092 消えかけた光の中で(4)
そうして俺は一人、昨日の雨が乾ききらない昼下がりの道を歩いた。
それはもうあの日の道ではなかった。自分のいるそこがペーターと偶然出会ったあの午後の道でないことは白昼夢から覚めたように――あの芝居小屋や庭園で我に返ったときと同じようにはっきりとわかった。
それでも俺は記憶をなぞりながら、あの日ペーターと歩いた道をゆっくりと歩いた。
相変わらずどこへ向かっているかもわからないまま一歩一歩、疲れ切った身体を引きずるようにその光彩に充ちた思い出の風景をたどった。
やがてバス停に着いたときには日もだいぶ傾いていた。あの日ペーターと別れた小さなトタン屋根のバス停。そのベンチに腰をおろして、たどってきた道を日陰から何気なく眺めた。
それからまた歩き出すために立ち上がろうとして――俺はそのベンチから立ち上がることができなかった。
「……」
……こんな所で休んでいるわけにはいかない。そう思う気持ちとは裏腹に、糸が切れた身体はいつまでも立ち上がってはくれなかった。
そこでふと、ほとんど感覚がないまま震え続ける脚に気づいて、初めて自分の疲弊のほどを知った。それで俺は立ち上がるのを諦め、そのまましばらくバス停のベンチで休むことにした。
ところどころ光の筋が洩れるバス停の日陰に、眺めるともなく目の前の道を眺めた。
バスは来なかった。座り始めてからだいぶ時間が経っても、眺めている景色を煤けたバスの
そのバスを待つ人が俺の隣に腰かけることもなかった。
誰も通らない、一台のバスも停まらない町外れの道を、ベンチにもたれたままただぼんやりと眺め続けた。
やがて日が陰り、空の裾がゆっくりと朱色に染まり始めても俺は立ち上がることができなかった。
砂が詰まったように硬直する脚に何度か力をこめようとして、だがその度に気持ちが萎えた。
本気で立ち上がろうと思えばそうできたのかも知れない。けれども疲れ切った身体に鞭打ってそうするだけの気力が、もう俺にはなかった。
ただぼんやりとベンチに腰かけたまま、暮れなずむ町外れの空を眺めた。
まばらに浮かぶ雲の合間に、インディゴとマゼンタが混ざった複雑な色彩が広がってゆくのを見つめながら、俺はなぜこんな所にいるのだろうと思った。
……こんな所にいつまでも座りこんで、俺は何をしようとしているのだろう。何をするためにここにいて、これから何をするべきなのだろう。
「……」
その答えはわかっていた。
俺はあいつを捜して走り続けていた。この町のどこかにあいつを捜し出して、あいつ自身がやろうと言ってくれた舞台に一緒に立とうと、自分の言葉でそう言うために必死でここまで駆け抜けてきた。
……けれどもなぜそんなことをしなければいけないのか、今の俺にはその理由がわからなかった。
昨日、ちょうどこんな夕暮れの空の下、あいつを求めて駆け出したそのときの気持ちを、もう思い出すことができなかった。
「……」
ここにペーターはいなかった。それだけ確認して俺はベンチを立とうとした。
けれども立ち上がったあと自分がしなければならないことを思って……その思いが俺に立ち上がることを許さなかった。
彼方の地平に太陽はその輝きを失おうとしていた。まるでそれと示し合わせたように、あいつを追い求める俺の気持ちも消えかけていた。
西の空に沈みゆく太陽をじっと見つめた。そうしながら自分がこれからしなければならないことを考えた。
それは何も変わらなかった。この町のどこかにあいつを捜し出すこと。そして今度こそ一緒の舞台に立とうと、自分の言葉であいつにそう告げること。
……だが、俺はもうそのことに衝動を感じることができなかった。ぼろぼろに疲れ果てた身体を引き起こすだけの情念が、もう俺の中にはなかった。
「……」
今にも消え入ろうとする太陽の残光を眺めるうちに、ふといつか何かの本で読んだ物語を思い出した。
古いシベリアの民話。大地から顔を出したばかりの太陽を射止めようと、東へ東へと真っ直ぐに旅した男の物語。
それを読んだとき、なぜその男がそんな無意味なことをしたのかまったく理解できなかった。
――けれどもたったひとつの大切な目的を見失いかけた今の俺には、その男を地の果てまで走らせたものが何だったのか、それが何となくわかる気がした。
「……」
立ち上がらなければいけないと思った。
たとえ衝動が消え失せても、そうする理由がわからなくなっても、俺はあいつを捜し続けなければならないと思った。
一昼夜町を走り回ってもペーターの姿はなかった。この先どれだけ捜し続けても、あいつが俺の前に姿を見せる保証はどこにもなかった。
それならばひたすら西に向かって歩こうと思った。男が昇り来る太陽を追ってそうしたように、俺はただ沈みゆく太陽を追ってそうしようと思った。
空と大地の境界に太陽は消えかけていた……時間がなかった。それに追いつくことができなければ、俺はまた目的を見失うのだと思った。
燃え尽きる寸前の太陽を凝視し、ようやく俺は立ち上がった。
周囲には濃厚な夏の匂いのする夜気が漂い始めていた。それに取り囲まれるまえに、ここを発たなければならないと思った。
そうして俺は硬直して伸びきらない脚に力をこめ、既に闇の中にあるバス停の陰から出るために一歩を踏み出した――
「――」
苛立たしげなクラクションを残して車体が目の前を通り過ぎていった。
踏み出しかけていた足を戻して、俺はその場に立ち尽くした。
視界に横たわる片側三車線の道路にはひっきりなしに車が行き交っていた。
薄曇りの空から降る弱々しい光が、その灰色の風景を曖昧に照らしていた。
――車道に沿って走る高架橋の下に、俺は立っていた。
潰れたビールの空き缶とコンビニエンスストアの袋が浮かぶ小さな噴水の前、互い違いに流れる車道に挟まれた広場とも呼べない広場。
大学にほど近い通い慣れた道の、何度となく目にしたことのある場所だった。けれども目に映るその景色には、さっきまで俺の心に訴えていた何かがすっぽりと抜け落ちていた。
「……」
全身に重くのしかかる疲労をそのまま映したような景色だった。その景色を、ただぼんやりと俺は眺めた。
そうして眺め続けるうち、間断なく目の前を通過してゆく車の群れはそのひとつひとつが冷たい鉄の塊になっていった。
車道は車道であることをやめ、一本の無機的な構造物の流れとなった。景色を構成する要素がばらばらに分解され、その本来の意味を失いグロテスクな何かに変貌してゆくのを、立ち尽くしたまま呆然と俺は眺め続けた。
それはまたあの壊れゆくコラージュの町だった。
昨日、模型屋の店主に会うまでずっと俺の目に見えていたもの。本物とそっくりの、だが明らかにそれとは違う
排ガスと
「……」
自分がなぜここにいるのかわからなかった。
昨日の夕暮れに模型屋の店主と別れてからここまで、俺はあいつを捜し出すために駆けずりまわってきた。
べったりと額に張りつく前髪と汗いきれがむっとくるシャツはそのままで、身体じゅうの筋肉を苛む鈍い痛みもそれが嘘でなかったことを物語っている。
……おそらくはあいつの意思により一昼夜かけて思い出の場所めぐりをさせられ、結局会うことができないまま俺はあのバス停のベンチにたどり着いた。
日が暮れるまで動けず、それでもなけなしの気力を奮い起こして立ち上がったところで、気がつけばこの元の場所に戻っていた……。
そう……俺はまた元の場所に戻ってきた。
あいつを求めて駆け出してからずっとついてまわった生々しい現実の皮膚感は、もうどこにもなかった。今、俺がいるここは刻一刻と崩壊してゆく統御の破綻した世界で、おかしな言い方だがそのあるべき姿だった。
なぜ一時的にその統御が回復したのか、なぜまたそれが突然崩れたのか、そこまではわからなかった。ただ確かなのは今こうしている間にもここの崩壊は進行しているということ――そしてここにもペーターはいないということ、それだけだった。
「……」
すぐにここから動こうと思った。だがそのにわかな決心も、もはや得体の知れないものに成り果てた灰色の景色を前に一瞬で崩れ落ちた。
この町のどこにあいつがいるのか……そもそもちゃんとこの町のどこかに存在するのか、それがわからなかった。
そして俺にはもう、昨日そうしたように宛てもなく町じゅうを彷徨うだけの気力は残っていなかった。……本当のところを言えばこうして立っているのさえやっとで、できるなら誰の
そう思って俺は動くのを諦め、ゴミだらけの噴水のへりに腰をおろした。
……そういえばいつかこうして高架下の噴水に座りこんで誰かと話したことがあったのを思い出した。それがいつのことだったか、誰と話しこんだのか、そこまでは思い出せなかった。
頭がうまくまわっていないのかも知れない……きっとそうなのだろう。
その証拠に俺はこんな無駄な時間を過ごしながら、それを仕方ないことだなどと考えている。それがどれほど危険で愚かな行為か痛いほど知りながら、いつまでも立ち上がろうとしない抜け殻のような自分がいる。
「……」
ふと、いま何時か気になった。ついさっきまで夕方のバス停にいたわけだが、空の感じからしてここはどうみてもその時刻とは思えない。
……それよりもあれからどれだけの時間が経ったのかわからない。俺の中では丸一日が経過しているものの、それと同じだけの時間がこちらでも過ぎているのか、あるいは違ったのか……それを確認する手段はなかった。
せめて時間だけでも知りたいと思った。どこかで落としたのか手首に腕時計はなく、薄曇りの空に太陽の位置はわからなかった。午前なのか午後なのか、それさえもわからなかった。
気怠さの中に俺は首だけを動かして、時刻の手がかりになるようなものがないか周囲を見まわした。
「……?」
と、いつの間にか静止していた色とりどりの鉄塊――信号待ちで停車する車の前の横断歩道を渡って誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
くすんだ背広に身を包んだ男のようだった。ハンカチで額の汗をぬぐいながら近づいてくるその男の顔が誰かわかるまでになったとき、俺は自動的に立ち上がっていた。
それはオハラさんだった。
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