203 最後まで演じきるということ(5)

 扉越しに聞こえたのはエツミ軍曹の声だった。


 その声を聞き、キリコさんの表情がわずかに和らいだ気がした。けれども依然として彼女は返事をしなかった。


 ただ一瞬俺に視線を向け、「想定の範囲内だが油断はできない」と言うような目で俺を見た。よく視線ひとつでここまで微妙なニュアンスを伝えられるものだと感心しながら、その意図を汲んで俺は腹をくくった。


⦅……ひとりかい?⦆


⦅はい。ひとりです⦆


⦅手土産は?⦆


⦅お持ちしました⦆


⦅煮え湯を飲まされてるからねえ、あんたには。この扉開けたら銃構えた連中が立ってないっていう保証は?⦆


⦅信じていただけないのであれば、このまま立ち去るしかございません⦆


⦅……じゃあ最後だ。があんなことになっちまってるのに、大切なご主人様を守らなくていいのかい?⦆


⦅その点につきまして、恐縮ながらキリコ博士のご助力……いえ、ご指示を仰がねばならない事態になりました。こうして自分がまかり越しましたのも――⦆


 軍曹が言い終わるのを待たずに、キリコさんは無言で鍵をひねり、ドアノブを回して扉を開いた。


 扉の向こうには言葉通りエツミ軍曹が一人、直立不動のまま真っ直ぐにこちらを見ていた。そんな彼女にキリコさんはぶっきらぼうな口調で⦅土産は?⦆と告げた。その言葉に軍曹は背嚢から何かを取り出し、それをキリコさんに手渡した――あの電話機だった。


 相変わらず手に余るほど大振りのそれを矯めつ眇めつ眺めながら、溜息をつくような声でキリコさんは言った。


「ハイジ」


「はい」


「肩貸してやりな」


「え?」


 その言葉に銃口を下げつつ、俺は軍曹に目をやった。


 床を這い延びた夕陽がかすかに染み入るほの暗い廊下に、軍曹の白い顔がぼんやりと浮かんでいた。いつも通り端正なその顔が、ふといつもよりも青白い、まるで陶器のように透き通ったものに見えた。


 同時にその身体がゆっくりと崩れ落ちようとするのを目にし、反射的に駆け寄ってその肩を抱きかかえた。


「ちょ……キリコさん、これ」


博士ドクターだろ。こっち運んどいで」


 そう言ってキリコさんは手を貸そうともせず部屋の奥に引っ込んだ。軍曹はもう力なくぐったりと俺にもたれかかり、自分で歩くこともできないようだ。女性とはいえ大柄なその身体を担いでよろめきながら俺は部屋に入った。そしてキリコさんに促されるまま、黄昏の陽に彩られた床にエツミ軍曹の身体を横たえた。


「水」


「え?」


「水持ってきとくれ。そこらへんに転がってるだろ」


「あ……はい」


 そう言われて俺は腰を上げ、床に転がっているペットボトルを確認してまわった。けれども拾い上げるものはどれも空で、中身の入っているものはなかなか見つからなかった。ようやく半分ほど水が残っているペットボトルを発見し、キリコさんたちのいる方に向き直った。


 そこに上半身裸となって豊かな乳房を晒す軍曹と、さらにズボンのベルトを外そうとしているキリコさんの姿を見た。


「見つかったのかい?」


「……」


「見つかったんなら持ってきとくれ」


「いや……でも」


「いいから持ってきとくれ。洗い流してみなけりゃどこがんのかわからないじゃないか」


 そこで初めて、軍曹の白い裸身に赤黒い染みのようなものが広がっているのを見た。それから鼻をつく錆びた鉄の臭い――ここ数日ですっかり嗅ぎ慣れた濃厚な血の臭いと。


 その意味するところを悟って俺は我に返り、足早に近づいてキリコさんにペットボトルを手渡した。ベルトを外し終わったキリコさんは軍曹のズボンまでも脱がそうとしていた。


 急いで退散しようとする俺を「どこ行くんだい」と半ば呆れたような声でキリコさんは呼び止めた。


「脱がせるの手伝っとくれ。このはあたし一人じゃ持ち上がりゃしないよ」


「いや……でも」


「この女を何だと思ってるのさ。軍人だろ?」


「……」


「軍人に男も女もありゃしないよ。穴が空くほど見てやりゃいい。大事なことはこの女が深傷ふかでを負ってここに舞い込んできて、とりあえず死なせるわけにはいかないってことだ」


「……はい」


「わかったら手伝っておくれ。とりあえずはこれ脱がせるところから」


 そう言われて俺は仕方なく軍曹の横にしゃがみこみ、ベルトを外されてジッパーを降ろされたカーキ色のズボンに手をかけた。そうしてキリコさんが軍曹の腰を浮かせるのに合わせて、そのズボンを一気に引きずりおろした。


 真っ白な太腿の間に濃い褐色の蔭りが目を射た。勢いで下着まで脱がせてしまったことを知り、思わず目を背けようとする俺に、キリコさんから更なる指示が飛んだ。


「ひっくり返して」


「……は?」


「ひっくり返して、って言ってんだよ」


「……ああ、はい」


 言われるままに俺は、もはや一糸まとわぬ軍曹の身体を俯せに返した。


 艶めかしい曲線を描く臀部の上、尾てい骨のあたりから背中にかけて、刀か何かで切りつけられたような深い傷が真っ直ぐに伸びていた。


 「本物みたいだね」と、よく意味のわからないことを呟きながらキリコさんはペットボトルの水でその傷口を洗うと――どこから取り出したのだろう、小さなチューブから白い塗り薬のようなものを出してそれを傷口に塗り込んでいった。そのあとこれまたどこから取り出したものかわからない釣り針のような針と糸で、その傷口を素早く小器用に縫い合わせていった。


 傷口の縫合が終わり、再び仰向けに寝かせ直したあとも、軍曹は目を開かなかった。顔じゅうに脂汗を浮かべ、熱病に浮かされたように時折苦悶の吐息をもらしながら。……あるいは気を失っていたのかも知れない。ただ処置を終えて部屋を出て行き、再び戻ってきたキリコさんが持ち帰った錠剤のようなものを飲まされるときだけ軍曹は薄目を開き、ペットボトルの水と一緒に苦しそうにそれを飲んだ。


 昏々と眠り続けていた軍曹が目を覚ましたとき、廃墟の一室は濃い藍色の闇で充たされていた。


 そこに至るまでの間に俺たちはまたあのブロック食品で夕食を済ませていた。遠慮もなく軍曹の背嚢の中身をあらためようとするキリコさんにはさすがに呆れたが、呉越同舟という言葉そのままの状況を考えれば仕方ないのかも知れないと思い直した。もっともその背嚢には予備の銃弾と水筒が入っていただけで、軍曹の背信を示すようなものは何も見つからなかったようだ。


⦅――さて、と。そんならいつかみたいに作戦会議といこうかね⦆


 暗闇の中にようやく身を起こした軍曹に向かい、待ちくたびれたと言うように溜息まじりの声でキリコさんはそう言った。


 軍曹は答えなかった。その代わりに居住まいを正してキリコさんに向き直り、自分を助けてくれたことに対して短く礼の言葉を口にした。


⦅……痛み入ります。本当にありがとうございました⦆


⦅ああ、そんなのはどうでもいいんだよ。今あんたに死なれちゃ困るから助けてやったまでのことさ⦆


 そう言ってキリコさんはひらひらと手を振ってみせた。それからふう、とひとつ息をいて、そのあといかにも面倒くさそうに呟いた。


⦅それに、ここまでくりゃ敵も味方もないだろ。余計なこと考えずに使えるもんは使わないとさ⦆


 そう言ってキリコさんは力なく笑った。けれどもエツミ軍曹は笑いを返さなかった。その代わりに起き抜けには似つかわしくない鋭い目でキリコさんを見据え、真剣そのものの表情で口火を切った。


⦅……訂正していただきたい発言がございます⦆


⦅訂正?⦆


⦅ここまでくれば敵も味方もない、とおっしゃいましたが、それは自分と博士が敵対関係にあったという前提での発言と考えてよろしいでしょうか⦆


⦅そうだよ。それがどうかしたかい?⦆


⦅訂正ください。我々が敵であったことはこれまで一度もなく、これからもございません⦆


⦅はッ、よく言うねえ。あんたんとこじゃ敵でもない相手に平気で銃口向けるってのかい?⦆


⦅任務遂行のため必要とあれば⦆


⦅……そりゃ結構。軍人てのはそうあるべきさ⦆


 あくまで生真面目な軍曹の受け答えに、半ば呆れたような声でキリコさんは言った。それから無造作に髪を掻き上げ、わざとらしく溜息をついたあと、仕方なくそうするように軍曹に向き直って、続けた。


⦅ただそれだとさっきの話に戻っちまうよ。なにせこのあたしにとって、あんたに命令するあの連中は敵以外のなにものでもないんだ⦆


⦅お言葉を返すようですがそれは違います、博士ドクター


⦅……なにが違うってんだい⦆


⦅自分は――いえ、衛兵隊われわれは必ずしも評議会の命令に服することを義務づけられているものではありません⦆


⦅へえ、だったらいったいなんの命令に従ってあんたらは動いてるんだい?⦆


⦅命令ではありません、任務です⦆


⦅その任務ってのは?⦆


⦅研究所の存続です⦆


⦅……⦆


⦅少なくともこれまでのところ、評議会の決定はその任務に適っておりました。ですから衛兵隊は忠実にその命令に従っていた――それまでのことです⦆


⦅……ふむ⦆


 やはりまだ傷が痛むのだろう、ときどき顔をしかめながらそれでもいつになく必死に力強く主張する軍曹の台詞に、さしものキリコさんが返答に詰まったものと見えた。


 考えてみれば俺が肩を貸さなければ立ってもいられないほどの状態だったのだ。たとえキリコさんの処置があったとはいえ、それがものの四半日で元通り回復することなどありえない。せめてもう少し休んでいるべきなのではないだろうか……そんな俺の心配をよそにいよいよ真剣な表情で軍曹はなおも続けた。


⦅その評議会も、今や瓦解がかいいたしました⦆


⦅……⦆


⦅いえ、正確には我々の任務に照らして、その命令に従うべき機関ではなくなりました。かくなる上は――⦆


⦅あたしの命令を仰ぐしかない、ってかい?⦆


⦅その通りでございます、博士ドクター


⦅……ふん、にわかには信じられない話だね⦆


 吐き捨てるようにそう言ってキリコさんは大きく溜息をついた。それから無造作に頭の裏を掻きむしり、またひとつ息を吐いて軍曹に視線を戻した。


⦅だいたい評議会がどうなったところで関係ないじゃないか。あんたのあるじは他にいるだろ。さっきも聞いたけどあいつはどうしたんだい? あそこがあんなことになって、今ごろさぞかし泡食ってんじゃないのかい?⦆


⦅さきほど申し上げましたが――⦆


⦅ああもう任務の話はいいよ、わかった。要するにマリオひっくるめて評議会の命令があんたらの任務の遂行に不適切になったってことだろ?⦆


⦅その通りです⦆


⦅だからあたしに乗り換えるって、そんなこと言われてはいそうですか、って話になると思うかい? 正直言ってあたしはまだあんたがあいつの差し金で動いてるって疑念を捨てきれない。悪いけどそういうことになるよ⦆


⦅それにつきまして、博士にご検分頂きたいものがございます⦆


 と、なおも続けようとするキリコさんの台詞を遮って軍曹は懐に手を差し入れた。どこかもどかしい手つきで上着の内ポケット――というより脇腹のあたりのに違いないそこから取り出されたものは、宛名も切手もない一通の封筒だった。

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