095 消えかけた光の中で(7)

 俺の言葉を遮り、こちらを見ないまま懇願するようにウルスラは言った。それで俺はもうそれ以上、何も言えなくなった。


 透き通るように白いウルスラの横顔をじっと見つめ、その唇が開かれるのを待った。やがて、その唇が動いた。


「この場所に未来はありません」


「……」


「先ほど申し上げましたように、あたしがここに来るのはこれが最後です。そうなれば、もうここには誰も訪れないでしょう。物資はあれが最後です。あの箱の中身がなくなれば、それでもうおしまいです」


「……」


「ただその時が来るのを待つだけです」


「……」


「段ボール二箱分のわずかな未来。あたしが今日お持ちしたのは、そんなつまらないものです。……そんなことしかあたしにはできない。それが堪らなく悔しいんです」


 朝陽の中にその端整な顔を歪ませ、絞り出すようにウルスラは言った。目先の喜びに浮かれていた俺の心は、それでいっぺんに醒めた。


 確かにその通りだった……それは最初からわかっていたことだ。


 砂漠の真ん中に忘れ去られたこの廃墟に未来などあるはずもない。今日ウルスラがもたらしてくれた物資が尽きれば、また干涸らびるのを待つだけの状況に戻る。もうここに彼女が来ることはない。だとすれば、この先どう頑張ったところでその結末を避けることはできない――


「一緒に来ませんか?」


「え?」


「あたしと一緒に……ここではない場所に行きませんか?」


「……」


 いつの間にか表情の消えた顔を真っ直ぐ太陽に向け、小さな声で独り言のようにウルスラは言った。


 すぐには応えられなかった。……と言うより、何を言われたのかよくわからなかった。ウルスラと一緒に行くということが何を意味しているのか……その先に何があるのかわからなかった。


 そんな俺の気持ちを察したように、太陽に顔を向けたまま静かにウルスラは続けた。


「こちらにも未来はありません」


「……」


「先ほど申し上げましたように、戦況は限りなく絶望的です。ちょうどここと似ていますね。もう残りわずかな未来……」


「……」


「ですが、それを求めることはできます。未来を求めて、必死に足掻くことはできるんです」


「……」


「だから、違います。ただその時を待つだけのこことは違います。あたしは……貴方に来て欲しい。貴方と一緒なら、どんな未来だって乗り越えてゆける……そう思うんです」


 そう言い終えるとウルスラは口を閉ざした。東の空をじっと見つめたまま、彫像と化したように動かない。


 暁のほの明かりの中に浮かぶ横顔からは、やはりその表情を読み取ることができなかった。ウルスラがどんな思いでその言葉を口にしたのか、それがはっきりとはわからなかった。


 まだよくまとまらない頭で、ウルスラがくれたその提案について考えた。


 ……その提案が悪くないものであることは間違いないと思った。それどころか出口の見えない迷路に突如として現れた、おそらく唯一の脱出口と言っていい。


 文字通り砂漠に慈雨じうのような願ってもない提案だった。思いがけずそれが与えられたことに、こうして戸惑いを覚えずにはいられないほどの……。


 何の問題もないと思った。その提案に乗れば新しい道が拓ける、それはまったく確かなことだった。


 その道の先にあるのは彼女の言う通り、ここと同じような困難な未来かも知れない。それでもウルスラがそう言ってくれるのなら……共に来て足掻いてくれと言うのなら、これまでの彼女への恩に報いるためにも力の限り足掻いてみたい。けれども――


「あいつは?」


 瞬きもせず太陽を見つめたまま、その質問が来ることをわかっていたようにウルスラは小さく身を竦ませた。そのまましばらく動かなかった。


 そんな彼女を眺めて充分に待ったあと、俺はもう一度その質問を投げかけた。


「あいつも、一緒に行っていいのか?」


 長い時間があって、ウルスラは何も言わずゆっくりと首を振った。そうして絞り出すような声で一言、「駄目です」と呟いた。


「どうして」


「……ひとりしか乗れません。あの荷台には」


「何とかなるだろ、もうひとりくらい」


「……駄目です」


「箱を縛ってたあの紐で身体をわえれば――」


「駄目です」


「……」


「それは、駄目なんです」


「……わかった」


「……」


「なら、俺は一緒には行けない」


 何でもないことを言うように、その答えを口にした。


 それがどれほど重要な答えであったか――どれほど決定的で、どれほどウルスラの厚意を踏みにじるものであったか、わかりすぎるほどわかった。


 けれども、俺はそう答えるしかなかった。たとえそれがもう二度と差し伸べられることのない救いの手だとしても、この廃墟にあいつ一人を残して、俺はどこへも行くことなどできない。


 俺の答えに、ウルスラは何の反応も見せなかった。彫像のように固まったまま、俺のことなど忘れてしまったようにただじっと彼方を見ていた。


 だが、やがてゆっくりと頭をこちらに向け、その顔にぎこちない笑みを浮かべた。スローモーションでかたちづくられてゆくその表情の中に、唇が震えているのがはっきりと見てとれた。


「……では、お別れですね」


「そうか……そうだな」


「……」


「ありがとう。心から感謝してる」


「……」


「本当はウルスラと一緒に行きたい。すごくそうしたいんだけど、でもあいつがいるから――」


 ぎこちない笑顔のままウルスラはまた小さく首を振った。そうしていつの間にか手に持っていたものを俺の前に差し出した。


 黒い銃身のところどころに塗装の剥げた傷だらけのリボルバー。それはあの日――いや、その日を含め何度も彼女が俺に手渡してくれたピースメイカーだった。


「……どうしてこれウルスラが持ってるんだろ」


「さっき拾ったんです。あの椰子の根元に落ちてました」


「そっか……あのときに落としたのか」


「はい。もうなくさないでくださいね」


「ああ……ごめん、ありがとう」


 そう言いながら銃を受け取った。指先から熱を奪う冷たい鉄の手触りは変わらない。


 ほんの数日前、招かれざる訪問者から身を守れと言って彼女がこれを渡してくれたときのことが、遠い昔の出来事のように思い出された。その短い回想の中にふと、俺はそのことに気づいた。


「これはもう必要ないよ」


「……」


「だって、ここにはもう誰も来ないんだろ?」


 そう言って俺が返そうとする銃をウルスラは受け取らなかった。その代わりにぎこちなさの消えた穏やかな笑顔をこちらに向け、真摯な目で真っ直ぐに俺を見据えて、言った。


「あの方を撃ってください」


「え?」


「それであの方を撃ってください」


「……」


「一刻も早く。それが、あたしからの最後の忠告です。どうかお聞き届けくださいますように」


 俺の目をじっと見つめたまま、静かな声ではっきりとウルスラは言った。その言葉に、俺はどんな反応を返すこともできなかった。


 何も考えられず呆然とウルスラを見つめる俺を、彼女はただ黙って見つめ返していた。


 どれほど時間が経ったのだろう、やがてウルスラはゆっくりと顔を前に向け、そうして独り言のようにぽつりと呟いた。


「静かですね、ここは」


「……」


「本当に、ここだけ時が止まったように静か」


 それだけ言ってウルスラはまた黙った。緩慢に朝を迎えようとする砂漠から、それで一切の音が消えた。


 その言葉通り、ここは静かだった。


 これから彼女が立ち向かわねばならない未来からも……この世界で起こっている、あるいは起きようとしているすべての事件から置き去りにされたここは、彼女の言葉通り、本当に時間が止まったように――


「もう、行かなければなりません」


 そう言ってウルスラは立ち上がった。こちらを見ず足早にバイクへ向かい、颯爽と座席にまたがる。


 慌てて俺も立ち上がり、バイクに歩み寄った。


 しなやかな脚がスターターを蹴る。エンジンが回り始め、静寂を乱すその音が単調なリズムを刻み出したところで、ヘルメットを胸に抱えウルスラはこちらに顔を向けた。


「あのお芝居は楽しかったですね」


「え?」


「この間の二人でのお芝居です。あのお芝居は楽しかった」


「ああ、あれか。そうだな、楽しかった」


「ええ、本当に楽しかったです」


「俺も楽しかった。機会があったらまたろう」


 その言葉に、ウルスラは小さく首を横に振って応えた。それから縋るような目で一瞬何かを言いかけ――だが、何も言わなかった。


 風が吹いた。艶やかな黒い髪が流れ、うすく開かれたまま震える唇にかかった。その髪の向こうに、唇が固く結ばれるのが見えた。


 ヘルメットが持ち上げられ、頭の上に降りた。長い髪が手際よく押しこめられてゆき、やがてすべてがその中に納まった。


 両手がハンドルを掴み、右の足がステップにかかった。その頭がこちらを向いた。唇が何かを告げようとしているのが見えた。


 爆音に掻き消されないように、俺はヘルメットのシールドに耳を近づけた。


「さよなら、お兄さま。あたしの……あたしだけのお兄さま」


 舞い上がる砂塵に思わず目をつむった。


 どうにか目を開こうとする視界に、バイクがはや城門を出ようとしているのが見えた。


 反射的に俺は駆け出し、無我夢中でそのあとを追った。


 けれども息せき切って城門から飛び出したとき、その背中はもう手の届かない彼方にあった。


 暁の荒野にバイクが黒い染みとなって消えたあとも、俺はずっとそのままでいた。両手をだらりと垂らして城門の前に立ち尽くし、一歩も動くことができなかった。

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