銃でいい。そう言って彼女の銃を押し返す俺に軍曹は一瞬怪訝そうな顔をしたあと、また元通り冷静な軍人の表情に戻って言った。
【そうか。君はト
軍曹たちが去り、一人きりになった俺は、彼女の指示通りずっとここに潜んでいる。耳が痛くなるほどの静寂の中、すっぽりと夜に覆われた廃墟をただ眺めている。
路地から覗く狭い視界、半壊したビルの壁と瓦礫の山の谷間に、まるで小さな広場のようにひらけた場所がある。一時間も経たないうちにそこに彼らが現れ、次いでもう一人の俺が現れるという軍曹の話だ。彼らを追跡するそのもう一人の俺に背後から撃ちかけ、そのあとは俺の
暗視スコープのおかげで周囲の景色は異様によく見える。漫画でよくギミックとして用いられるその弱点、強い光を見ると視力が奪われるのではないかという俺の問いに、規定ルクス以上の光が入ると機能が解除されるから心配いらないと軍曹は答えた。
ありきたりな展開にならないことはそれで確認できたが、それにしても寸刻の後には自分と戦わなければならないという事実に、何とも言い難い感覚が胸の奥に消えなかった。困惑とも焦燥ともつかないその感覚に苛まれながら、俺はただじっとそのときが来るのを待った。
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