202 最後まで演じきるということ(4)

「ぐわ……っち」


 半開きの口から思わず呻き声が漏れた。


 そんな声を漏らさずにはいられないほど、部屋の中の暑さは耐え難いものになっていた。蒸し風呂――と言うより過度に乾燥したその暑気は、さながらオーブンの中でじりじりと炙られているようだ。


 不思議なことに汗は一滴もかいていない。ただそれが実際にかいていないのか、それともかいたそばからこの乾ききった大気の中へ蒸発していってしまうのか、わからない。


 その暑いさなかにあって肩まで毛布を被っているのは、キリコさんにそうするよう命じられたからだ。


 もちろん最初はその理由がわからなかったが、部屋の気温が上がって来るにつれ、おのずとそうすることの意味を実感できるようになった。熱い風呂をかき混ぜると余計熱くなるのと一緒で、外気温が体温よりも高い場合、空気の流れはできるだけ抑えた方がいいのである。それに、あるいはこうして肌を覆っていることで、汗の蒸散を防ぐという意味もあるのかも知れない。……いずれにしろ俺としてはこの地獄のような暑さの中、大人しく我があるじの命令に従うより他ない。


「……ったく」


 その我が主がどうしているのかといえば、床に投げ出した俺の脚を枕に安らかな寝息を立てている。


 人に命じた通り首まですっぽりと毛布にくるまってはいるものの、やはり暑苦しいのかこうしているはしから腕と言わず脚と言わず毛布をはねのけようとする。それを元通りに直すのは当然、俺の役目である。


 最も暑い時間を寝てやり過ごすというのは理にかなったやり方だと思うし、実のところ寝入る前のキリコさんから俺もそうするように言われた。……だがそう言われてもこんな経験したこともない異次元の暑さの中、横になり目を瞑ったところでそう簡単に眠れるものではない。


「……んー」


「……んー、じゃねえよ」


 ……にもかかわらず平然と眠りに就き平和な寝息を立てている人の顔を見れば、思わずそんな悪態をつきたくもなる。この状況でまったくいい気なものだ、という思いがつきない。


 こっちにしてみれば太腿の真ん中に頭を載せられているせいで身動きができず、あまつさえ脚に血がいかず痺れ始めている。かといってこの固い床の上にキリコさんの頭を投げ出すこともできず、大人しく膝枕を続けるしかない。


「……はあ」


 大きくひとつ溜息をつき、膝元で眠る人の顔をぼんやり眺めた。


 ――そういえばいつかもこんなことがあった。俺たちがまだあの町でヒステリカの舞台に向け邁進していた頃に起きた小さな事件。アイネといさかいを起こしたあとに、人気のない交流会館で眠るキリコさんに膝枕をしたときのこと。


 ……今となっては本当にそんなことがあったのかいまいち確信が持てない、ほとんど前世の出来事のように思える。いったいあれは何だったのかと、こっちが劇の中であることも忘れて、そんな気持ちさえ湧いてくる。


「……んが」


「……んが、じゃねえよ……ったく」


 暑そうにまた毛布をはねのける手を押さえて、もう一度キリコさんの身体に毛布をかけ直した。……何だかこうしていると大きな子供の世話をしているような気になってくる。相変わらず悪態も口を衝いて出る。


 ……けれどもそんな悪態とは裏腹に、キリコさんという女性ひとの強さをつくづくと感じずにはいられなかった。この状況で呑気に眠れるということはそれ自体、この人の強さ以外の何ものでもない。それはこうして眠りに就くことができない俺にはない強さに違いなく、だからこそ俺は毛布を直すくらいしかできない今の状況に甘んじ、溜息などついていられるのだと思う。


「……」


 ただその一方で、強さばかりではないこともわかっている。その強さと同じくらいの弱さをこの人が持ち合わせていることを、あの一週間をたどってきた今の俺はよく知っている。その弱さをさらけ出した彼女と、飾りのない心で向き合えたあの月夜のことも――


 その夜のことを思い出して、忘れかけていた思いが胸の奥に蘇るのを覚えた。もはや懐かしくさえある、それはキリコさんへの慕情だった。


「――」


 そこで、俺は不思議な符合に気づいた。


 あの夜と、今朝の夢の終わり。そこで自分の中に湧き起こった感情は……なぜだろう、よく似ている気がした。


 もちろん厳密には違う。あの夜、必死でくぐり抜けてきた紆余曲折の果てにキリコさんと共に辿り着いた屋上での出来事と、今朝、夢の中で偶然行き当たったに過ぎないが同じものだったとは思わない。


 俺がいだいていた思いも違う。少なくとも俺はあの夢の中で少女に対し、慕情などという名前で呼ばれるものはこれっぽっちも感じていなかった。


 けれどもそうした諸々をとっぱらい、単純にとして考えたとき、その両者はやはり驚くほどよく似ていた。


 それまで分かり合えなかった一人の人間と分かり合い、裸の心で向かい合って互いに理解し合えたこと。その中で俺がある種の強い感動を覚えたこと――そうした現象だけをみれば、あの夜のことと今朝のそれとはそっくりだった。……その時間が長くは続かなかったことも、もし叶うならばもう一度その場所に立ちたいと考えている自分がいることも。


 ……ただ、そうやって考えてみれば符合する点は他にもあった。


 あの夜のことと今朝の夢の関係ではない。もっと広い枠組みでとらえてみれば、よく似通ったものが他にもあることが見えてくる。あの《歯車の館》ととの関係は、と俺が元いたあの町との関係によく似ている。……いや、様々な要素を併せて考えれば、そちらの方がよほど近似した構図ということになるのかも知れない。


「……」


 そう……考えてみれば確かに似ている。


 似ていると言うより、あの《歯車の館》ととの関係は、と俺が元いたあの町との関係に瓜ふたつだった。あの町から初めてに来たあの日、まるでワープか何かのようにまったく異なる場所にいる自分を発見したときの感覚は、少女との初めての『訓練』であの《歯車の館》に送り込まれたときのそれとまったく同じだった。


 ワープのための条件もよく似ている。拳銃で頭を撃ち抜くことと、喉を切り裂かれることとの違いこそあれ、『致命傷』がワープの条件だということについては共通しているのだ。


「あれ……違うか」


 だがそこまで考えて、自分が少し取り違えていたことに気づいた。


 ――その考え方でいくと対応関係が逆になる。あの《歯車の館》ととの関係は、とあの町との関係に似ているのではない、あの町ととの関係に似ているのだ。


 『致命傷』がワープの条件だと考えるならどうしてもそうなる。あの《歯車の館》ととの関係は、あの町ととの関係に似ている。自ら拳銃で頭を撃ち抜いたとき、あるいは少女に喉を切り裂かれたとき、そのどちらにおいても意識を失ったあと、気がつけば俺はにいる自分を発見したのだから――


「……まあいいか」


 だいぶ複雑になってきたので、俺はそれ以上考えるのをやめた。……と言うより、考えることができなくなった。いつの間にか考え事をするには暑くなり過ぎていたのだ。


 窓の外を見た。灼熱という言葉が生やさしいほどの陽光が、墓標のように建つ朽ち果てたビルの群れをてらてらと炙っていた。音はなかった。まるで時が止まったようだ。


 その光景を一頻り目に焼き付け、眠れはしないだろうと思いながら、せめてものことに俺は瞼をおろした。


◇ ◇ ◇


 そこからは地獄だった。暑さのために意識が朦朧とする中、ただひたすらに時間が過ぎ去るのを待った。


 暑い盛りに水を飲み過ぎるなというキリコさんの指示に従ってできるだけ飲まないようにしていたが、堪えきれず部屋に転がっていたペットボトルの残りをあらかた飲み干してしまった。死にかけた魚のように口をぱくぱくさせて喘ぎ、思わず毛布をかなぐり捨てようとして余計に暑くなることを確認したりもした。


 ようやく日が傾きはじめた頃にはぐったりして立ち上がれないばかりか、まともにものを考えられない有様だった。だからやがて目を覚ましたキリコさんが部屋を出て行き、昨日の夜と同じように水と食糧を携えて戻ってきたときも、ほとんど放心に近い思いでそれを眺めていた。


 キリコさんが無言のまま哀れむような顔で差し出すそれを、俺は初め受け取ることができなかった。しかし気がついたときにはペットボトルを垂直にして勢いよく喉に流し込み、おきまりのように咽せて口といわず鼻からもその中身を周囲に撒き散らした。


「眠ったかい?」


「……全然」


 ややあって口を開いたキリコさんの質問に、何の感動もなく俺はそう答えた。その答えがわかっていたかのようにキリコさんは小さく鼻を鳴らし、それからぼさぼさの髪を掻き上げて気怠そうに言った。


「眠るように言ってなかったっけね?」


「……暑くて眠れませんでした」


「そうかい。ならまあ仕方ないさ」


「あと膝枕してたんで」


「え?」


「キリ――じゃなくて博士ドクターの頭が脚に乗ってたんで横になれなかったんです」


 俺がそう言うとキリコさんは驚いたように目を丸くし、それから「ぷっ」という擬音そのままに吹き出した。……相変わらずどこに笑いのがあるのかわからなかったが、それについて考える気力はなかった。その笑いも長くは続かず、立ち消えになった。


 それで会話は終わった。あとには元通り、音の死んだ廃墟に射す光と影だけが残った。


 どちらからも一言もなかった。ただ並んで壁に背もたれて座り、緩慢に陽が陰りゆく窓の外を眺めていた。


 ときおり思い出したようにキリコさんの持ってきてくれた食糧を食べ、水を飲んだ。それで補給ができたためか――あるいは単に気温が下がったからなのか、熱に浮かされたように何も考えられなかった頭はゆっくりと元に戻っていった。身体も、本調子とはいかないまでも、立って歩けないほどの状況からは抜け出すことができた。


 何をするでもなく窓外の景色を眺めるうち、刻一刻と太陽が傾いてゆくのがわかった。というより、それを実感することの他に何もすることがなかった。


 やがて夕暮れがきた。あれほど暑かった周囲の空気が肌寒いものに変わり、獰猛な赤い光が部屋の中に浸み込んでくる頃、キリコさんの予告通り俺たちは予期しない客の訪問を受けることになった。


 分厚い鉄扉を打ち鳴らす鈍い音が響いたとき、キリコさんは既に立ち上がりその扉の横に立っていた。扉の向こうから近づいてくるかすかな靴音がその客の来訪を告げていたからだ。


 立ち上がりざま、キリコさんは無言で俺に目配せした。それだけで、俺は理解した。扉の前に立って静かに拳銃を抜き、その銃口を扉の向こう側に立つ者の心臓とおぼしきあたりに合わせた。


「……」


 扉の傍らに立ちノブに手をかけたまま、キリコさんは動かない。どうして何の反応もしないのだろうと思い、だが張りつめて脂汗さえ浮かべた彼女の顔を見てそのわけを理解した。


 つまりはそういうことだ。この扉の向こう側に立っているが、俺たちがここにいることを知られてもいい相手とは限らないのだ。


 だが、続いて扉の向こうからかかった声で、そのが明らかになった。


⦅――失礼致します、キリコ博士はいらっしゃいますか⦆

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