199 最後まで演じきるということ(1)

 ――またあの場所にいた。もはや見慣れた感のある歯車だらけの空間に俺は立っていた。


 歯車は止まっていた。いつまでも動き出す気配を見せない歯車の群れを眺めながら、俺は自分が再び正当な手続きを経ることなくあの少女との『訓練』の場に駆り出されたのだということを知った。ちょうどこの前、あの緊迫した作戦の前夜に暁の眠りの中でそうなったように。


 ……ただ、あのときとひとつ違いがあるとすれば、武器があるということだ。丸腰で逃げることしかできなかったあのときとは違い、今、俺の手の中にはしっかりと銃が握りしめられている。その違いがどんな理由によるものかまではわからない。だが、とりあえずその点についてだけはあの時よりも有利だと考えて良さそうだ。


 少女はいなかった。


 ちょうどあの時と同じように、こうして待っていても一向に姿を見せる様子はない。だがこれまでの経験則として彼女がそのうち忽然と俺の前に現れることは、おそらく間違いない。そこから『訓練』とは名ばかりの一方的な殺戮が否応なく開始されることも……。


 けれどもいつ少女が現れるかわからないこの状況にあって、俺の心は奇妙なまでに落ち着いていた。まるで凪いだ海のように、恐怖もなければ、かすかな不安さえない。


 思えばこのところの嵐のような展開にあって、冷静すぎるほど冷静に立ち回る自分がいる。こうして動きを止めた歯車の狭間に立つ今の俺も沈着そのもので――そのせいかまるで自分という存在が周囲の空間に溶け出してゆくような、そんな錯覚を覚える。


 少女は現れなかった。


 ぼんやり立ち尽くしたまま俺はキリコさんの口から語られた少女の秘密――まだ充分に消化しきれていないグロテスクな昔話を思った。非人道的な研究に勤しむ施設にもたらされた凄惨な結末と、その元凶となった少女の暴走。それがついにこの研究所でも起こったのだと、そうキリコさんは言った。


 ……だとすれば、これから俺の目の前に現れる少女はどうなのだろう。いつもの彼女とは違うのだろうか。あるいは同じなのだろうか。


 少女の暴走――『スイッチが入った』とキリコさんが表現していたそれが具体的にどういったものであるのか、正確にはわからない。ただその話に出てきた『喉笛を切り裂かれた』というくだりだけ考えれば、俺がここまで見てきた少女と何ら変わらないようにも思える。


 少女は現れなかった。


 けれども俺はいつかのように周囲を歩きまわることはしなかった。力を抜きだらりと垂らした腕の先に、トリガーに指をかけた銃をやんわりと握り、眺めるともなく辺りを眺めながら少女を待っていた。


 そう、俺は待っていた。竦むことも怯えることもなく、『訓練』のパートナーであるあの少女が現れるのを、ただじっと待っていた。


「……何でだろな」


 思わず呟いた。そんな呟きをこぼさずにはいられないほどはっきりと、ちょうどつきあい始めたばかりの恋人を待つような気持ちで、俺は少女を待っていた。


 もっと言えば、俺は少女が現れることを。いつものように少女が目の前に現れ、そして喉笛を切り裂くために襲いかかってくることを。


「何でだろ、まったく」


 自嘲気味に息だけで笑いながら、俺はもう一度そう呟いた。


 少女との再会を心待ちにしている自分を認め、けれどもそんな自分を受け容れることができないもう一人の自分がいるのを感じた。……当然だった。確かに今日は武器を手にしている。そしてこの前にここで掴んだあの感覚はきっと、今も俺の中に生きている。


 だがそれでも――あらゆる有利な材料を最大限に評価したとしても――これから始まる『訓練』の中で俺が少女に一矢報いることができる可能性は、おそらくゼロに等しい。


 そう自分に言い聞かせてみても、少女を待ちわびる気持ちは消えなかった。むしろその気持ちは時間を追うごとに少しずつ大きくなってきているようだ。


 やがて俺は、それが懐かしい気持ちに似ていることに気づいた。まだ高校に入ったばかりの頃の、初めて役者として舞台に立つ直前の気持ち――自分がいま感じているのは、そのときの気持ちにそっくりだと思った。


 もう思い出すこともなくなっていた遠い記憶がどこでどう繋がったのだろう。ほとんど感動を覚えながらその気持ちに浸る俺の周りで――不意に前触れもなく歯車が回り始めた。


 歯車が回り出した瞬間、が冷水のように背筋を駆け抜けた。


 同時に走り出していた。影も形も見えない少女がここに姿を現したことを、はっきりと感じた。しばらく走ったあと、俺は立ち止まった。筒口を床に向けた銃をそのままに、身じろぎもせず再びあの感覚が訪れるのを待った。


 果たして、は来た。


 反射的に駆け出そうとする刹那、振り向きざまにトリガーを絞った。見えない銃弾が闇をつんざいてゆくその先、ゆっくりと回転する巨大な歯車の陰に消える少女の姿を認めた。さっきと同じようにしばらく走ったあと、俺はまた立ち止まり今度は銃を構えてぼんやりと周囲を眺めた。


 少女が現れたあとも、俺は冷静を失わなかった。真夜中にわけもなく寝覚めてそのまま動かずに天井を見つめているような、自分でも呆れるほど静かで落ち着いた気持ちだった。


 少女が俺を殺そうとしているのはわかっていた。


 実際のところキリコさんが口にした『スイッチ』がどうなっているかまではわからないが、少女がいつも通り俺の喉を引き裂きにきていることに間違いはない。だがそれでも……いや、だからこそ俺はこれほどまでも冷静に、まるで外側から見つめるように彼女に殺されようとする自分を観照することができる。


 銃声。


 そのためだろうか、今日は少女の接近ばかりでなく、その方向さえも感知できる気がした。もちろん正確にわかるわけではない。そのあたりにいるのではないか、という漠然とした勘のようなものがあるだけだ。……だが、火を噴いたばかりの銃口が指し示す小さな残像を見れば、その勘はまんざら気のせいでもなさそうだ。


 そう思って、俺はまた足を止めた。


 いずれにしても少女が圧倒的優勢である構図に変わりはない。追われているのはいつも通りこちらだし、こうして撃ち返したところで反撃にもならないことはわかっている。ただ、だいたいであれ現れる方向がわかるのであれば、とりあえず逃げる側としては対処のしようがある。


 銃声。


 そう、方向がわかるのであれば、こうして撃ちかけることが少なくとも牽制にはなる。何より、見えない敵から逃れるために息が切れるまで走り続けなくていい。少女が現れる方向に撃ちかけながら距離を置くことに終始している限り、俺はいつまでも冷静なままでいられる。


 自分自身を含めた周囲を高みから俯瞰ふかんするような感覚はまだ俺の中にあって、それが続いている限り俺が少女に捕まることはない。そんな確信があった。


 やがて、少女は現れなくなった。


 正確にはあたらないことがわかっている反撃のあと距離をとって立ち止まり、しばらく待ってもがおとずれなくなった。


 そのまま待った。


 銃を握る手から銃撃のしびれが消え、耳の奥に銃声の残響が響かなくなっても少女は現れなかった。


 何となく仕切り直しの感があった。……まずありえないことだとは思うが、もし少女が俺を攻めあぐねて距離をとっているのだとしたら、一方的に追われるばかりだったこの『訓練』がようやく『訓練』としての体をなしてきたと、そういうことになるのだろうか。


「――あ」


 そこで初めて、これが『訓練』であることに俺は気づいた。


 自分がいまこの『訓練』に文字通り『訓練』として臨み、頭を使って考えていることに気づいた。


 怯えた七面鳥のように逃げまどっているのではない、錯乱して盲滅法に撃ちまくっているのでもない。追撃してくる敵の存在を把握し、自分のとり得る最も有効な反撃を試みている。冷静を失うことなく、息を切らすこともなく、手も足も出ないと思われた相手にここまでできている。


 ――そう、これは『訓練』だった。いま初めて本来の意味で臨む、これは少女との『訓練』だった。


 そうして俺は自分の中に、またさっきと同じ彼女の出現を待ちわびる気持ちが湧き上がってくるのを感じた。けれどもそれはもうあの懐かしい気持ち――初舞台を踏む前の俺が感じていた瑞々しい感情ではなかった。


 ……いや、そもそも最初からはそんなものではなかったのかも知れない。自分がいま感じているもの――身体の芯から粘性の液体が血に溶けて全身に広がってゆくようなその情動は、憧憬でも期待でもない明らかにだった。


 銃声。


 少女が現れるのを待たず、俺は銃のトリガーを引いた。銃声で俺がここにいることを少女に知らせているようなものだが、そのために撃ったのではもちろんなかった。第一、そんなことをしなくても俺がここにいることを少女は知っている。その構図を充分に理解した上での、それは実験だった。


 銃声。


 二発目の銃声に続いて、分厚い鉄板が銃弾を跳ね返す鈍い音が耳に届いた。その音で俺はこの銃から放たれた実体のない弾丸が、あの回転する鉄の塊によって弾かれ得るものであることを理解できた。それはつまり、撃ち方によってはこの銃の弾が弾道のまったく予測できない跳弾になり得ることを意味する。


 そのことを確認して、俺はゆっくりと歩き出した。半ば無意識に、だがもう半分は少女との邂逅かいこうを待ちわびる得体の知れない情動に衝き動かされて――


 歩き出してすぐ、が来た。


 同時に俺は走り始め、銃口をに向け弾丸を放っていた。もう顔を向けることもなく三発立て続けに放ったあと、今度はあえてから狙いを外して更に数回トリガーを引いた。ぐゎん、と腹の底に響く鈍い音がして、それからまた俺の足音だけになった。しばらく走り続け再びあの感覚が消えたところで、俺はようやく足を止めた。


「……いい感じだな、結構」


 思わずそう独りちた。その言葉通り、ここまでの運びは客観的にみてもだいぶ感じがいい。このままこうしてヒット・アンド・アウェイを続ければあの少女に勝てないまでも、とりあえず負けることはない。いや、あわよくば彼女をたおすこともまったくの夢物語ではないのかも知れない――そこまで考えて、不意にひとつの疑問が俺の胸に影をさした。


「……」


 その疑問とは、この『訓練』で俺がその結果を出すことが果たして正しいのだろうか、ということだった。


 ここまでの手応えからして、この調子で集中を途切らせなければ俺があの少女をたおしてしまう可能性は――その確率はかなり低いにしても――ゼロではない気がする。けれども万が一、それが成し遂げられてしまった場合、俺は新たにひとつ大きな問題に直面することになる。


 ここから出られない。俺は、あの少女にむごたらしく喉を切り裂かれること以外、この《歯車の館》から脱出するすべを知らないのだ。


「……」


 そう――その方法以外に俺はこの空間から抜け出せる方法を知らない。おそらく俺が少女にことなど想像もしていなかったのだろう、キリコさんからもそれについての説明はなかった。


 あるいは……あくまで憶測の域を出ない考えだが、俺が少女をたおせばここから出られるのかも知れない。だがまかり間違って俺が勝利を収めたあとに、こんな何もないシュールな空間にひとり取り残されたとしたら、俺はいったいどうすればいい……?


 三発の銃声。


 そこまで考えて再び舞い戻ってきたに、俺はまた走り出した。後ろ手にほとんど無意識に撃ちかけながら、自分がまったくばかばかしい杞憂にとらわれていたことを悟った。


 万が一も何もない。こうして追われる身になってみれば嫌でもそれが理解できる。


 俺があの少女に一撃を見舞うためにはもう一段――いや、それこそ蛙が鳥になるくらい劇的なもう何段階かのが必要で、今のままでは俺が少女に勝つことなど絶対にあり得ない。


 二発の銃声。


 ……そう、よく考えれば烏滸がましい話だった。俺がこの『訓練』を『訓練』として意識したのは今日が初めてで、いわばようやくスタートラインに立ったところだ。それがほんの少しばかり手応えを感じたことでゴールテープを切ったあとの心配をしているのだから烏滸がましいにも程がある。


 たおしてしまったらも何もない。俺があの少女をたおしてしまうには明らかに『訓練』が不足している。さっき確認した通り、『訓練』は今まさに始まったばかりなのだ。


 三発の銃声。


 ならばせめてもう一段のを期待してこの『訓練』に没入しようと思った。


 思えば俺が今こうしてまがりなりにも少女と渡り合えているのは、あの日まったくの偶然で我が身に起こったのために他ならない。公式の手順を踏むことなく始まったあの日の『訓練』できっかけを掴み、それがこうして戦いを続けながらしぶとく生きながらえる今の俺に繋がっている。


 だとすれば、また何かのきっかけでもう一段階のを果たすことができないとも限らない――そんなことを思いながら、俺は走り続けた。少女の存在が漠然と感じられる方向へ間断なく見えない弾を見舞いながら。

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