201 最後まで演じきるということ(3)

「……う」


 赤い熱が瞼を灼いていた。


 思わず手をかざしながら目を開ければ、窓から覗く獰猛な太陽の光が真っ直ぐ俺の顔に伸びていた。上体をよじらせてその光を避け、再び眠りにつこうとした。


 ……だが、眠れなかった。仕方なく俺は重い瞼をもたげ、そこで初めてコンクリートが剥き出しの殺風景な部屋の光景を目にした。


「……」


 自分が廃墟の一室に一夜を過ごしたのだということをぼんやりとする頭で理解した。部屋の中を見渡し、もう一人の人の姿を探した。……見渡すまでもなかった。キリコさんの身体は俺のすぐ傍らの、手を伸ばせば届く場所にあった。胎児のように手足をまるめた横臥の姿勢で毛布にくるまった彼女は、まだ眠りから覚めないようで小さな寝息を立てている。


 周囲には昨日キリコさんが持ってきた固形食品の空き袋と、まだ中身の残った何本かのペットボトルが無造作に転がっていた。そのうちの一本を拾い上げ、蓋を開けて中身を口に含んだ。一旦そうするともう堪らず、その一本に半分以上残っていた水を一気に飲み干してしまった。飲み残しの生温いミネラルウォーターが、これまでに飲んだどんな水よりも美味しく感じられた。


「……ふう」


 顎から首筋へ伝い落ちた水を手の甲でぬぐい、改めて自分のいる場所を見回した。向かいの壁に並ぶ五つの窓――というより壁に穿たれた穴から射す太陽の光が、昨日の夜にはわからなかった部屋の中の様子を隅々まで照らし出していた。


 天井も四方の壁もコンクリートが剥き出しの部屋の内壁は、建てられてからだいぶ時間が経っているのだろう、所々で欠け落ちてひびが入っている。床には窓から舞い込んできたものだろうか、黄みを帯びた砂がうっすらと層をなしている。


 まだそれほど暑くはない。……と言うより、暑いのか寒いのかわからない。乾ききった大気は肌にひりつくようで、もう充分な熱を孕んでいるようにも思えるし、逆にまだ夜の間の冷たさを残しているようにも感じられる。ただこれから日が高くなってくるにつれ、耐え難いほどに気温が上がてくるだろうことは、おそらく間違いない。


 そこまで考えて、欠伸をしながら大きくひとつをし、不意に頭の裏側に鈍い痛みのようなものを覚えた。


「……ってえ」


 頭というより首の裏側がずきずきと痛んだ。起き抜けのためかここまで感じずにいたが、じっとりと重い疼きにも似たこの痛みは、身に覚えがある。……ワインを飲みすぎた朝はいつもこうだ。


 まるまった身体を包む毛布の向こう側に退色したラベルのついた暗緑の空き瓶が転がっているのを見て、昨夜の酒宴を思い出した。


 飲んで上機嫌にまくし立てていたキリコさんの姿と、少女にまつわる陰惨な昔話。その後、窓から投げ捨てられたふたつのワイングラスを思ってしばらくその空き瓶を眺めるうち、視界の端にまるまった身体を包む毛布がもぞりと動いた。


「……」


 乾いた音を立てて毛布がはだけられ、キリコさんがおもむろに身を起こした。起き抜けの気怠げな顔で、そのまま惚けたように陽の光の射す窓の方を見ている。


「おはようございます」


 俺が声をかけても反応はなかった。代わりにしばらくの時間を置いて、鼻にかかった掠れ声で独り言のように呟いた。


「……水、あるかい?」


 俺は手近に転がっていたペットボトルを拾い上げ、中身を確認してキリコさんに手渡した。ちょうど今し方の俺がそうしたように、キリコさんは蓋を開ける手ももどかしく貪るようにその水を飲み干した。二本目を差し出したが、軽く手を振ってキリコさんは受け取らなかった。そうしてまた虚ろな目を窓の外に向け、魂を抜かれたように動かなくなった。


「……」


 床を伝い回り込んだ陽光にぼんやりと照らされるキリコさんの顔を眺めた。髪の毛はさすがにぼさぼさで、肌の色もだいぶくすんで見える。


 だがそれよりも生気の感じられない目の色が気にかかった。死んだ魚のような目……と言っては言い過ぎかも知れないが、普段の過剰に力強い眼差しを見慣れている身としては、今、キリコさんの顔に張りついているそれが彼女のものだとはとても思えない。


 ただ、考えてみればそれも無理のない話だった。


 キリコさんが描いていた計画は崩れた。その計画線上において昨日あの研究所の中で起きたことが致命的だったのは、こうして俺たちが砂にまみれた廃墟の一室で野営ビバークしなければならなかった事実をみれば明らかだ。


 DJは逃げた。暴走した少女によりあの研究所は既に安全な場所ではなくなった。追われて逃げたこの吹きだまりのような場所でキリコさんが絶望に打ち拉がれているとするならば、それはまったく無理のない話だ。


「……」


 そこまで考えて、ふと今朝に見た夢のことを思い出した。


 夢――というよりこの前と同じくイレギュラーに開始されたあの少女との『訓練』。もう二回目ということでそれほどの戸惑いはなかったし、だいぶ慣れっこになっている部分がないとは言えない。実際、寝起きの悪さも手伝ってか、目を覚ましてからここまでそれについて思い出すこともなかった。


 ……ただ、こうして思い出してみれば、なぜ自分がまたしても正式の手続きなしにあの場所へ駆り出され、少女との対決を強いられることになったのか、そのあたりが気になってくる。


 あるいはよく眠れなかったからなのだろうか。突発的な『訓練』の理由を探して、不意にそんなことを思った。


 考えてみればこの前のときも、エツミ軍曹の襲来やらキリコさんとの同衾たらで安眠にはほど遠い状況だった。眠りの中で『訓練』に駆り出された状況に共通項を見いだすとすれば、まずそのあたりになるのかもしれない。


 だが、仮にその法則が正しいとすれば、俺はおそらくこれから毎晩のように『訓練』に駆り出されることになる。この分では安らかに眠れる夜などしばらく訪れないのは目に見えているからだ。


 ……正直、考えるだけで気が滅入る話だった。眠りに就く度に少女とやり合っていたのでは身が保たない。ただでさえ充分な睡眠がとれない上にそんなことになれば、それこそ文字通り精神の休まる暇がないということになってしまう。


「……」


 ただ、そう思いながらも俺は、それほど悪い気分にもならずに今朝方の『訓練』を思い返している自分に気づいた。……いや、悪い気分にならないばかりか、俺はむしろ充実した思いでそれを頭の中に反芻していた。


 一方的に追われるだけの構図はもうなかった。結局は杞憂に終わったが一時は勝ったあとのことを心配しさえした。今朝方のあれは俺にとって文字通り『訓練』と呼べるもので、手も足も出なかったこれまでのとは明らかに一線を画していた。


 もちろん、引き裂かれた首筋の痛みは今も生々しく残っている。またあの場所にいる自分を発見したとき、今と同じ気持ちでいられるとは限らない。


 だが少女と再び相まみえることに対して、もう俺の中にこれまでのような恐怖はなかった。そしてそれ以上に、昨日まではなかった少女への思いが自分の中にはっきりと存在するのを感じた。


 それは、同情だった。


 あのときはっきりと感じた、誰とも分かり合えない少女への同情だった。同時にそれは、たまさかに少女とわかり合えた共感の残滓だった。


 ……あれはいったい何だったのだろう。


 今朝の『訓練』の終わりに俺と少女の間にもたらされたもの――まるでお互いの心に耳をつけてその声を聞き合っているような感覚が胸の奥にありありと蘇った。


 あの感覚はどれくらい続いていたのだろう。ほんの数秒か……あるいはもっとずっと長かったのかも知れない。いつに変わらない殺伐とした命のやり取りから何がどう転がってあんな状況になったのか、そのあたりがどうもよく思い出せない。


 ただひとつ確かなのは、あのとき俺たちがあらゆる枠組みから解放されて向かい合っていたこと。剥き出しの裸の心を相手の前にさらけ出して、互いのに遠慮なくむしゃぶりついていたこと――それだけだった。


「……」


 我知らずこみあげてきた生唾を飲み下した。そんなものが自然とこみあげてくるほど、それは甘美な記憶だった。


 そう……たとえようもないほど甘い、悦楽に満ちた時間だった。もう一度あの時間が得られるのだとしたら、俺は喜んでまたあの《歯車の館》に向かう。たとえそのあと少女に殺されるとしても……いつものように惨たらしく喉笛を切り裂かれるとしても。


 何の臆面もなくそんなことを思って……ふと我に返った俺は、思わず頭の裏を掻きむしるような自嘲の念をいだかずにはいられなかった。


 ……まったく、気が滅入るが聞いて呆れる。眠りの中で『訓練』に駆り出されることを絶望のように言っておきながら、再びそうなることを俺は心に願っているのだ――


「……っ!」


 不意に寒気を覚え、身震いした。それで俺は現実に引き戻された。


 気温が下がったのではなかった。むしろその逆で、いつの間にか部屋の空気は肌にひりつくような熱気を孕んだものに変わっていた。身震いはそのためだった。急に暑くなっても人は身震いするのだ。


 じっとりと毛穴にしみこんでくるようなの夏の暑さとは違って、ここでのそれは身体から水分と一緒に体温までも奪い去っていくようだ。


 キリコさんに目を遣った。さっき見たときと何も変わらない虚ろな眼差しが、灼熱の巷に移ろいゆく窓の外をぼんやりと眺めていた。膝元には毛布が起きたときにはだけられたまま丸まっていた。俺が手渡したペットボトルはその脇に、もう空になったものが無造作に転がっていた。


「キリコさん」


 呼びかけても返事はなかった。


 ……そうなるのも無理のない話などと思ってはみたものの、どうやらだいぶ重症のようだ。あまり考えたくはないが、もうしまったのだろうか。そうだったとしても不思議はない。状況を客観的にみれば、その可能性は充分にあり得る。


 けれども乗せられてここまで着いてきてしまった忠実な《兵隊》としては、非日常を絵に描いたような砂漠の真ん中にあって、こんなところであるじに投げられてしまったのでは、正直どうしようもない。


「……投げちまったわけじゃないさ」


「え?」


 そんな俺の心を見透かしたように、掠れた声でいかにも面倒くさそうにキリコさんは呟いた。


「別に投げちまったわけじゃない。ちゃんと手は打ってあるよ」


「……どんな手を、ですか?」


「さあねえ、出たとこ勝負ってやつだ。もう本当ほんと賽子サイコロ振るくらいしかやれることがなくなっちまった」


 そう言い捨ててキリコさんは小さく鼻を鳴らした。自嘲気味に、というより溜息をつきたいのだけれどそれすらも億劫といった調子の、力ない鳴らし方だった。


 ただ彼女の口から出た言葉は、俺にとって希望に他ならなかった。出たとこ勝負でも何でもいい。そういうことであれば《兵隊》としてはその手とやらを今のうちに詳しく聞いておきたい――


「だからまあ、客を迎える準備だけしておいとくれ」


「え?」


 だが俺の質問に先回りしてキリコさんはそんなことを言った。もちろん、俺の方ではその言葉が何を意味するのかまるでわからなかった。


 ……客? 客とは何だろう。こんな何もない廃墟の一室に、いったいどんな客が訪ねて来るというのだろう。


「客……というと?」


「客は客だろ。あたしら以外でここに来るやつがいるってことさ」


「誰なんですか? それ」


「だからそれが出たとこ勝負ってことさ」


「……」


「いつ来るかもわからない。誰が来るかもわからない。そんなお客をお出迎えするための準備をしておいておくれ、ってことさ。あんたにお願いしたいのは」


 そう言ってキリコさんは口を閉ざした。何となく気勢がそがれて、俺もそれ以上は聞かなかった。


 ……わかったようなわからないような話だが、おそらく言葉通りということなのだろう。俺がなすべきことはそのを迎える準備をすることで、それ以上でもそれ以下でもない。


 それが確認できただけでもとしようと思った。聞きたいことはまだ山ほどあったが、とりあえずキリコさんの言いつけ通り、心の準備だけはしておくことにしよう――


 会話はそれで終わりだった。


 話すのをやめてしまうと、また一段と部屋の気温が上がったような気がした。その変化を感じないのかキリコさんは表情を変えず、壁際に座り込んだ姿勢のまま身じろぎもしない。


 ……投げたわけではないと口にしていたが、やはりこの調子では先が思いやられる。


 溜息をつきながらそう思って――けれどもそんなキリコさんの態度が前途に対する絶望によるものばかりでなかったことを、ほどなくして俺は嫌というほど思い知らされることになる。

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