313 テンペスト(6)
「……ああくそ!」
このままでは
……こうなってみるとあの『蟻』の役割がはっきりと見えてくる。要するに俺の足止めだ。だったらなおのことぐずぐずしているわけにはいかないが、そのためにはまずあの『蟻』をどうにかしなければならない。
だが、あいつがあそこで頑張っている限り、俺はここから抜け出せない。のこのこ出ていけば向こうの思うつぼで、ひっきりなしに飛んでくる弾のどれかに中るのがオチだ。けれども……。
「……」
――被弾覚悟で飛び出すしかない。しばらく堂々めぐりを続けた挙げ句に、そんな芸のない結論に落ち着いた。
ここまでの交戦からあいつの戦闘レベルを俺並と想定すれば、動く的に百発百中といった腕前ではない。だとしたら全力で走り抜ければどうにかなる。一発や二発は食らうかも知れない。だが、急所でなければそれも構わない。
この戦闘で俺に課せられた役、あいつに与えられたに違いない役――そのふたつを総合すれば、少なくともこの便所の底で無意味な撃ち合いを続けているよりマシだ。
「……よし」
踏ん切りをつけるためにあえて声に出した。……が、そう言ってはみたもののいざとなるとなかなか一歩が踏み出せない。反撃を返す、攻撃が止む、その隙に飛び出そうとしてまた攻撃が始まる。
そんな虚しい足踏みを何度か繰り返したあと――ふとここまで気にもしなかった足下のそれに目が留まった。
「……」
――地面かと思い踏みしめていたそれは、半分砂に埋もれたマンホールの蓋だった。
穴はない。ただ赤黒く錆びついた蓋だけが転がっている。縁から指を入れて起こしてみる……重い。両手で持って腰を入れなければとても持ち上げられないほどに重い――だが、どうにか持てないというほどでもない。
決断は一瞬だった。
俺は銃をポケットに突き入れ、両手でその蓋を抱えあげた。重さによろめきそうになるのを
そうしてその蓋を身体の左側へ回るだけ回して、ひとつ息を
「……っ!」
かん、かぁん――
鈍い音と共にかすかな痺れが手に伝わってくる。即席の楯が銃弾を跳ね返してくれているのだ。……だが俺の腕の力は早くも限界に達しようとしていた。持ちあげるだけで精一杯のものを無理な格好で抱えて全力で走っているのだからそれも当然の成り行きだ。
「……らあ!」
弾の音が途切れたところで、俺は迷わず蓋を投げ捨てた。分厚い鉄の板が地面に転がる盛大な音を聞きながら、そのあとは後ろを振り返らず、ただひたすらに走った。
やがて自分の靴音と
「……!」
その直後、俺は反射的に頭を戻してまた全力で走り出していた。
すぐ後ろ――立ち止まれば瞬間に追いつかれる距離――そこを俺とまったく同じ速さで追いかけてくる『蟻』の姿があったのだ。
「何だよあれ……ヤバいって……」
きれぎれの息の中で思わず呟いていた。忌まわしいマスクから黒い襤褸をなびかせ、無人のビルの谷を猛スピードで追いかけてくるその姿には、掛け値なしに鬼気迫るものがあった。
恐怖というよりほとんど生存本能から俺は必死に足の回転をあげた。顧みる――離れていない。これだけ全力で走っても同じ速さであの『蟻』はついてくる。
ぱん、ぱぱぁん――
「ヤバいヤバいヤバいヤバい……」
そのうえ銃弾まで飛んでくるようになった。撃っているのは誰か……そんなものは考えるまでもない。あいつはどうあっても俺の足を止める気なのだ。そう、たとえ俺を殺してでも。
「……っ!」
苦し紛れに銃を抜き、振り向きざまに撃った。だが当然、そんな弾が中るはずもない。追いながら撃つのと逃げながら撃つ、そのどちらが有利かは実際に一度やってみればわかる。
そうこうしている間にも銃弾が風を切り、右耳の上あたりを飛んでゆくのを感じる。
「……ああくそ!」
『蟻』との距離は一向に開かない。このまま地獄の果てまでも追いかけてきそうな勢いだ。
心臓が悲鳴をあげている、息ももう保たない。限界を訴える身体にそれでもぎりぎりまで粘り、力尽きる寸前に目についた路地に飛びこんだ。
「ああああ!」
飛びこんですぐ、残る力を振り絞ってさんざんに撃ち掛けた。『蟻』はさすがに慌てた様子で向かいの路地に逃げこむ。
逃げこむやいなや、すかさずそこから銃弾を返してくる。ばらばらになりそうな脚に力をこめ、どうにか俺もそれに撃ち返す。……これでまた振り出しに戻った。そう思うのも束の間、また『蟻』からの盛大な返礼が飛んで来る。
「……へへ」
乾いた笑い声が聞こえた。もちろん、それは俺のものだった。
最初は苦しさのあまりもれたものかと思った。けれども、違った。すぐに俺は、それが歓喜の笑いであることに気づいた。その他の何ものでもない、歓喜の笑いだった。
「……へへへへ」
いったんこぼれ出すと、笑いはもう止まらなかった。『蟻』との交戦を続行しながら、まだ治まらない息の中に俺はへらへらと笑い続けた。
「へへへ……ははは!」
気がつけば俺は、自分の置かれたこの状況を心から楽しんでいた。砂漠の廃墟で異様なガスマスクに襤褸をまとった正体不明の敵と撃ち合う。その出鱈目でいい加減な、不条理そのものの展開に鳥肌が治まらない。あるいは、頭がおかしくなったのかも知れない。だが、もしそうだとすれば俺の頭は元々おかしかったことになる。
――そう、これこそが俺の望んでいた世界だった。
ずっと追い求めてきた劇の中の世界――そのまっただ中で、俺は役に浸りきっている。この世界に来て初めて、役が完全にはまったのを感じた。そしてそれは俺にとって、純粋で混じりけのない文字通りの快楽だった。
わけのわからないこの世界で、わけのわからないこの役に没入できていること。その事実に俺は全身が痺れるような歓喜を覚え、叫び声をあげたくなるような衝動に突き動かされるまま、場違いな笑いがだだ漏れるのを
「ははは! はははは!」
たがが外れたように笑いながら応戦を続けた。絶え間ない銃声に紛れてもしこの声が届いていたとしたら、『蟻』はいったい俺のことをどう思うだろう?
そう思うはしから目の前の敵――命をかけて撃ち合っている憎むべき敵に、奇妙な共感のようなものを感じ始めている自分がいた。
得体の知れない相手と対峙しているのは俺だけではない。冷たく乾ききった廃墟の闇、その中で銃を手に死と向かい合っている、その一点において俺たちは紛れもなく対等なのだ。
「……」
――と、弾が尽きた。
替えのマガジンはさっき使ってしまったから詰め直さないといけない。そう思ってマガジンを引き抜き、胸ポケットに手を突っこむ。掌からこぼれ落ちる弾をそのままに、
震える指先に作業は遅々として進まない。手が震えているのはもちろん、恐怖のためではない。
「……らあ!」
ようやく弾を詰め終えたマガジンを装填し、俺は反撃を再開した。こちらに合わせて手を休めていた『蟻』からの銃撃も、それでまた激しくなった。
硝煙の臭いは咽が痛いほどで、うち続く銃声に耳がおかしくなりかけていた。それでも、俺はその単調な銃撃戦に倦怠を感じなかった。そればかりか、このまま永遠にこの戦いを続けてもいいとさえ思った。
もう笑い声が出ることはなかった。だが、身体の内側には痺れに似た感動がまだ残っていた。自分の中に役が完全に降りてきていることを、かつてない充足の中に思った。
そう思って――ふとひらめいた。
そうだ、俺はいま自由自在にこの役を楽しんでいる。楽しんでいるからこそ、俺はこんなこともできる!
装填の終わった
当然のように反撃が来る。『蟻』の弾丸が無防備な右手すれすれをかすめてゆく。その弾丸の一つが狙い通り小さな的に命中した。もしそうなったとすれば――
「……ぎあっ!」
右手の銃を前方へ跳ね落とすのと同時に偽りの悲鳴をあげる。
銃声が止む――刹那、俺は左手のデザートイーグルを両手に構え直して路地を飛び出した。
こちらの様子を窺うように大きく半身を覗かせる『蟻』。最初に目についた最も大きな標的、その頭に向け、充分に狙いをつけて前のめりになりながら俺はトリガーを引いた――
銃声と、ガラスの割れる音がそれに続いた。
「……
瞬時の計略は嘘のように決まった。弾丸はガスマスクの眼鏡を粉砕し、『蟻』は声も立てずその場に倒れた。
それを見届けてからも、俺は銃を構えたまましばらく動かなかった。裏の裏をかいて相手が俺と同じ演技をしている……その可能性を恐れたからだ。
だが、いつまで待っても『蟻』は動かなかった。一歩、足を進めてみる……動かない。二歩、三歩と進む……やはり動かない。
さらにもう少し近づいたところで、俺はようやく警戒を解いた。この距離からならば撃ちおろしで『蟻』の背中に穴を空けられる。何より打ち臥せた襤褸の端からは、乾ききった
「……」
そのまま立ち去ろうとして――だがそこで俺は足を止めた。理由は小さな好奇心、自分がたったいま殺した相手の正体について。
……いや、それは決して小さな好奇心ではなかった。先を急がねばならないと思いつつも、そんな好奇心に駆られるまま俺はもう動かない黒い襤褸に歩み寄った。
「……」
うつぶせに臥していた身体を抱え起こし、仰向けに寝かせ直した。こちらに向けられたマスクは左目にあたる部分が欠け落ちて無くなっていた。
噎せ返るような血の臭いに
「……まあ、そうだろうと思ったけど」
襤褸の中から出てきたのは普通の人間だった。
ごく普通の服装をした、ごく普通の背格好の男の死体。頭の左半分、ちょうど左目から上の部分は綺麗に吹き飛んでいる。
砕けた頭蓋骨の内側に覗く灰色の脳髄はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたババロアのようだ。あの距離でデザートイーグルの弾を受けたのだから、当然そうなる。
やはり見るものではなかった。そう思い、覆いを戻そうとして――そこで、俺はふと気づいた。
「……?」
襤褸をかけようとする手を止めて、俺はまじまじと死体を見つめた。
その死体の顔……薄く開かれた右の片目と、早くも乾きつつある血に覆われた鼻筋、半開きの口元。そのひとつひとつに、俺は確かな見覚えがあった。
その死体の顔は、奇妙なまでに俺のそれに酷似していたのだ。
「……あ」
そうして――俺はそれが自分の顔であることに気づいた。
頭を砕かれ、左半分を吹き飛ばされたその無惨な顔は俺のものだった。「みたい」でも「似ている」でもない、紛れもなく俺だった。
たったいま俺が撃ち殺した相手は、黒い襤褸を身に纏った俺自身だったのである。
「……」
死体の頭を腕に抱えたまま、俺はきょろきょろとあたりを見まわした。
なぜそんなことをしたのか自分でもわからない。……そんなことをしても意味はないということはわかりきっていた。だが、俺はそうせずにはいられなかった。
周りには何もなく、誰もいなかった。しばらくそうしていたあと、俺はまた腕に抱えているそれに目を戻した。
「……」
それは確かに俺の顔だった。何度瞬きをしてみても、どれだけ目を近づけてみても同じだった。
不思議と驚きや恐怖はなかった。ただ、俺はどうすればいいかわからなかった。この先どうしていいかわからず、そのまま指一本動かすこともできず、自分の死顔を呆然と眺めながら文字通り俺は途方に暮れた。
ぶぅん、ぶぅん、ぶぅん――
……どれほどそうしていたのだろう。完全に動きを止めていた頭がゆっくりとまた動き出したとき、俺の耳はその低い唸りを聞いていた。
咽の奥から絞り出す呻きのようなその音が、携帯の振動する音だと気づくまでに時間がかかった。呆然自失のまま俺は半ば機械的に携帯を取り出し、受信のボタンを押した。
その直後、鼓膜を切り裂くような叫びが耳元で響いた。
『……こにいるの! お願い……て早く!』
激しい銃声に紛れて、アイネの声は切れ切れにしか聞こえなかった。けれどもその切迫した声に、俺は一瞬で我に返った。
非常事態が起こったことは聞くまでもなかった。そうしてすぐ、具体的に何が起こったかさえ、俺にははっきりとわかった。
「どこだ!」
『B-13! ……がい来て早く――』
通話はそれで切れた。立ち上がり、周囲に視線を巡らせた。
……わからなかった。自分のいるここがどこなのかわからない。どこへどう向かえばB-13にたどり着けるのか、まったくわからない。
それでも俺は迷わず駆け出していた。
黒々と立つビルの谷間に、もう動かないひとつの亡骸を残して――
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