312 テンペスト(5)
後ろ髪引かれる思いはあった。伝えようとしたこと……伝えずにきてしまったことの断片がぐるぐると頭をまわり続けた。
けれども思い直す――あそこでそれを彼女に告げて何になったというのだろう? たとえ俺が何を言おうともDJがどうなろうとも、アイネはきっと自分に与えられた役を果たすだけだ。
――ならば、俺は俺に与えられた役を演じるしかない。そう思い切るのに時間はかからなかった。
路地を出たあとは振り返らずに走った。ビルの谷に反響する自分の靴音を聞きながら、一刻も早くその場所にたどり着けるようにしゃにむに駆けた。
そうして走り続けるうち、俺はふと激しい高揚に襲われた。思わず大声で笑い出したくなるような、爆発にも似た高揚だった。
どこに敵が潜むとも知れない戦場に危険はあったのかも知れない。それでも俺は高揚する気持ちに逆らうことなく、無人の廃墟を全力で走り抜けた。
危機に瀕している仲間たちのためではない、この舞台に立つ役者である自分のための使命感。何もかも曖昧ではっきりしなかったこの舞台において、初めて与えられた明確で意味のある役目――どれほど強く自分がそれを求めていたかということを、張りつめた静寂を乱す荒い息の中で思った。
――そう、俺はそれを求めていた。砂漠に水を求めるように、心から激しく渇望していた。
それを与えられた今の俺には、もう恐れるものなどない。たとえこの作戦でくたばることになってもそれで構わない。
何の見栄も
A地区に入り、見覚えある一昨日の場所に差しかかっても俺は走るのをやめなかった。ようやく俺が足を止めたのは、突然物陰から飛び出してきた人影を目にしたときだった。
さすがにはっとして急停止する俺に、人影は頭の上で大きく腕を振って手招きした。のぼせあがった頭でろくにものを考えられないまま、敵か味方かも確かめずに俺は転がるようにその招く先へ飛びこんだ。
「おい、大丈夫かよ」
ビルのエントランスに駆けこんですぐ、俺はその場にへたりこんだ。全力疾走でここまできた心臓はオーバーヒート寸前で、息は完全にあがっていた。
飛びこんだ先に俺を待っていたのはオズとノーマの組だった。外の闇に目を光らせるオズの足下にあってノーマは、疲弊してまともに声も出せない俺の背を立たせ、ペットボトルの水を口に含ませてくれる。
「いくら早く来いったって無茶しすぎだぜ、このバカが。オマエが撃ち殺されちまったら元も子もねえんだぞ」
厳しい口調でそう言われても俺は返事を返せない。大きく上下するのをやめない胸は痛いほどで、その言葉通り俺はよほど無茶をしてここまでたどり着いたようだ。
そんな俺の様子に小さく鼻を鳴らしてノーマは懐から携帯を取り出す。漏れ聞こえる声から、俺の代わりに到着をDJに知らせてくれているのだとわかった。
「『落ちつき次第かかれ』ってよ。あと『せいぜい死なねえように』ってこった」
短い通話を終えたあと、携帯をしまいながらノーマは呆れたような声で言った。それきり何を言うでもなく、オズと同じように外の闇に視線を移した。
呼吸が治まってくるにつれ、周囲の異様な静けさに気づいた。銃声などない。群青の帳のたれこめる廃墟に、戦闘のおこなわれている気配などどこにもない。
「……どこにいるんだ?」
「あ?」
「俺の相手だよ。『黒衣』の連中はどこに?」
「ああ。連中ならあっちだ」
そう言ってノーマは視線の先、エントランスの外を指差した。
だが、そこには何もない。じっと目を凝らしてみてもその指の差す先に人影らしいものはない。ただ濃く深い闇が横たわっているだけだ。俺はもう一度同じ質問を口にのぼらせた。
「……どこだよ?」
「だから、あっちだって言ってるだろ」
「いるように見えない。どのへんにいるんだ?」
「そんなの知るかよ。近づいたら簡単に殺されちまうんだオレたちは。オマエと違ってな。だからこうやって遠巻きに見てるしかねえ。どこにいるかなんてわかるわけねえだろ」
「……なるほど」
「ただ、さっきまではいた」
「……」
「さっきまではあのへんにちらちら影が見えてたんだ。二つ三つな。よっぽど逃げたかったけども、オマエが来るまで待機してろって隊長が言うから我慢して待ってたんだ」
「そうか」
「なあ、頼むぜ兄弟。オマエだけが頼りだ。例の話が嘘っぱちじゃねえことオレたちに見せてくれ」
「わかった」
そう言って、俺は腰をあげた。立ちあがりざま太腿に鈍痛を覚えたが、疲労はそう大したものではなかった。
呼吸はもう完全に落ち着いていた。やるべきことがわかった以上、いつまでもこうして休んでいるわけにはいかない。
「おい、行くのかよ」
「ああ」
「ちっと休んでからでもいいんじゃねえか?」
「もう充分休んだ。大丈夫」
「へ、そんなら行っちまえ」
脇を抜けようとする俺にオズは素っ気ない声でそう言い、そこで初めて俺に視線を向けた。月明かりの逆光にその表情はよくわからなかったが、何となく気をつけろと言っているように見えた。
それだけ確認して俺はデザートイーグルを抜き、それを低く持ち身を屈めて束の間の休息地を出た。
足音を殺し、地を這うようにして物陰から物陰へと走った。音もなく降り注ぐ月明かりは今の俺にとって迷惑そのもので、真昼に太陽の光を避けてアジトへ向かったあの日と同じく、ビルのつくる細い陰をなぞるように進んだ。
路地から壁の破れ目へ、そしてまた路地の暗がりへ。先客がいないことを確かめながら、狙われる方位ができるだけ狭い場所を選んで潜伏と移動を重ねた。
そうやって
身を低くして足音を立てないこと、狙われる方位をできるだけ狭くすること――どれもみなDJとのサバイバルゲームで学んだ知識だ。こんな場面で戦争ごっこの教訓にすがっているのだから世話はない。
だがそれでも、俺がこの状況で何かにすがるとしたら、役作りのために蓄積してきた擬似的な経験と知識以外にない。ただそれが本当に正しいのか……実際の戦闘で役に立つのかという思いは、走り続けている間もずっと俺につきまとった。
――その
「……」
何度目かわからない移動を終え、路地に身を押しこんだところで、今さらのように俺は事態の不利を悟った。……考えるまでもなかった。こうして移動を続ける以上、俺の方が圧倒的に不利だ。
相手がどこかに潜み、そこから様子を窺っているのだとしたらどうしてもそうなる。しかも相手は6人……今日の俺たちの作戦ではないが、二手にわかれて前後から俺を挟撃することさえできる。勢いでここまで来たが何のことはない、みすみす敵の懐に飛びこんでしまったようなものだ。
「……」
けれども――そこでふと俺はもうひとつのことを思った。
これから俺が対峙しなければならない相手、『黒衣の隊』の兵士たちに対しては有効な攻撃手段がここまで存在しなかった――そのことを思い出したのだ。
アイネたちの銃では彼らに傷ひとつつけることができなかった。だからこそ彼らは銃弾の雨の中を突っ切り、思うままにアイネの仲間たちを蹂躙していたのだ。――では、彼らの中でその認識がまだ崩れていないのだとしたら?
「……」
だとしたら、俺の攻撃は自動的に奇襲になる。そして、その奇襲はかなりの確率で成功を収めるだろう。
彼らは俺の接近に注意を払わないだろうし、簡単に近づくことを許すに違いない。
だが逆にその認識が崩れている場合――つまりあの夜に戻らなかった彼らの仲間の一人、それを射殺した撃ち手の存在がはっきりと感づかれているのだとしたら、俺の勝算は限りなく薄いものになる。
接近を捕捉されたらそこでチェックメイトと考えていい。第一、ここまで見つからずに来られたことからして
「……」
そうして俺は、無人の路地の闇に難しい判断を迫られた。
一刻を争う場面というわけではない。だがこの判断を遅らせてはならないと思った。ノーマたちは今ごろ息を詰めて俺のいるこのエリアを凝視しているに違いない。早くも膠着した戦線において、ここからの鍵を握っているのは間違いなくこの俺なのだ。
そう――気がつけば俺はまさにこの戦いの鍵を握っていた。俺がこの判断を誤ることは今夜の作戦の崩壊を意味する。
胸ポケットの携帯に指を伸ばしかけ、やはりおろした。……誰かに相談しようにも電話番号がわからない。それ以前にこの電池のきれた携帯でどうやって電話をかければいいのか、その方法が俺にはわからないのだ。
「……」
……これについては俺が判断するしかない。けれども、重すぎる判断だった。このままこうして悩んでいればなし崩しに潜伏を選ぶことになる。結果論としてはそれもいいのかも知れないが……。
そう思ったところでふと、路地の外に覗く狭い視界の端に小さな影が動くのを見た。
「……いた」
側道のずっと先の方、半壊して二階が剥き出しになったビルの根本に、黒々とした人影が動いているのを見た。
一つ、二つではない……確かに六つほど。
「……」
……往来を行きつ戻りつする彼らの様子は、ちょうど
だがとりあえず、彼らはその姿を隠そうとはしていない。それはとりもなおさず、自分たちを射殺しうる撃ち手の存在を彼らが認識していない何よりの証拠だ。
「……よし」
もう判断を迷うことはなかった。無警戒にこちらを見ようともしないあの
だがここからではさすがに遠すぎる。せめてもう少し近づかなければ狙撃できない。そう思って俺は覚悟を決め、路地を抜けてビルの足の影の中に移った。
慎重に慎重を期して、俺は彼らとの間の距離を詰めていった。
いざとなれば飛び出していって彼らの準備が整う前に撃ちまくればいい。だがやはり充分に近づいた上で物陰から狙い撃ちにするのがベストだ。今さら命を惜しむものでもないが、せっかく自分の役が見えてきた舞台からこんな中途半端なところで退場させられるのは避けたい。
戦争ごっこで
あるいはそれだけ彼らが油断しきっているというだけのことかも知れない。いずれにしても機は熟した――そう思って俺は両手で構える銃のトリガーにそっと指をかけた。
――だが、そこで変化があった。前方、つまり俺のいる方とは反対側に何か動きがあったようで、互いに言葉をかけあいながら彼らはわずかにそちらへ移動した。
俺からすれば射程距離に入りかけていたものが遠のいた格好になる。狙撃のための潜伏場所として目をつけていた瓦礫の山に見切りをつけ、開いた分の距離を詰めるためにまた靴の裏に意識を集中した。
二度目のチャンスが訪れるまでにそう時間はかからなかった。彼らが立ち止まっていたのはビルとビルの間に、ちょうど小さな広場のようにひらけた場所で、月光の下にその姿は黒い羊のようによく目立った。
自分が身を隠すのにお誂え向きの路地もすぐに見つかった。あそこから狙い撃てば三人はまず間違いない。その路地へ向かい一歩を踏み出しかけた――そこでまた彼らは動いた。
「……ち」
思わず小さな舌打ちがこぼれた。まったく間が悪い話だと思った。絶好の機会だっただけに、それを逃してしまった失望は大きい。だが俺は仕方なく気持ちを切り換え、また物陰から物陰への忍び歩きを再開した。
三度目のチャンスもほどなくしてきた。半壊したビルの前で立ち止まる彼らを眺めて、今度こそという思いが湧きあがってくるのを覚えた。
その一方で、どうせまた肩すかしを食わされるのではないかという諦めのようなものもあって……そんなことを思いながらふと、俺は何ともいえない妙な気分に襲われた。
「……」
……何かがおかしい。漠然とした不安に、俺は足を止めた。
何がおかしいのだろう……そう、彼らの動きがおかしい。彼らはちょうどこちらの移動にあわせて距離をとっているようだ。ぎりぎりで俺の射程に入らないように……言葉を変えれば、まるで背中に目がついているように。
いや……もしそうだとしたら?
ようにではなく実際に彼らが背中の目でここまでずっと俺を見ていたのだとしたら――
「……っ!」
そのことに気づいた瞬間、銃声は俺の真後ろからかかった。
俺が身を翻してその銃弾を避けることができたのは偶然か、あるいはそれが来ることを無意識に悟っていたためだろうか。
迷う暇などなかった。銃声のあった方へ闇雲に撃ち返しながら、俺は転がるようにして手近な路地に駆けこんだ。
「……!」
その刹那、一瞬だが俺は狙撃者の姿を見た。
彼らと同じ黒――薄汚く煤けた黒い襤褸と異形の仮面。予想外の敏捷さでビルのエントランスに飛びこもうとする『蟻』の姿をはっきりと目にした。
「くそ……」
その前後、示し合わせたように靴音が遠ざかってゆくのを背後に聞いた。……やはり陽動だったようだ。
そのことを確認し、すぐさま彼らのあとを追おうと路地を出て、鼻先をかすめる銃弾に慌てて中へ逃げ戻った。
壁を背に外の様子を窺う……ビルのエントランスからわずかに身を覗かせる『蟻』の姿が見える。ちょうど俺のように背を壁に預け、銃を手に仮面の眼でじっと俺の方を見ている。
「……聞いてねえよ」
『黒衣』たちの靴音が聞こえなくなってしまってから、思わずそんな悪態が口をついて出た。
その言葉通り、『蟻』が敵にまわることがあるなどとは聞いていない。アイネの話では戦いの明くる日、炎天に死体を片づけてまわる害のない掃除屋だったはずだ。それがこうして自分の前に立ちはだかっていることに、俺はわけもない苛立ちを覚えた。
ただその一方で、襲撃者が『蟻』だったこと自体については俺の中でそれほどの驚きもなければ、混乱もなかった。
アイネが隣にいればまた事情は違っていたのだろうが、幸いここにいるのは俺一人だ。むしろあの胡散臭い格好からして、こんなこともあろうかと思ってはいた。そしてそれを斃さない限り先へ進めない今の俺にとって、それが誰であるかはほんの些細な問題に過ぎない。
「……っ!」
ひっきりなしに飛んでくる銃弾のひとつが左耳すれすれをかすめていった。
ひゅっ、と風を切る音が時間遅れで鼓膜に飛びこんでくる。もう少し弾が右にそれていたらこの壁に白子混じりのケチャップをぶち撒けていたところだ。『蟻』の銃撃は途切れない。俺が顔を出そうと出すまいと、ただひたすらに撃ちかけてくるのを止めない。
当然、間隙を縫ってこちらからも反撃する。俺が撃ち始めると『蟻』はすぐさま壁に身を隠し、こちらが手を休めるとまた半身を覗かせて撃ち返してくる。
異様な見かけに似合わず妙に慎重なところがあるように感じた。と言うより……何だろう。もっと率直に、この『蟻』はあまり戦闘というものに慣れていないような気がする。
何度目かの反撃で顔を出したとき、目が合ってお互い顔を引っこめたところでその印象は決定的になった。
果敢と思えば臆病、妙に慎重かと思えば危険を顧みない。そんな『蟻』の様子に、なぜか無性に身につまされるものがあった。そう――俺だ。そのぎこちない戦い振りは、まるで鏡に映った自分を見せられているようだ。
いずれにしろこのままではいけない。焦りの中に俺はそう思った。
俺の果たすべき仕事はこいつとの決闘ではなく、逃げ去ったあいつらの相手をすることだ。一刻も早くここを出て追撃しなければならない。だがとどのつまり、目の前のこいつのために俺はそうすることができない。
「……っ!」
黒々と立つビルの足下にV字を描く側道。俺はそのV字の底に、『蟻』はその真向かいにいる。おまけにちょうど向かいのビルの上に顔を出した月の光が、まるで前サスのように俺のいるここを照らしている。どれをとってもあいつに有利で、V字のどちらへ抜けるにしても俺は被弾を覚悟しなければならない。
そうして気がついてみれば、ここはまさに便所だった。廃墟のどん詰まりにぽっかりと口を開けた便所で、立ち塞がるあいつはその蓋だ。
結局、そういう仕組みだったのだ。あいつらが囮になって俺をこの便所に落としこむ。……首尾よく彼らを追い詰めているつもりで、俺はまんまとその作戦に嵌ったのだ。
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