200 最後まで演じきるということ(2)
「はあ、はあ……」
けれども息があがり、走るのをやめて立ち止まったところで――なぜだろう、俺は性懲りもなくまたさっきと同じことを考え始めた。
もう少女の気配は感じなかった。俺の足を自然と前へ進ませるあの感覚はもうなく、黒々とした歯車の群れ以外なにも見えない。そんな空虚な風景を眺めながら、一度は頭から追い出した疑問がまた膨らみ始めるのを抑えられなかった。
……正確にはさっきと同じ疑問ではなかった。その疑問のいわばその裏返しとしての、少女にまつわる疑問だった。
つまり、彼女はどうなのかということだ。毎回の『訓練』で俺は少女に首を切り裂かれることでここから脱出できる。けれどもその少女はどうやってここから抜け出しているのだろう?
「……」
考えても無駄だということはわかっていた。いくら考えても答えなど出るはずはないし、答えがわかったところで何の意味もない。
……そのあたりは充分にわかっていた。こうして疑問にとらわれて立ち尽くすことがどれほど危険かということも。『戦場では疑問を持った兵士が真っ先に死ぬ』いつか誰かから聞いたそんな格言を思い出して、それでもとるに足りない疑問は容易に俺の頭から離れなかった。
俺の喉を切り裂いたあと、少女はどうやってあちらに戻っているのだろう? そもそも俺と同じように毎回あちらに帰っているのだろうか?
あちらとこちらでは時系列が違い、こちらでどれだけ時間が流れようともあちらでは流れないとキリコさんは言った。それならば少女が一度もあちらに戻ることなく、度重なる俺の訪問を受けているということもあり得る。それとも――
「……くそ」
頭を振って追い払おうとした。けれども駄目だった。降って湧いた疑問はいつまでも頭から離れず、むしろ時を追うごとに少しずつ大きくなっていくようだ。
集中が途切れかけているのかも知れない……その可能性は充分にあり得る。少女が現れてからどれくらい経つのだろう。ほんの数分のような気もする。だが逆にもう何時間も経っているような、そんな気もする。
少女は現れなかった。
ちょうど『訓練』が始まる前そうだったように、いつまで待ち続けても現れる気配はみえない。
――ふと、自分のまわりで歯車がもう動いていないことに気づいた。いつの間に止まっていたのだろう。まとまりのない頭で少しだけそんなことを考えて、けれども俺はまた少女のこと――明確な殺意をもって自分を殺しに来る小さな追跡者のことを考え始めた。
少女は現れなかった。
いつまでも現れない少女を待ち続ける自分の中に
少女は現れなかった。
来ない待ち人を待ち続ける思いに、折からの疑問が寄り添うようにして重なるのを感じた。俺の首を切り裂いたあと、少女はどうやってあちらに戻っているのだろう? 今日この『訓練』で俺を殺した少女はどんな方法でここから抜け出し、どこへと戻ってゆくのだろう?
疑問が思いを増幅し、思いが疑問をいっそう深いものにしていった。それでも俺は疑問を止めることも、少女を待ちわびる思いを押し殺すこともできず、ただ木偶の坊のように立ち尽くして少女が現れるのを待った。
少女は現れなかった。
微動だにしない歯車の群れをぼんやり眺めながら、自分の中で既に集中が途切れていることをはっきりと感じた。『訓練』はもう終わっていた……少なくとも俺の中では。
今、俺が少女の出現を待ち望んでいるのは、『訓練』の続きがしたいからではない。少女との戦いに臨む意思は、もう欠片も残っていなかった。少女が現れ、無抵抗のまま殺されるのだとしたら、それでもいいと思った。もしそれでこの思いが遂げられ、この疑問が意味を失って帳消しになるのだとしたら……。
少女は現れなかった。
あるいはもう少女は現れないのだろうか。俺を残してどこかへ消えてしまったのだろうか。そんなことを考え、胸が締めつけられるように痛むのを感じた。……少女に会いたかった。ただひたすら少女に会いたいと、それだけを思った。
少女は現れなかった。
何がどうしてこんな心境に陥ったのかわからなかった。わけもわからないまま、ただ一途に少女のことだけを思った。
少女に会いたかった。少女に会って、たとえ一言でも言葉が交わしたかった。そんな気持ちのままほとんど祈るような思いで俺は待ち続けた。
――だから少女が忽然と目の前に現れたとき、何の動揺もなくむしろ安堵に似た気持ちで、思わず駆け寄ろうと俺は足を踏み出しかけた。
「……」
けれども、そうすることができなかった。正確にはそうするのをやめ、踏み出しかけた足を自分で止めていた。
歯車の間にたたずむその小さな姿を認めた瞬間、あれほど俺を責め苛んでいた少女への思いは一瞬で消えていた。望みが叶って会えたのだから、会いたいという思いが消えたのは当然かも知れない。ただ、少女と言葉を交わしたいという思いも同時にさっぱりと消え失せていた。
……そこで初めて、今さらのように俺はそれがそもそも不可能だったことに気づいた。いくら言葉を交わしたくとも俺と少女の間にはそれを実現する共通の言語がない。そのことを、俺は忘れていた。
「……」
少女は動かなかった。
文字通り出足をくじかれたまま俺も動けず、ただじっと少女の姿を見守った。
少女に対する思いはもう跡形もなかった。だがその思いを失った俺の心に、あとを埋めるようにひとつの感情が流れこんでくるのを感じた。
それは寂しさだった。
全身の力が抜け膝から崩れ落ちてしまいそうなほど圧倒的な、それは混じりけのない寂しさだった。
「……」
寂しさ? なぜ寂しさなど感じるのだろう?
その感情の正体がわからないまま、少女を前に俺は立ち尽くした。
少女は動かなかった。
おそらく俺と鏡映しにこちらをじっと見つめ、まったく動く素振りを見せない。そうして対峙する俺の中にあの感覚は訪れなかった。ただその代わりにどこからもたらされたものかわからない寂寥が、瞬く間に俺という入れ物の中身を隅々まで埋め尽くしていった。
少女は身じろぎもせず、じっとこちらを見つめていた。入院患者を思わせるいつも通りの服から華奢な両腕がだらりと無防備にたれていた。
数メートルを隔てた薄暗がりにも、その表情ははっきりと見てとれた。あの日、マリオ博士の部屋で初めて会ったときから何も変わらない表情……ふて腐れた子供のような表情が――なぜだろう、こうして少女と対峙する俺の目には堪らなく寂しいものに映った。
「……」
少女のふたつの瞳は真っ直ぐに俺を見ていた。その視線から逃れることなく見つめ返すうち、ふと自分の感じている寂しさが少女のものであるかのような錯覚にとらわれた。
最初、かすかな印象に近いものであったその感覚は次第に大きく強固なものになってゆき、気がつけばほとんど確信のようなものに変わっていた。
……いや、文字通り確信していた。自分の感じているこの寂しさが少女のものであること――と言うより少女のものでもあることを、やがて俺ははっきりと確信した。
寂しさばかりではなかった。俺は少女とすべての感情を共有していた。もっと言えば感情も含め、自分という存在に属するありとあらゆるものを目の前に立つ少女と共有していた。
感情はもとより視覚も聴覚も、頭の中で考えていることやわずかな心の動きに至るまで、少女の身に起こっているそれを自分のことのように感じ、知覚し、考えることができた。
そうして、少女もまたそうであることがわかった。俺の感じるもの、考えること、そうした諸々のすべてを彼女自身のものとして受け止め、受容しているのだということがまさに手に取るようにわかった。
――それは不思議な感覚だった。自分の思考や感情はそのままに、そこへまるでふたつのチャンネルのラジオが重なって聞こえるように少女のそれが
そんな不思議としか言いようがない感覚を、けれども俺は自然に受け容れていた。なぜならその感覚を少女が受け容れている以上、俺の方でも同じように受け容れるしかなかったのだ。
鏡に映った自分を見ている――そう思った。身長も違う、容姿も違う、性別も髪の色も何から何まで違う。それでも目の前に立つ少女は鏡に映った自分で、だからこんなにも色々なことがわかるのだと、やがて何の疑いもなく俺はそう思った。
そうして俺はいま初めて、少女の心に耳をあててその声を聞くことができた。
そこに、俺への敵意はなかった。怒りも憎しみも、俺を傷つけたいというかすかな攻撃性さえそこにはなかった。
ならば、なぜ少女が俺を殺そうとするのか。そのあたりの事情もよく理解できた。少女は殺そうと思って俺を殺しているのではなかった。それは本能だった。ただ
少女には何かをなそうとする意思がなかった。俺を殺したいという意思はもとより、この何もない場所から逃れたいという意思も、あちらへ帰りたいという意思も皆無だった。
当然あると思っていた苛立ち――少女の表情から勝手に推測していたこの不条理な状況への苛立ちも、やはり少女の中にはなかった。
代わりに、孤独があった。少女の心の中には底の見えない淵のような暗く深い孤独だけがあった。
今、少女が俺を前にして動かず、立ち尽くしている理由。それは、その深い孤独の淵に小さなひとつの石が投げ入れられたからだ。……俺という小さな石が。
誰ともわかり合えず、心を通わせることができなかった少女が今、初めて他者との共感というものを体験している。その初めての感覚に困惑し、どうすればいいかわからないでいる。……それがはっきりと理解できた。そんな少女の感情が思わず溜息をつきたくなるような瑞々しさをもって、俺の心にじんわりと染み込んでくるのを感じた。
少女は動かなかった。俺も同じように動かなかった――いや、動けなかった。
もう『訓練』などどこにもなかった。命懸けの真剣な鬼ごっこも、進化を遂げるための試練もなかった。そのすべてを放棄した場所で、俺たちは交わっていた。手を伸ばしても届かない距離で互いに呆然と立ち尽くし、言葉もなく触れ合うこともなく、だが一番深いところで俺たちは交わっていた。
少女は表情を変えなかった。その少女を前に俺がどんな顔をしているのか、もうわからなかった。
それは俺にとって心地よい時間だった。もっと簡単に言えば快楽的な――純粋に愉悦に満ちた時間だった。触れ合う必要などなかった。少女がどこの誰であるか、そんなことも問題ではなかった。目の前に立つ相手とすべてを共有できていること。そのことがただ単純に気持ちよかった。
それはちょうど性的な快楽に似ていた。ただ、それよりはずっと大きく、懐の広いおおらかな快楽だった。
自分ではないもうひとつの存在と共感し合い、細胞レベルで溶け合うようにすべてを理解し合い、思考も感覚も瞬きの重みさえもあらゆるものを共に
――不意に歯車が回り出したとき、先に我に返ったのは少女だった。
その瞬間、共感は途絶えた。まるで突然目の前に冷たい鉄の壁が降ろされたように、二人の間にあったものは一瞬で消えてしまった。
同時にあの感覚が来た。
反射的に銃を握る手をもたげようとした。けれどもそれより先に、もはや懐かしい痛みを首筋に感じ、急速に血の気が失われてゆく頼りない絶望がそれに続いた。
薄れゆく意識の中で少女の姿を探した。けれどもその小さな影はもうどこにもなかった。
『訓練』の終了を告げるおきまりの台詞も、事切れる俺を見つめる拗ねたような眼差しも、そこにはなかった。ただ回り続ける無数の歯車だけがあった。それ以外、何もなかった。
消え入ろうとする意識に、俺はまたあの寂しさに襲われた。
一時は通い合った少女との共感の
巨大な空洞に似たその寂しさに声なき声で叫びながら、もう何度となく繰り返してきたように、俺はこの仮初めの空間においてあくまで現実的な最期の時を迎えた――
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