198 消えるべき者、立つべき者(11)

 何の脈絡もなく告げられたキリコさんの言葉に、思わず顔を向けた。


 ワイングラスを手に、窓からの薄明かりに照らされる横顔があった。ぼんやりした表情で何もない暗闇を眺めるその顔は、それほど酔っていないように見える。


 そのことを確認して、聞かせてくださいと俺が言いかける。だがその前に、キリコさんはその話を始めていた。


「むかーしむかし、ある所にひとつの研究所がありました。その研究所は、砂漠の真ん中にどこかの研究所ができるよりずっと前に建てられたものでしたが、やっている研究の内容は似たようなものでした。というのも、人の道に外れた研究をやっていたという点では同じだったのです。だからその研究所はやはり人の寄りつかない北の果てに、人目を避けて建っていました。


「その研究所で行われていたのは、臓器の製造でした。臓器のと言い換えてもいいかも知れません。病気になった人に移植するための臓器は高く売れるので、その工業化を図った企業があったのです。母胎を経ることなく、人工受精から生育までをすべて工業的に行えば、その生成物はヒトではない、というのがその研究所の建前でした。臓器はとぶように売れ、ラインが増補されました。けれども増産のためにはひとつ問題がありました。それははいの個数です。


「たとえすべての工程を工業化したとしても、人工授精により胚を得るために必要なもの――卵と精子を創り出すことは当然、神様ではない人間の手ではどうにもなりませんでした。もっとも、精子の方は簡単でした。一度の放出で三億匹の精虫が得られるのですし、研究所の職員はご多分にもれず大半が男でしたから。ただ、卵の方はそうはいきません。薬を使ってみても鶏のように毎日というわけにはいきませんし、無理をしたせいで廃人になる《マザー》も出てきました。そこで彼らは別の方法を考えました。


「それは人工授精で得られた胚を分裂により増やすことでした。つまり、人為的に一卵性双生児を創り出すことで二倍の胚が得られるようになったのです。これに味をしめた彼らは、ひとつの胚を更に多くの個体に増やしたいと考えるようになりました。ひとつの胚から三つ子、四つ子と、多くの胚を創り出そうとしたのです。


「ただ実際は、多くの数に分裂させればいいというものでもありませんでした。分裂により胚の生命力が失われてしまうため、却って歩留まりが悪くなってしまったのです。その後の実験により、工業的な収支を考えると三つ子が限界であるということがわかりました。その知見に基づき、彼らは人工授精により得られたひとつの胚をみっつに分裂させ、それぞれをラインに乗せる方法を実用化しました。そして、事件は起こりました。


「ある日、緊急事態の発生を告げる報告を最後に、研究所からの連絡がぴたりと途絶えました。企業の人間が向かったところ、研究所ではすべての研究者が息絶えていました。正確には、何ものかの手によって殺された研究所職員全員の死体が発見されました。当初、企業は死体の性状から何らかの猛獣によって彼らが殺戮されたものと判断しました。死体はどれも喉笛が切り裂かれていたからです。けれども一通の《報告書》の発見が、その判断を覆すことになりました。


「その《報告書》は手短にまとめられた、その研究所における新たな研究課題を企業側に打診するためのものでした。《報告書》では胚の分裂に関する研究を継続する中で、興味深い新たな現象が発見されたことが記載されていました。『分裂により生成された胚から生育された個体に不可知の能力が観察された。胚の生育とは別個に、この研究所にて研究を行う価値が充分にあるものと思われる。』そんな記述のあとに、個体の写真が添付されていました。それはまだあどけない顔立ちの子供で、彼らはその個体に《プロトタイプ》という名前をつけていました。


「その《プロトタイプ》と名付けられた子供の死体が、研究所から発見されました。しかしただ一人、その子の死体だけが喉笛に損傷を負っていませんでした。そしてその子の身体に付着した血液のDNA鑑定の結果、研究所の職員を殺戮したのはその子であったことが判明しました。研究所には未起動の個体が多数保管されていましたが、その子の残るふたつの個体が未起動のまま残っていました。みっつに分裂した胚からつくられた個体なので、身体は三体あるのです。企業はその個体を回収し、他のすべての個体を研究所もろとも焼却しました。


「その《報告書》と《プロトタイプ》の存在は厳重に秘匿され、企業の本部に保管されました。それからしばらくの年月が経ち、企業は報告書に記載されていた『不可知の能力』の研究に着手しました。未起動だったふたつの個体のうち一体が移送され、研究の素材とされました。けれどもその研究開始から数ヶ月の後、その研究所もやはり元の研究所と同じ道をたどり、惨たらしく喉笛を切り裂かれた職員全員の死体が発見されたのです。


「それからというもの、企業においてその《報告書》の話題はタブーになりました。元々人倫にもとる研究を行っていた企業の人間さえも畏怖させる、触れられざる魔の業として遠ざけられるようになったのです。さらに年月が経ち、どんなルートでその情報を入手したものか、世紀の天才の呼び声高いひとりの研究者からその《報告書》に関する熱心なアプローチを受けるまでは。そのアプローチに企業内ではだいぶ紛糾しましたが、結局はそのアプローチを受け容れ、研究を再開することになりました。


「新たな研究所は砂漠の真ん中に建てられました。表向きの理由は秘密を保持するためですが、もうひとつの理由としてバイオハザードを防ぐためです。二度にわたる研究所の壊滅は、企業の人間にそれほどまでの危機感を植えつけていました。けれども彼らの心配は杞憂でした。研究所の主任となったその研究者は《プロトタイプ》を起動しなかったのです。《プロトタイプ》の起動を必要としないまま、研究は飛躍的な成果をみせました。


「その過程で、《報告書》と《プロトタイプ》の存在は忘れ去られました。少なくとも研究所で研究に勤しむ人間たちの頭からは。そもそも彼らはそんな《報告書》があったことも、《プロトタイプ》という個体の存在も知らされることなく集められたのです。ですから、最後の一体となった《プロトタイプ》は誰にもそれと知られないまま、未起動の個体としてストックされていました。


「ただその個体が決して起動されることがないように、《プロトタイプ》の何たるかを知る人間が研究所には必要でした。だから砂漠の真ん中のその研究所には三人、その事実を知る者がいました。一人目は主任研究者その人。二人目はその主任研究者の助手。そして三人目は、企業の意向を強く受けて研究所に配属されたもう一人の研究者――ということでしたとさ」


 そこまで語り終えると、キリコさんは大きく溜息をついた。俺の方では相づちを打つことも、空になったワイングラスを床に戻すことも忘れ、ただその話に聞き入るしかなかった。


 そんな俺の隣でキリコさんは自分のグラスになみなみとワインを注ぎ、喉の渇きを癒すように一気に呷った。それから無造作に手の甲で口元を拭い、こちらを見ないまま言った。


「それがだよ」


「……」


「あの子が起動されずに残ってた最後の一体だ。あの研究所でそのことを知ってるのはあたしとマリオだけ。件の主任研究者はどっかへ消えちまったんでね」


「……」


「マリオがあの子を起動したときからこうなることはわかってた。まあ想定してたよりずっと早かったけどね」


「……」


「ここの座標は鳩ぽっぽで敵さんにバレたって話だったね」


「……」


「民族大移動見越して命からがらノッポさん捕まえてみりゃ再投入前の洗脳がで、おまけにまんまと逃げられたときた。挙げ句の果てに《プロトタイプ》にスイッチが入っちまったみたいで、今ごろあの中は死体の山だ」


「……」


「やれやれ、大変なことになってきたもんだねえ。まったくこれから先どうなっちまうんだろ」


 さして大変でもなさそうな口調でそう言うと、キリコさんは大きく振りかぶってグラスを投げた。グラスは窓の外の闇に消え、やがてガラスの割れる小さな音がどこか遠くの方から聞こえた。


 再び目を向けるとキリコさんは自分の毛布にくるまり、身体を丸めて床に横臥していた。その姿はどこか拗ねて捨て鉢になった少女のようだと思った。


 かける言葉が見つからなかったが、せめてものことに俺は「おやすみなさい」と声をかけた。だが、キリコさんからの返事はなかった。


◇ ◇ ◇


 キリコさんの規則正しい寝息が聞こえ始めたあとも、俺はなかなか眠ることができなかった。


 飲み始める前はまだ涼しい程度だった空気が今はもうはっきりと寒く、毛布を被っていなければとてもいられないほどになった。あるいは、酔いが醒めたせいでそうなったのかも知れない。空になったワインの瓶が部屋の隅に転がっている。結局、キリコさんが寝てしまったあと、俺がひとりでそれを飲み干してしまったのだ。


 急に冷え込んだこととワインのためだろう。ついさきほど俺は尿意に堪えられなくなり、窓から外に向けて用を足してきた。半分はキリコさんを起こさないための配慮だが、半分は酔った勢いだった。月がビルの陰に入ったことで下がどうなっているのかよく見えなかったが、漆黒の暗闇に自分の身体から放出されたものが呑まれてゆくのはなかなかの壮観だった。


「……ふう」


 戻ってきたあと、また肩まで毛布を引きあげて俺は小さくひとつ溜息をついた。


 酔いはもう完全に醒め、わずかな頭痛がそれに代わりつつあった。キリコさんの言葉ではないが、少し飲み過ぎたかも知れない。ただ俺はキリコさんと違い――もっとも、それも推測の域を出ないのだが――不安を紛らわせるためにそのワインを飲んだわけではない。


「……」


 キリコさんが寝る前に言い残した通り、事態は相当まずい方向に進んでいるようだ。昨日、あれだけの苦労を払って捕縛したDJが逃げたということは、キリコさんの描いた計画が頓挫したことを意味する。


 そればかりかあの少女が動き出し、あの研究所の中で殺戮を行っているのだという。もし本当にそうだとしたらこの先、研究所に戻ることは自殺行為だ。あの少女の恐ろしさは何度も殺された俺が一番よく知っている。


 けれどもそんな悲観的な見通しを前に、俺の心は不思議なほど落ち着いていた。まがりなりにも住居としての機能を備えていたあの研究室を追われ、こんな何もない廃墟の一隅にほとんど野宿に近い一夜を過ごすことを思えば、なぜこれほど平穏な気持ちでいられるのか自分でもわからない。


 ……所詮、どう転がろうと自分には関係ないことだと思っているのかも知れない。そうでなかったとしても俺の中には、あの窓からワイングラスを投げ捨てずにはいられなかったキリコさんのような激情はない。昔話にかこつけたを受け取っていた間も、こうして夜の闇に目を凝らしている今このときも。


 キリコさんは寝入ったときの姿勢のまま、こちらに背を向けて眠っている。粗末な毛布にくるまれて上下する背中が、いつもより小さく見える。


 ……必死の努力で一度は軌道に乗りかけた計画が暗礁に乗り上げたことがこの人にどれほどの衝撃を与えたのかわからない。ただ、その痛ましい寝姿を目にするときだけ、凪いだ夜の海のような俺の心に波がおこる。


 ここ数日のごたごたの中で俺とキリコさんの関係に変化が生じてきているのは確かだった。もう俺の前では自分の弱さを隠そうとしないキリコさんの姿が、俺の目にはあの頃の彼女――でのあの一週間の終わりにキリコさんが見せていた姿と重なる。


 そして今日、彼女はまたひとつ俺の欲しがっていたもの――何から何まで謎だったあの少女についての情報を与えてくれた。その情報のリークを、彼女がこれまで頑なに拒んでいたことを考えれば、それはキリコさんの中で俺という存在の占める位置が変化してきていることの、何よりの証拠になりはしないだろうか。


『オマエ騙されてるぜ』


 耳の奥に再びあいつの声が蘇った。その言葉に俺は思わず息だけで短く苦笑した。


 ……その可能性は否定できない。今日、この人がくれた少女にまつわる情報の真偽など知るよしもないし、この人が俺に見せる言葉や態度の、そのすべてが演技でないとは言い切れない。


 だいたいこんなどこかもわからないような廃ビルの一室に、わけもわからないまま仮宿かりやどをとろうとしている二人に、確かなものなど何ひとつあるはずもないのだ。


『騙されてるぜ、それ』


「……言ってろ」


 それでも俺はあのときと同じ口調で言い返すと、そのまま毛布をかぶり床に寝転がった。毛布越しにも固く冷たいコンクリートの感触が背中に触れ、寝心地がいいとはとても言えなかった。


 目を閉じると、耳に痛いほどの静寂が周囲から押し寄せてきた。


 音はなかった。様々な事件と陰謀、暴力と破壊と、どうやら避けられそうにない終局カタストロフィへ向かおうとする嵐のような状況の中心にあって、廃墟の闇はそのすべてから置き去りにされたように冷たく、静かだった。


「――そうだ」


 ふと思い出して、俺はジーンズのポケットからチップを取り出した。つまむ指先を毛布から突きだし、暗闇の中にまじまじとそれを眺めた。


 軍曹の言ったことが正しければ、DJは逃げた。そして俺の手の中には、あの研究所の運命を左右する一枚のチップが残された。


 ……だが逃げるつもりだったのなら、なぜあいつはこのチップを俺に託したのだろう。そもそもこのチップはあのときキリコさんが言っていた、隊長が持ち出したという情報が記憶されたものなのだろうか……。


 疑問は尽きなかった。やがて俺は考えるのをやめ、チップを元通りジーンズのポケットにしまった。


 ……いずれにしても俺には関係のないことだと思った。あいつがどんな思いでこのチップを俺に渡したのだとしても――このチップの中身が何であろうとも――そんなことは関係ない。……そう、関係ない。そんなこと、俺には何も関係ない。


 そう思ってまた目を閉じた。ごわついた毛布を枕に固い床に触れる頭がずきずきと疼いた。ワインを飲み過ぎたのかも知れない。……だがそれも関係ない。


 乾ききった廃墟の夜の底に、明日からの過酷な立ち回りを思った。そうしてとりあえず俺は、この寝慣れないコンクリートのベッドの上で眠ることに意識を集中した。

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