311 テンペスト(4)

「――了解。そのままB-16に向かって。斥候から報告が来るまでそこで待機」


 漆黒のビルの谷間に低く押し殺した声が零れた。


 携帯で指示を出している間もアイネの歩調は変わらない。靴音を立てずに走ることのできるぎりぎりの速度を保ちながら、静寂に充ちた廃墟を俺の知らないどこかへ向かい進んでゆく。


 矢継ぎ早に携帯で指示を出す彼女の周りには隣を走る俺の他に誰もいない。どうやらここまでの経過を見る限り、分隊といっても常に固まって行動するわけではないようだ。


「その辺で待機。ルドルフたちとは距離をとって。……そう、ならB-11まで戻って」


 DJからの指令がそうであったように、アイネによる指示でも例の地点名が連呼される。


 地点名と実際の地理との対応関係は今日の昼の時点でアイネからみっちりと教えこまれた。けれども所詮は付け焼き刃というべきか、俺の中でそれはまだ子供の描いた地図のように漠然としたものに過ぎない。実際、今こうして自分が走っているのが何と呼ばれる地点なのかもはっきりとはわからない。


 くだんの敵が現れたとき、アイネと分かれて一人で指示された場所へ向かうことができるか……その敵とやり合うことよりも、そちらの方が俺には気掛かりでならない。


「うん……わかった、そうして。あと、C-21から目を離さないで。動きがあるとすればそこだと思うから。それだけ気をつけて――」


 まるでチェスの駒を動かすようにひとつ、またひとつとアイネは各組に指示を出してゆく。だがここへきてそれもだいぶ落ち着いたようだ。


 散開した各地点における当面の待機と斥候からの報告待ち。分隊を構成するすべての組にそれを命じたあと、アイネ自身もビルの切れ間……たぶんB-03と呼ばれるあたりの路地に、俺には一言もないまま滑りこんだ。当然、俺もそれに続いた。


 廃墟に風はなかった。路地の暗闇に収まった俺たちを追いかけるように、圧倒的な静寂が押し寄せ、周囲を充たしていった。


 アイネは月明かりのきわに壁を背負い、頭だけめぐらせて外の様子を窺っている。その顔はこちらを見ない。路地に入ってこの方、その目は一度として俺に向けられていない。


「アイネ」


 呼びかける俺の声にアイネは一瞬こちらを見て、だがやはり返事はない。


 アジトを出てからここまで、俺たちの間に会話はなかった。俺の方から声をかけずにきた理由は、彼女の口がずっと携帯に向け喋り続けていたからではない。淡い月光のもとに見るその横顔が、あの部屋を出るときから少しも変わっていないことに気づいていたからだ。


「アイネ」


 もう一度呼びかける。……今度は視線さえ返さない。路地の外に目を凝らすその後ろ髪に、さっきの声に応えてこちらを一瞥したアイネの面差しを思い描いた。


 濃い闇の中にもはっきりそれとわかる、何かを思い詰めたような表情。その表情がどこからくるものなのか――そのあたりは考えるまでもない。


「気にするな、もう」


 アイネは応えない。こちらに顔を向けることもない。けれども俺の言葉が彼女の耳に届いていることはわかった。よく見ていなければわからないほどほんのわずかに肩が動いた、それが証拠だった。


「命令は命令だ。考えたって仕方ないだろ」


「……」


「いつまでも気にしてたら足をすくわれる。それに、今日は俺が援護できなくなることだって――」


「援護なんて期待してない」


「……」


「ハイジの援護なんて期待してない。最初から」


 突き放すような言葉に一瞬、俺は絶句した。相変わらずこちらを見ない頭の裏が、もうこれ以上話しかけるなと言っているように見えた。


 だが、ここで俺が話しかけるのを止めればアイネがだということはわかった。不確定な要素の多い今夜の戦闘において、それがどれほど危険かということも……。


「杞憂っていうんだよ。そういうのを」


「……」


「俺が元いた場所での言葉。空が落ちてくるのを心配してあれこれ悩むことをいうんだ。隊長あいつたおされるなんて、それくらいありえないことなんだろ?」


「……」


「そうなってから考えればいい。もし実際にそうなったら――」


「もしそうなったら」


「え?」


「もし実際にそうなったら、命令に背いてもわたしは隊長を守る」


 決然としたアイネの一言に、俺はまた絶句した。そうしてすぐ、わけもない嫉妬が胸にこみあげてくるのを感じた。


 ……それがひどく安っぽい、筋違いの嫉妬であることはわかった。けれどもその嫉妬をどうすることもできないまま、気がつけば俺の口は動いていた。


「……大した忠誠だな」


 言ってしまってから、それがどんな思いで吐き出された言葉かわかった。


 一瞬で顔に血がのぼるのをはっきりと感じた。暗闇の中にいることも忘れて、俺は恥ずかしさに俯きかけた。そんな俺の背を立たせるように、「それって何?」というアイネの声がかかった。


「え?」


「ハイジがさっき言った言葉。大した何とか」


「……ああ、『忠誠』?」


「そう。その『忠誠』って何?」


「ええと……そうだな。そいつのためなら自分のすべてを投げ出してもいいって気持ちのことだ」


「『愛』ってのとどこが違うの?」


「は?」


「それって昨日聞いた『愛』ってのに似てると思うんだけど。それとどこが違うの?」


「ああ……まあ似てるかも。違いがあるとすれば、犯したり犯されたりがないってことだ」


「……」


「そういうのから離れて、相手のために自分のすべてを投げ出してもいいっていう思い。それがその『忠誠』っていう言葉の意味」


「だったら、どっちにしても違う」


「え?」


「わたしは隊長に『忠誠』なんて持ってない。隊長のためにすべてを投げ出してもいいなんて思ってない」


「……」


「ただあそこで言った通り。わたしは隊長にはなれない。隊長の代わりにみんなをまとめてやっていくことなんて絶対にできない。だから隊長だけはどうしても守らないといけない。たとえそれが命令に背くことになっても。それだけ」


 そう言ってアイネは口をつぐんだ。会話が途絶え、路地の闇はまた耳鳴りがするほどの静寂を回復した。


 その中にあって、俺の胸に渦巻いていた嫉妬はどこかへ消え失せていた。……その言い訳じみた決意の言葉で、まったくそれと気づかぬままにアイネは俺の誤解を解いてくれたのだ。


 それに安堵する気持ちがなかったと言えば嘘になる。けれどもそれ以上に俺は、この状況にあってそんなつまらないことに一喜一憂している自分に脱力を覚えずにはいられなかった。


 ……アイネの中では何も変わっていない。DJの最後の命令をめぐる不安と葛藤――それは俺が少し言葉をかけたくらいでどうこうできる類のものでもないようだ。


「はい。……うん、まだこっちに動きはない」


 どこからか連絡が入ったのか、アイネは携帯を取り出して応答する。短い会話を済ませるとそれをまた胸ポケットにしまい、元通り路地の外の警戒に戻る。


 ……そんな彼女の姿を眺めながら、あるいは俺の方こそ杞憂だったのかも知れないという思いがふと心をぎった。こうして見ればアイネは落ち着いている。きちんと指示を出し、隊長の指示に応え、充分に分隊長としての責務を果たしている。


 戦力には勝っている。はこちらにある。たまたまあんなことを口にしたからといって、実際に今夜の戦いでDJがたおされるなどということは――


「……!」


 不意に――まったくの不意に俺はそのことを思い出した。


 あの日、思いがけずに受けたキリコさんからの電話。その中で宣告されたこの廃墟の危機と、一両日中にDJが失脚するという


 そのすべてを今さらのように思い出し……そうしてすぐ、それがあまりにもことを思って全身が粟立つのを感じた。


「……」


 突然持ちあがった目的のはっきりしない出撃。おそらくこれまで一度も出されたことのない、DJがいなくなったあとどうするかについての命令……。


 思えば今のこの状況は、あの日キリコさんに告げられた予言と符合する部分が多すぎる。いや……まるでDJがその筋書プロットを知った上で、それに沿ってここまで物語を進めてきたようにさえ思える。


 忘れかけていた『舞台』という言葉が忽然と脳裏に蘇った。いま自分が立っているそこ。しばらくは意識せずにいたその舞台に、俺は一瞬で引き戻された。


 そう……これは舞台の一部なのだ。この砂漠の廃墟も、冷たく乾いた夜気も、気掛かりな作戦の決行を前にこうして路地の闇に身を潜めている俺たちさえも。


 いつの間にかその舞台に立っていた自分に気づいてから、何もわからないままここまで手探りでやってきた。だがどうやらそれは俺に限っての話で、共演者の方ではだいぶ事情が違っていたようだ。


 この舞台にはのだ。そしてその筋書を、少なくともキリコさんは把握している。仕組まれたその筋に沿ってこの舞台をどこかへ……俺の知らない結末へ導こうとしている。


 ……その筋書を自分が知らされていなかったことについて不平を言い立てたいわけではない。アイネに至ってはこれが舞台であることすら知らされてはいないのだ。役者それぞれで形而上メタフィジックの認識に違いがある……これがそういう舞台だとするなら、そういう舞台として俺は役を演ずるまでだ。


 それに、ここへきて俺はその筋書を間接的に知ることができた。とりあえずのところ、その筋書によればDJは今夜の戦闘で失脚を余儀なくされる――


「……」


 そして――俺は今さらのようにその事実に気づいた。


 キリコさんから告げられたこの舞台の筋書……それを確かなものとして信じるのであれば、それはとりもなおさずDJがこの戦闘で姿ということを意味する。


 撃ち殺されるのか、あるいは捕虜として連行されるか……その辺まではわからない。だがどういった形をとるのであれ、隊長としてのDJは今夜をもって俺たちの前からいなくなる。


 ――だとしたら、それはもう杞憂ではない。アイネの気に掛かっていることは今夜、ある種の予定調和として現実のものとなる。


 アイネに伝えなければいけないと思った。DJが本当にいなくなることを、今のうちにアイネに伝えなければならない。だが、何と言って……? わずかな逡巡のあと、何を言うべきかわからないまま口を開きかけた。


 左胸にじりじりとビリつく振動を感じたのは、ちょうどそのときだった。


「鳴ってる」


「え?」


「携帯鳴ってる。ハイジの」


「あ……」


 その指摘に慌てて俺はポケットから携帯を取り出した。……キリコさんから借りたままになっているワインレッドの携帯。とっくに電池が切れていたはずのそれは、永い眠りから覚めたように振動し、盛んにランプを明滅させている。


 着信ボタンを押して頬にあてる。間髪を入れず、切迫したDJの声が鼓膜に飛びこんできた。


『A-24で連中と遭遇。6人だ。まだ突っこんじゃこねえが、数が数だけにこっちも動けねえ。本隊はA-20から22に散開。至急合流しろ。以上だ――』


 俺の返事を待つことなく、性急に電話は切れた。その余裕の感じられない応答からしても、事態が急を要するものであることは間違いない。


 一昨日の戦場だったA地区なら地点と地区名が一致する、俺一人でもどうにか指定の場所にたどりつくことができる。


 顔をあげてアイネを見た――こちらに顔を向けていた彼女と目が合った。


 アイネは何も言わなかった。路地の外に覗く薄明かりを背に、ただ黙って俺を見つめていた。指令の内容をただすことも、気をつけての一言もなかった。


 いかにもその態度に俺は小さく溜息をつき、そのまま無言でアイネの脇を抜け、路地を出た。

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