094 消えかけた光の中で(6)

 ――ほの暗い土塊つちくれの部屋を見ていた。


 ざらついた砂の感触を頬に感じ、それで自分が寝台に横たわっていることに気づいた。


 日の出前の砂漠の大気はまだ充分に冷たかった。窓の外に覗く薄明の空は、その大部分において夜のあおさをそのままに残していた。


 素裸の上半身に身震いを覚え、はだけていた毛布を肩まで引きあげた。それから頭だけで後ろを見て、そこにペーターがいることを確かめた。こちら向きに身体を丸める少女の顔はやつれ果てていたが、薄汚れたドレスに包まれた胸は穏やかに上下していた。


 お互いまだ生きている――それだけ確認して俺は頭を元に戻した。


 気怠い感覚の中、再び眠ろうと目を閉じた。だがしばらくそうしていたあと、眠りに就けそうにないことを悟って仕方なくまた目を開けた。


 東の壁に穿たれた窓から生まれたての光の粒子がひとつ、またひとつと舞いこんでいた。それにつれて薄暗かった部屋の様子が徐々に明らかになってゆくのを、なぜか初めてそれを目にするような気持ちで眺めた。


「……」


 窓の外に白みゆく景色が透明に澄みきって見えた。もはや飢えも渇きも感じない自分の身体が極限に近いことを、その清澄な景色の中に見た気がした。


 今日太陽が昇れば、たぶんそこが俺の――俺たちの最期になるのだと思った。けれども逃れがたいその事実を前にしても、俺の心はもう何も感じなかった。


「……?」


 ふと、寝台に押しつけた耳にかすかな音を聞いた。


 最初小さかったその音は徐々に大きくなっていき、やがてこちらに近づいて来ていることがはっきりとわかるまでになった。虫の羽音に似た、低く地を這うようなその音には聞き覚えがあった。


 誰かを乗せたエンジンの音がこの城に近づいている……衰弱のためかぼんやりした頭でようやくそのことを理解した。


「……っ!」


 何の感動もないまま、それでも身体は動いていた。


 寝台から転げおち、痛みをこらえながら床に膝を突いた。まるで他人のもののように脚はがくがくと震え、寝台に腕をかけなければ腰をあげることさえできなかった。


 だが、どうにか立ち上がることはできた。倒れこむように窓辺に近づき、そこから身を乗り出して音のする方を見た。


「……」


 ……見えなかった。音は確かに近づいているが、その姿はどこにも見えない。


 死角の方向から来ているということなのだろうか。いずれにしろ、そんなことはどうでもいい。誰が、何の目的でこの城を訪れようとしているのか。それもこれも、今の俺たちにとってはほんの些細な問題に過ぎない。


「ぐ……」


 崩れ落ちそうになりながら『王の間』を出た。歩き始めてすぐ激しい目眩に襲われたが、壁伝いにゆっくりと進む分には支障がなかった。


 階段では転がり落ちないように、腰をおろして一段一段降りていった。そんな進み方をしても息があがる自分の身体に限界を感じながら、それでももう迷うことはない黎明の薄暗い通路を出口に向かい真っ直ぐに進んだ。


「……」


 通路を抜け『中庭』に出たとき、音はもう聞こえなかった。途中からほとんど必死になって歩くことに集中してきたせいで、いつから聞こえなくなっていたのかわからない。


 風のない砂漠に朝を迎えようとするオアシスに一切の音はなかった。まだ陽のささないナツメヤシの林が、濃い群青の空を背に黒々と陰って見えた。


 ……あるいは幻聴だったのだろうか。ふとそんなことを思い、脱力して倒れそうになるのをどうにか持ちこたえた。


 だいたい俺は何のためにここに降りてきたのだろう、と今さらのように思った。近づいて来ていたものがいつかのように俺たちを捕らえようとする敵だったとしたら、わざわざ見つかるために苦労してここまで出てきたようなものだ。


「……」


 しばらく待ち続けても音は戻ってこなかった。城門からジープが乗りこんでくることも、銃を構えた兵士がそこから降り立つこともなかった。


 ……やはり幻聴だったようだ。そう思い、放心の中に大きく溜息をついた。また『王の間』に戻る道のりの長さを思って挫けそうになりながら踵を返そうとして――


 そこで初めて、城壁の陰からじっとこちらを見る小さな人影に気づいた。


「……やあ」


 声もなくたたずむその人影が誰のものであるか、すぐにわかった。思わず手をあげて間抜けな挨拶をかける俺に、あの日と同じ民族調の衣装を身にまとったウルスラはゆっくりと近づいてきた。


 やがて俺の目の前に立ち止まり、手に持っていたものを無言で差し出した。白抜きの文字が並ぶ青いラベルの貼られた、ならどこにでも売っているスポーツ飲料のペットボトルだった。


「あ……」


 それを受け取ることができないまま、ただウルスラの顔を見守った。


 差し出されたものが今の今まで、文字通り渇望していたものとわかっても……いや、それがわかるからこそ俺はどうしていいかわからなかった。そんな俺の気持ちを察したように、ウルスラは俺の見つめる前でそのペットボトルの蓋をひねり開けた。そしてまた何も言わずそれを俺の前に差し出した。


 その先はもう何も考えられなかった。引ったくるようにしてウルスラの手からペットボトルを奪い、大地に膝をつき天を仰いで一気に呷った。勢いのあまり咳きこみ、鼻の奥にと来るのがわかってもペットボトルを口から離さなかった。


 最後の一滴まで飲み終わり、ふと我に返ってウルスラに向き直ると、いつの間に用意したのか彼女はもう一本のペットボトルの蓋を開け、さっきと同じように差し出してくれた。俺はためらうことなくそれを受け取り、また一息にそれを飲み干した。


 空になった二本のペットボトルを眺めながら、細胞のひとつひとつに水と電解質とが浸み渡ってゆくのを感じた。生き返るというのは、まさにこういうことを言うのだと思った。


 その圧倒的な生命の実感に陶然となっている俺の前に、ウルスラは今度は何か布のようなものを広げて見せた。それは徒労に終わった昨日の木登りで、椰子の木に引っかかったままになっているはずのシャツだった。


「……ありがとう」


 自分が上半身裸であったことを思い出し、少し気恥ずかしいものを感じながらシャツを受け取ろうと手を伸ばした。


 けれどもなぜだろう、ウルスラの手はそれを渡してくれなかった。その代わりに彼女はシャツを広げた手をそのままに俺の背中にまわり、地面に座る俺に合わせて屈みこんだ。


 それでようやく俺にも、ウルスラがそのシャツを手に何をしようとしてくれているのかわかった。


「……」


 後ろに突いていた両腕をあげると、ウルスラは慣れた手つきでその腕にシャツを通してくれた。それから前にまわり、ボタンまでも留めてくれる。それくらい自分でできると断ろうと思ったが、俺がそう口に出す前にボタンはすべて留まっていた。


 作業を終えるとウルスラは立ち上がり、そのまま城壁の裏に消えた。


 時を置かず、あの日と同じ軍用のバイクを引いて戻ってきた。そしてそのバイクの荷台に積まれていた段ボール箱の紐を解き、その箱を地面に降ろした。


「なぜあの泉の水を飲まなかったのですか?」


 荷物を縛ってあった紐を荷台に巻きつけたあと、ウルスラはそう言いながら静かに俺の横に腰をおろした。


 彼女が今日ここに現れて初めてのその言葉に、俺は一瞬なにを聞かれているのかわからなかった。だがウルスラの視線の先に生まれたての朝陽を受けて輝く泉の水面を見て、その質問の意味がわかった。


 それでも、すぐには答えられなかった。昨日、満天の星の下でその泉の水を飲むことを俺に許さなかった理由わけが何であったか、今はもうはっきりと思い出すことができなかった。


「……持ってきてくれたビニール袋、ぜんぶ破れちゃったんだよ」


「……」


「どうしてそうなったのか話すと長くなるんだけど」


「そんなことを聞いているのではありません」


「……」


「なぜ水を飲まなかったのか、そのわけを聞いているんです」


 端整な横顔にどこか責めるような目をこちらに向け、ウルスラは言った。彼女らしい静かな声とともに投げかけられたその視線の意味は、何となくわかる気がした。


「……毒入りだって聞いたから」


「少量なら問題ないと申し上げたはずです」


「それでも、毒は身体に入れたくなかった」


「死んでしまってもですか?」


「ああ。死んでも」


「……呆れました。こんな方だったなんて」


 いかにも失望したというように、溜息まじりの声でウルスラはそう言った。その言い方に俺はなぜか場違いなおかしさを覚え、思わずくくっと声に出してしまった。


「何がおかしいんですか?」


「……ごめん。何でもない」


 すぐに笑い止んだ俺にウルスラは最初非難がましい目を向けてきたが、そのうち自分でもおかしくなったのか口元に曖昧な笑みを浮かべた。そんな短いやりとりのあと、俺たちは示し合わせたように黎明の空を眺めた。


 空はもうかなり白み始めていた。けれども太陽はまだ地平から顔を覗かせていなかった。


「荷物、また持ってきてくれたんだね」


「……」


「本当に助かるよ。前に持ってきてくれたのはもうないんだ。色々あって」


「そのようにお聞きしましたので」


「……聞いた? 誰から」


「あの方からです」


 ウルスラはそう言って城の頂を振り仰いだ。あの方というのが誰のことかはそれでわかったが、もちろん俺の中では話が繋がらなかった。


「あいつがどうやって?」


で接触を受けました」


「あちら?」


「はい、です」


「ああ……


「管理者である姉を介して救援を求めてこられました。ですので、こうしてまたまかり越したのです」


「なるほど」


 まだよくわからない部分が多かったがそう返し、それ以上は聞かなかった。とにかくこれで完全に手詰まりに陥っていた状況が開けた、それがすべてだった。


 本心ではすぐにでも物資を持ってあいつの元へ駆け上がりたかった。けれどもその気持ちをぐっと抑え、二度までもその貴重な物資をもたらしてくれたウルスラにかける言葉を選んだ。


「そっちの状況はどう?」


「え?」


「ほら、誰かを相手に戦ってるって。その後の戦況はどうなのかと思って」


「戦況は思わしくありません」


「……」


「いえ……率直に絶望的といっていいでしょう」


 にわかに影がさしたウルスラの横顔に、それが不用意な質問であったことを悟った。しかし、もうその質問を取り消すことはできなかった。そんな俺の思いを知ってか知らずか、ウルスラは真剣な声でその質問への回答を続けた。


「あたしたちの――あの人の描いていた構図は崩れました。幾つかのイレギュラーな要素によって計画は空中分解し、事態は想定された最悪の結末に向かっています」


「……」


「そうなることを回避するためにあらゆる手立てを尽くしました。けれども現状では遠からず来るその結末を避けられない見通しです」


「……そうか」


「あたしたちの舞台に幕がおろされるのは、もう間もなくのようです」


「……」


「ですが、後悔はありません。あたしたちは……あたしはやるべきことをやりました。こうして貴方の元に参りましたことも含めて」


 そこまでと同じ静かな、だが吹っ切れたような声で凛然とウルスラは言った。ようやく地平から額を突き出した太陽の、その生まれたての光の中にウルスラの横顔を見た。


 ふと、その顔が心なし青ざめていることに気づいた。


 ――そこで初めて、乾ききった大気の中にも疑いのない濃厚な血の臭いが鼻に届いた。


「……! どこか怪我してるのか?」


「大丈夫です」


「そんなこと聞いてない! どこか怪我してるんなら――」


「もう時間がありません」


「……」


「あたしがここに来られるのはこれが最後です。もう少しだけ……もう少しだけお話をするお時間をください」

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