093 消えかけた光の中で(5)
「おや……これは」
「あ、どうも……」
俺の姿を認めたオハラさんとぎこちない挨拶を交わしたあと、そのまましばらく男同士見つめ合った。
彼の背後に鉄塊がまた勢いよく流れ出すのを見て、俺は何も言わず噴水のへりに腰をおろした。ほんの少し時間を置いて、オハラさんも同じように俺の隣に腰かけた。
そこから長い沈黙があった。
俺としては予想外の再会と疲労とで頭がまわらず、オハラさんが話しかけてくれるのを待っていた。だがいつまで待っても口を開かないので結局、俺の方で話を切り出した。
「新しい仕事は決まったんですか?」
「え? ああ……まだです」
「……そうですか」
「この不景気ですし、お若い方ならともかくあたしのような年齢ですとまともな仕事というのはなかなか」
「……」
「車を運転する以外、何の取り柄もない年寄りですから。その車の運転にしたところで、免許を持っていれば誰にでもできるもんでありますし」
「……」
「こんなことなら、何か資格でも身につけておけばよかったと後悔しているところです。今さら後悔してもどうなるもんでもありませんですが」
自嘲とも諦めともつかない口調でそれだけ喋ったところでオハラさんは口を閉ざした。顔色をうかがうようにちらりと俺に目を向け、それからまた正面に向き直った。
そして俺がさっきそうしていたように車の行き交う車道をぼんやりと眺めながら、口元にどこか寂しそうな笑みを浮かべて言った。
「それに……恥ずかしながら、どうもあたしは
「え?」
「長いことお勤めしていたお屋敷を
「……」
「不思議なことに、こうやってあなた様とお話ししておりまして生き返ったような心地がしておるんですが、いや、ここ数日は本当にひどいもんでした」
「……」
「どう言ったらいいのでしょう……見るもの聞くものすべてに
自分もだ、という言葉をすんでのところで飲み下した。なぜかはわからない……だがそれは言ってはならない言葉のような気がした。
そんなことを思う俺の横でオハラさんはいっそう恥ずかしげに目を伏せ、白いハンカチで顔の汗を拭きながら更にその話を続けた。
「いやはや。いつかそうなるもんとはわかっておりましたんですが、実際そうなってみますと実に心細いもんです」
「……」
「しかもこういうときに……いや、こういうときだからそうなってしまったというのは承知しておりますんですが。弱り目に祟り目とでも言いましょうか、そういったものを感じてしまいましてですね」
「……」
「かと言って身よりのない年寄りですから、どこかに厄介になるというわけにもいきませんのです。さてどうしたものかと……」
「……」
「……いや失礼、つまらないことを喋ってしまいまして。こんな話をあなた様にするつもりはなかったんでありますが」
オハラさんはふと我に返ったようにそう言うと、その言葉通り心底申し訳なさそうな顔をこちらに向けた。そんな彼に一言も返すことができないまま、俺は車道に目を移した。
車には見えない……もはや鉄塊とすら思えない無数の物体が通過してゆくそのおかしな情景を眺め、もしオハラさんが呆けてしまったのだとしたら、同じように俺も正常な心を失っているのだと思った。
そのことをオハラさんに伝えようと口を開きかけ、だがやはりそうすることができなかった。それを伝えることで呆けたと思いこんでいる彼を救うことができたとしても、何の解決にもならないのだとわかった。
また長い沈黙があった。永遠にも感じられる長い長い沈黙だった。その沈黙を破ることは俺にはできなかった。そうしてどれほど黙っていたのだろう、口を開いたのはオハラさんだった。
「あの子は、どうしていますか?」
「え?」
「お嬢様です。未練ですが、ずっと気になっておりまして」
さっきまでとは違う優しい目で俺を見つめ、オハラさんはそう言った。
その質問に俺はすぐには返事を返すことができず、ただ黙って俯いた。忘れかけていた現実をいきなり突きつけられた気がした。
あいつがどこでどうしているか……それは俺自身が大声で聞きたいことに他ならなかった。
「……会ってません」
「やはりそうですか」
「いえ、違います。会いたいのに会えないんです」
「……」
「どうしても言いたいことがあって、昨日からずっと捜してたんです。けど、見つかりませんでした。徹夜で町じゅう捜しまわったんですけど」
「……そうだったんですか」
「どうも俺、先週末あたりから避けられてるみたいで」
「……」
「どうにかして前みたいに話せるようになりたくて……でも、どんなに頑張ってもあいつは俺と向き合ってくれないんです。擦れ違ったままでいるのが苦しくて……けどもうどうしようもなくて」
胸につかえていた思いが素直に口を衝いて出た。そんなことをオハラさんに話したところで何の意味もないことはわかっていたが、言葉は止まらなかった。
すべてを吐き出してしまったあと、たぶんさっきオハラさんが浮かべていたものによく似た自嘲の表情で彼の方を見た。
だが俺と目が合ったところでオハラさんは何を思ったのか、「ふふ」と忍び笑いをこぼして俺から目を逸らした。
「……どうして笑うんですか?」
「いやしかし、ふふ。ふふ……」
「俺、何かおかしなこと言いましたか」
「……これは失礼。大変失礼しました。ただあたしとしましては、あの子の方があなた様に追いかけられる日が来るとは夢にも思っていませんでしたから」
そう言ってオハラさんはまた少し笑った。
唐突な笑いの謎はそれで解けたが、それ以上に俺はその言葉に衝撃を受けた。
あの頃と今とで、俺とあいつの立場が入れ替わっていることを初めて気づかされた。なりふり構わず追いかける側と逃げながら追われる側、そのふたつがそっくり入れ替わってしまっている。
考えてみればそれは面白いほどの完全な裏返しだった。その事実を知ったオハラさんがこうして失笑せずにはいられないほどの……。
「それでいいんだと思います」
そんな俺の感慨をよそに一頻り笑ったあと、オハラさんはさっきペーターのことを聞いてきたときと同じ優しい目で俺を見て言った。
何が、と聞き返しかけてやめた。オハラさんの口にしたそれがどんな意味なのか、聞かなくてもその答えがわかったからだ。
「……そうでしょうか」
「ええ、あたしはそれでいいと思います」
「けど、どこ捜してもいないんですよ。あいつはもう俺と会う気ないんじゃないかって……」
「そんなことはありませんです」
「……」
「そうやってあなた様が追いかけていれば、そのうちあの子の方からひょっこり顔を見せるに決まっております」
「……そうですか」
「はい、そうですとも。それにつきましては、不肖このあたしが保証いたしますですよ」
そう言ってオハラさんはにっこりと口の
……思えばこの人はずっと俺たちのことを気にかけてくれていた。あの舞台前一週間のどたばた騒ぎで俺たちが周りを見られなくなったときも、オハラさんはいつも陰からそっとそんな俺たちを見守ってくれていた。
「……そうだ」
そこでふと思いつくところがあり、ジーンズのポケットに手を伸ばした。
老人から返された例の舞台のチケットを取り出し、目の前に広げた。水を吸ったせいでぼよぼよに波打ち、印刷もほとんど薄れかけていたが、あいつがマジックで書いた日付だけは奇跡的にちゃんと読みとれた。
それを確認して、俺はそのチケットをオハラさんに差し出した。
「……これは?」
「舞台のチケットです。日曜日にやるはずだったのをもう一度やり直そうって、あいつがそう言い出して」
「明日ですか……わかりました」
腕時計とチケットとを見比べながらオハラさんはそう言った。それでようやく俺にも今の日付がわかり、少なくとも舞台をすっぽかさずに済んだと胸をなで下ろした。
オハラさんは懐から大振りの黒い財布を取り出し、チケットをその財布にしまうとまた懐に戻した。そして柔和な笑みを浮かべたまま「さて、そろそろお
「きっと観に行かせていただきます」
「え? あ……はい。よろしくお願いします」
「楽しみにしています。それでは、また明日」
それだけ言うとオハラさんは立ち上がり、軽く頭を下げて去っていった。俺は立つか立たないかの中途半端な姿勢で頭を下げ返すことしかできなかった。
車道に向かうオハラさんの前に鉄塊が流れを止め、その姿が見えなくなったところでまた流れ始めるのを見た。
現実から乖離した町の景色はそのままだった。その中に一人取り残された自分も、さっきまでと何も変わらなかった。
――けれどもそんな景色を眺めながら、俺は自分のやるべきことを心に刻んだ。今、自分が何をしなければならないか、何よりもわかりやすい形でそれをオハラさんは示していってくれたのだと思った。
情動はなかった……そこにあの夕暮れの模型屋の前で感じたような衝動はなかった。それでも俺がそれをしなければならないこと、何の感動もない中にそれだけは力強くはっきりと感じることができた。
そうして眺める端から、またゆっくりと景色が崩れてゆくのを見た。
一段と蒸し暑さを増した灰色の町に、車道をゆく鉄塊はぐるぐると回りながらバターのように溶け、ただそこを移動する色彩だけの存在に成り変わっていった。
……時間がないと思った。まるで危機感がないまま、こうしてここに居続けることの危険を思い出した。
そう……時間がない、ここにいつまでもいるわけにはいかない。それにもしそうでないとしても、明日の昼までにはどうしてもあいつを捜し出さないといけないのだ。
それだけ確認すれば充分だった。疲弊しきった全身に力をこめ、噴水から立ち上がろうとした。
……と、そこでまた目の前の景色に人影を見た。
車道に色彩の流れは止まってはいなかった。幻影のように通過してゆくその色彩の合間を縫って、人影はゆっくりとこちらへ近づいてきた。
最初はオハラさんが戻ってきたのだと思った。だが絶え間なく横切ってゆく色とりどりのカーテンの間からその人影が姿を現したとき、そうではなかったことを知った。
それはペーターだった。
「……」
横断歩道を渡りきった場所に立ったまま、ペーターはそれ以上こちらに近づいてこようとはしなかった。光の加減で表情はよくわからない。
そんな彼女に、俺は何と声をかければいいかわからなかった。
彼女に会うために一晩中町を駆けずりまわった、どうしても伝えなければならない言葉があった……そのはずだった。けれどもいざその本人を目の前にしてその言葉を伝えることはおろか、どんな顔をしてどう切り出せばいいか、それさえもわからない。
「もう、ここへは来ないでください」
それでも口を開こうとした俺の言葉を遮るように、乾いた声でペーターはそう言った。
そこにこれまでのようなあからさまな拒絶の意思は感じられなかった。ただその声はちょうどさっきまでの俺の心象に似て、立ち上がることさえできないほど疲れ切り、何かを諦めかけているように聞こえた。
その
「ここにはもう来ないでください。この前、ちゃんとそう言いましたよね? 私」
「……」
「すぐに帰ってください。そして、もう二度とここへは来ないでください」
「……」
返事ができないでいる俺に、ペーターは何度もその言葉を口にした。車道すれすれに立ちそこから一歩も踏み出さないまま、ただ単調にそれだけを繰り返した。
流れゆく色彩を背に立ち尽くす彼女がなぜそこから動かないのかわからなかった。何を思ってそんなことばかりを投げかけてくるのか、それがわからなかった。
そんな彼女の言葉を、俺は黙って聞き続けた。だが次第に理由のわからない苛立ちがこみあげてくるのを感じた。その苛立ちに任せて、俺は噴水から立ち上がった。そのままペーターに向かい、ゆっくりと近づいた。
「なら、どうして爺さんにチケットを渡した?」
近づきながら問いかけた。その問いかけに返事はなかった。
向かいから顔を隠していた反射光が切れ、そこで初めてペーターの表情を見た。……思い詰めたような表情だった。こんな彼女の顔を、いつかどこかで見たことがあると思った。
「答えろ。何で爺さんにあのチケットを渡した?」
「……」
「舞台をもう一度やり直すなんて、何であの人にそんなことを言った?」
そんな俺の問いにペーターは無言で首を振った。そして何かを訴えるような目でじっとこちらを見つめ、さっきまでと同じ言葉を機械的に繰り返した。
「お願いです。もう帰ってください」
「……」
「もう捜さないでください。二度と私の前に姿を見せないで」
俺の問いに答えず、何度も同じ言葉を繰り返すペーターに苛立ちはなおも募った。足早に駆け寄りその肩を掴もうとして――だが手を伸ばしたそこに彼女はいなかった。
反射的に振り向いた、その先にペーターはいた。
反対側の車道すれすれ、ちょうどこちら側に立っていたのと同じ場所から、真摯に光る目で真っ直ぐに俺を見ていた。
「私はもう二度とあなたを受け容れません」
「……」
「あの夜、あなたが私を拒絶したように、私は永遠にあなたを拒絶する。それが私の答えです」
「……仕返しのつもりか」
「仕返しなんかじゃありません」
「なら、どうしてだ」
「どうして? あなたこそどうしてそんなことを聞くんですか?」
「……」
「あなたは私がそうする理由を、本当はわかっているんじゃないですか?」
ペーターの目の前に立ち、その身体に触れようとしたところでまた彼女はいなくなった。
振り返ればやはり反対の道際に、次々と通過してゆく色彩の群れを背負って立っていた。
苛立つ気持ちを抑え、俺はまたゆっくりと彼女に歩み寄った。だが今度は俺が充分に近づく前に何か思い出したように目を逸らし、高架下に続く金網の向こうの何もない空間を眺めてペーターは言った。
「ほら」
「え?」
「聞こえませんか? ほら」
「……」
そう言われて俺はペーターの眺めている方を見た。けれどもそこには何もなかった。
彼女に目を戻して、何も聞こえないと言おうとした。そしてその言葉を口にする前に、これが何度となく繰り返されたやりとりであることに気づいた。
思わず身構えた、だがぼんやりした眼差しで金網の向こうを見つめるペーターは動かなかった。
――直後、彼女の手から放たれなかった弾丸の代わりに、その音が俺を襲った。
きいい――――――――――――――――――――
「ぎっ……!」
鼓膜を切りつけるような音に、俺は咄嗟に耳を塞いだ。けれどもその音は耳の内側から直接、脳へ振動を送り続けた。
目の前でペーターが何かを喋っているのが見えた。だが次第に大きくなってゆくその圧倒的な騒音の中に、俺がその言葉を聞き取ることは、もうできなかった。
「ぎ……ぎぎ」
必死の力で耳を押さえ、その音に堪えることしかできなかった。
やがて金網の向こうを見るのをやめ、彼女がこちらに向き直るのが見えた。その顔にさっきと同じ思い詰めたような表情を浮かべ、また小さく口を動かした。
俺に何かを伝えようとしているように見えた。だが、彼女が何を伝えようとしているかわからなかった。
――そして俺と彼女との間に亀裂が走った。
それははっきりと目に見える現実の亀裂だった。鳴り止まない騒音に押し潰されそうになりながら、俺はその亀裂の向こう側へ行くために駆け出した。
けれども、足は前に進まなかった。景色ではなく世界を構成する原理自体に刻まれた巨大な亀裂の裏から、ペーターは真摯な目でじっと俺を見ていた。
やがて、その視界も崩れた。
もはや俺という存在を呑みこんで溶かし尽くした音の内側に、流れゆく色の群れも灰色の町も、巨大な亀裂さえもばらばらに分裂し、無数の断片となって飛散した。
すべてのものがその本来の意味を失った混沌の中に、一人の少女だけが最後まで残った。
その眼差しだけが、壊れゆく世界から拒絶されようとする俺の意識に、最後まで何かを訴え続けていた――
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