096 消えかけた光の中で(8)
どれほどの時間そうしていたのだろう。
額から流れ出た汗が目に入り、視界が歪むのを覚えた。気がつけば太陽は既に高く、風のない大地をじりじりと焦がしていた。
汗が流れるのも当たり前だと思った。こうして陽射しの中に立っていられるのもあとわずか――
そこまで考えて、俺は卒然と自分のなすべきことを思い出した。
「……っ!」
踵を返して『中庭』に駆け戻った。さっきまでバイクが停めてあった壁際に、ウルスラが持ってきてくれた箱を見つけ、走り寄った。
箱はふたつあった。まだ開封されていない箱がひとつと、そこから少し離れた場所に蓋の開いた大振りの箱がひとつ。蓋の開いている方の箱の中身は、思った通りあのスポーツ飲料のペットボトルだった。
その箱を抱えて城の中へ駆けこんだ。
荷物はずっしりと重く、抱え上げる腕はすぐに悲鳴をあげ始めた。2リットルのペットボトルがダースで詰まっているのだからそれもそのはずだった。
それでも身体は自由に動いた。そのペットボトルの中身によって充分に水分を補給した身体は、夜明け前に壁伝いにしか進むことができなかった通路を軽やかに駆け戻ることができた。
息せき切って『王の間』に駆けこむとペーターは寝台の上に背を立てて座っていた。
部屋に入ってきた俺を虚ろな目で眺める――まだ生きている。
内心に安堵を覚えながら箱を床におろし、その中から中身の詰まった一本のペットボトルを抜き出した。そして今朝ウルスラがそうしてくれたようにその蓋をねじ開け、砂まみれの寝台に乗りあげて膝をついた。
「ほら、飲め」
まだ落ち着かない息をそのままに、蓋を開けたスポーツ飲料をペーターの目の前に差し出した。
これでもう大丈夫だと思った。生気の感じられないこの顔も、これを二本も空ければすぐ元通りになる。
いや、いっそ箱の中身をぜんぶ飲ませてしまってもいい。そう思ってペットボトルを突きつける俺に、けれどもペーターは何の反応も示さなかった。
「……どうした?」
言葉をかけても反応はなかった。ぼんやりとこちらを見つめたまま、俺の差し出すペットボトルを一向に手に取ろうとしない。
……もうそれを受け取るだけの気力も残っていないのかも知れない。そのことに気づいて俺はペーターに身を寄せ、その頭を抱え顎をあげさせて口にスポーツ飲料を流しこもうとした。
だがペットボトルの中身が落ち始めたちょうどそのとき、それを受け容れるべき唇は閉ざされ、その首を伝い虚しくこぼれ落ちてしまう。
「……口
ペットボトルを傾ける手を休め、ペーターの頭をぽんぽんと軽く打った。それからもう一度その頭に腕をまわし、口が開くように上を向かせてスポーツ飲料を飲ませようとした。
けれども、それが流れこむ前にまたしても口は閉ざされた。まるで飲むことを拒むように……そこに至って初めて、俺が飲ませようとするそれを飲むまいとする彼女自身の意思が存在することに気づいた。
「お前……これ飲みたくないのか?」
問いかけに返事はなかった。ただ虚ろな目で俺を見つめ、固く閉ざしていた唇をゆっくりと開いてゆく。
彼女がこのペットボトルの中身を飲むことを拒絶しているのはそれではっきりした。だがなぜそれを飲むまいとしているのか、その理由が俺にはわからない。
「……どうしてだ」
胸に湧き起こる疑問をそのまま口に出した。けれどもペーターからの回答はなかった。
土汚れて目の落ち窪んだ、元の彼女を知る者にとっては正視に耐えない別人のような顔に、輝きの失せた目をはりつけてじっとこちらを見ている。
……危険な状態などもうとっくに通り越している。このまま気温があがればいつ命が奪われてもおかしくない。
「……どうして飲まないんだ。お前、このままだと死ぬぞ」
そこまで言っても反応はなかった。全身に脱力を覚えながら、大きく深い溜息をついた。
……正直、わけがわからなかった。なぜペーターがこのペットボトルの中身を飲もうとしないのか、その理由が俺にはまったくわからない。
「普通の水なら、飲むのか?」
間の抜けた質問を口に出してすぐ、そんな理由であるわけがないと思った。スポーツ飲料は飲むことを拒み、真水なら飲む……そう、そんなことはありえない。
こいつがこれを飲まないということは、あらゆる飲み物を拒絶しているということだ。
俺にはその理由が何であるかわからない。だがそれがどんな理由であるにせよ、明らかな脱水症で生命が危険に晒されているこの状況にあって、彼女は生きるために必要な唯一のものを頑なに拒んでいる。
「なあ……どうしてだ」
ほとんど懇願するような声で問いかけた。だが、やはり答えは返ってこなかった。
飲み物を拒むこと以外なんの反応も示さず、砂埃にまみれた浮浪者そのものの顔で
……そういえば昨日も同じような思いに駆られて似たようなことをした。そんなことを思い返しながらペットボトルを手に彼女の背中にまわり、その口を無理矢理開かせるため唇の間に指を突き入れた。
「いっ……!」
指を挿し入れたところで、彼女の歯が千切れんばかりにその指を噛んだ。だが俺はそれに構わず指を噛ませたまま顎をあげさせ、わずかに開いた唇の間にペットボトルの中身を流しこんだ。
ペーターは小さく
けれども液体をいっぱいに
俺の手から落ちたペットボトルが寝台に転がり、色褪せ乾ききったその表面に大きな黒い染みをつくった。
……当たり前のことだった。たとえ口を開かせて流しこんだとしても、こいつに飲む気がなければ一滴も飲ませることなどできない。
力なく寝台に両腕をつく俺の前でペーターは表情を変えない。まだだらしなく口の端からこぼれ続けるものも、それによって重く濡れそぼったドレスも……何も顧みはしない。
「飲んでくれよ……頼む」
真向かいからペーターの顔を見据えて言った。だが、反応はなかった。
「お願いだ……お願いだから飲んでくれ」
両手でその細い肩を掴み、ありったけの思いをこめて言った。だが、反応はなかった。
「お前を失いたくない……だから……頼むから飲んでくれ。お願いだから」
もう何も考えられないまま目の前の身体に縋りつき、彼女の口からこぼれ出たものに
それでも、ペーターの反応はなかった。俺の腕の中に翻弄されるその身体は、さっきまでの抵抗が嘘だったかのようにぐったりと手応えがなかった。
抜け殻のような身体を抱き締める自分の腕が震えているのを感じた。それが何のための震えであるか、自分でもわからなかった。
その震えが治まるまで、俺は何も言えずただじっとそのままでいた。震えがとまり、それからさらにしばらくの間ペーターを抱き留めていたあと、俺はおもむろにその腕を解き、寝台を降りて床の段ボール箱から新しいペットボトルを取り上げ、その封を切った。
「……」
最後にもう一度、無言でそのペットボトルをペーターの目の前に差し出した。だが、やはり反応はなかった。
……それで俺は諦め、ペットボトルの蓋を閉めて元の箱の中に戻した。そうしてまた寝台にあがり、ペーターの正面に膝を抱えて座った。
それから差し向かいにお互い身じろぎもせず、ただ言葉もなく俺たちは見つめ合った。もっとも真っ直ぐこちらに向けられた彼女の目――光の消えかけたその虚ろな瞳に何が映っているのか、それは計り知れなかった。
あるいはもうここではないどこか遠くを見ているのかも知れない……そんな思いが自然と浮かんでくるほど、間近に見るペーターの顔は酷かった。けれどもそんな状態にある彼女に、俺はもう無理に水を飲ませようという衝動を覚えることはなかった。
その代わりに頭の中は折からの疑問でいっぱいになった。なぜこいつは水を飲むことを拒むのだろう――何度問いかけても彼女から答えの得られなかったその疑問をもう一度自分の頭で紐解き、冷静に組み立て直した。
このまま水を飲まなければ今日を越せないかも知れない……それはこいつもよくわかっている。それがわかっていながらこうして頑なに水を飲もうとしない。――だとすれば、その理由はひとつしか考えられない。
「……お前、死にたいのか?」
問いかけに返事はなかった。だがその質問を口に出したことで、俺はそれが正解だという確信を持った。
そう……この極限状態で水を飲むことを拒む理由があるとすれば、それ以外に考えられない。なぜそんな馬鹿な決意を固めたのか、そんなことはわかるはずもない。
けれどもただひとつはっきりとわかることは、こいつが今まさに水を絶って死のうとしているという事実……それだけだった。
「お前が飲まないなら、俺ももう飲まない」
「……」
「俺も死ぬからな。お前と一緒に」
思わずそう言ってしまってから、自分のことをまるで意地になった子供のようだと思った。だがそんな自嘲とは裏腹に、半ばやけになって口にしたその意志は簡単に消えてくれなかった。
ペーターの反応はなかった。俺の言葉などまったく耳に届いていないというように、ぼんやりとここではないどこかを見ている。
そんな彼女に一瞬、激しい怒りに駆られ、「そんなに死にたければ死ね」と声に出しかけた。けれどもその言葉を吐く前に怒りは掻き消え、代わりに俺は大きく深い溜息をついた。
……もうどうでもいいと思った。何もかも、もうどうでもいい。
投げやりな気持ちで胡座にすわり直し、はからずも宣言してしまった
「……」
静寂の
それと共に、肌に触れる大気が帯びる熱は刻々と厳しいものになっていった。そうして今日まで毎日がそうであったように、やがてその暑さは日の当たらないこの部屋の中にあってもじりじりと肌を炙るような耐え難いものになった。
全身を滝のような汗を流れ落ちてゆくのがわかった。不快には違いなかったが、それが昨日までは得られなかった生物としての自然な反応だと思うと、むしろ心地よさのようなものさえ感じた。
……この汗を流しきったとき、俺はまた昨日までのあの地獄の苦しみの中へ戻る。そう思ってペーターを見た――乾ききったその顔には一滴の汗も浮かんでいなかった。
「……」
この灼熱の大気の中にあって、ペーターは汗をかいていなかった。かかないのではなくかけないのだということは自分の身体を流れる汗をみるまでもなく明らかだ。
彼女がもうとっくに限界を超えているのだということを改めて確認した。
そのことを認め、顎の先から滴り落ちた汗が寝台に小さな染みをつくるのをなにげなく眺めた直後――今、自分がすべきことはつまらない意地を張ってこいつにつきあうことではないと気づいた。
「……っ!」
寝台から飛び降り、床に転がっていた空のペットボトルを掴んだ。そのまま通路に駆け出し、もはや通い慣れた日干煉瓦の空洞を『中庭』まで走り抜けた。
切りつけるような陽光の中を泉に駆け寄り、空のペットボトルを沈めて生暖かい水を汲んだ。そうしてそれがいっぱいになるかならないかのところで、踵を返して『王の間』に駆け戻った。
「はあ……はあ……」
部屋に駆けこんですぐ寝台に飛び乗り、同じ姿勢のまま動かないでいるペーターの頭にペットボトルの水を注ぎかけた。
突然の水流に目をつぶり、それから表情のない顔をこちらに向ける彼女を無視して、俺はまた部屋を出て階段を駆け下りた。
通路から『中庭』への出口に今朝俺がウルスラからもらって空にしたペットボトルが落ちているのを目に留め、それも拾い上げた。もう一本のペットボトルと合わせて二本のボトルを満たしてまた『王の間』に戻り、さっきかけた水がまだ乾かないペーターの頭にその二本分の水を容赦なくぶっかけた。
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