197 消えるべき者、立つべき者(10)

「――寒くないかい?」


 濃い藍色の闇の中にあった。


 廃墟に着いたときにはまだかろうじて陽が残っていたが、昨日と同じようにクルマにカムフラージュのカバーをかけて隠し、このビルに向かうあたりでは既に周囲は真っ暗だった。


 瓦礫にうずもれるようにして建つ半壊したビルの階段――まったく光の届かない真の闇に近いそこをキリコさんは自分の家のように俺の手を引いて進み、やがてこの部屋に行き着いた。気温はその頃から急に下がり始め、今は剥き出しの肌に身体の熱を奪われるような冷たさを感じるほどになった。


「大丈夫です」


 お世辞にも肌触りがいいとは言い難いごわついた毛布を首まで引き上げ、俺はそう返事をした。


 二人でいるには少し広すぎるがらんどうの空間には月明かりだろうか、窓からの淡い光が射している。……窓といってもガラスももない、壁に打ち抜かれたただの穴だ。けれどもこの廃墟に夜を過ごす者にとってその窓からの薄明かりはたぶん、何よりも温かい。


「……ったく、落ち着かない一日だったねえ」


 溜息をつくような気怠い口調でそう言って、キリコさんはまたひとつブロックを囓った。俺もさっきから幾つか囓っているそのカロメのようなブロックは、いつかの訓練の前にエツミ軍曹からもらったものだった。


 ここに着いてすぐ、俺だけを残して部屋を出て行ったキリコさんは、やがてどこからか毛布と食糧を携えて戻ってきた。このブロックの袋が五つと水の入ったペットボトルが二本。そのあまりの用意周到ぶりに驚く俺に「ここはあたしの領土だって言ったろ」とつまらなそうにキリコさんは言い、俺の前にブロックの袋とペットボトルを置いたあと、毛布を無造作に投げてよこした。


 ――車庫に着いてすぐ、俺たちは手近なジープに乗りこんだ。通路を抜けて一番近くに停まっていたジープのドアをキリコさんが迷わず引き開けたことを思えば、あるいはどのジープにもドアの鍵はかかっていなかったのかも知れない。


 ただキリコさんが指摘した通り、鍵はなかった。エンジンの始動には彼女の髪留めを使った。実際にやってみると、それは拍子抜けするほど簡単だった。鍵穴に髪留めを差し入れ、力を入れて回す――それだけでエンジンはかかった。正直、何の苦労もなかった。


 ただ、当然と言えば当然だった。それがことはわかっていたからだ。鍵などなくても鍵穴に差し入れられる何かがあれば俺はクルマを動かすことができる、それがわかっていた。


 だから俺がそれを難なくやってのけたところで所詮もう一人の俺のおかげということになる。……それについては借りができた。そしてそれ以上に、能力的にはまったく同じはずのそいつに大きく水をあけられたという思いがある。


「どうして逃げろって言ったんだい?」


「え?」


 突然の問いかけに思わず顔を向けた。キリコさんはこちらを見ないままペットボトルの水を含み、それを飲み下してからもう一度その質問を口にした。


「軍曹とハードボイルド活劇やってたときだよ。あそこであたしに逃げろって言ったのは何でだい?」


「なんかヤバいと思ったからです」


「ヤバい? 何がどうヤバかったんだい?」


「いや、自分でもよくわからないんだけど、何となくこのままここにいるとヤバいって」


 俺がそう言うと、疑わしげにこちらを見ていたキリコさんの顔に一瞬、何かを思い出したように驚きの表情が浮かんだ。だがすぐ真顔に戻り、今度はこちらの真意をはかるようにゆっくりと小さな声で言った。


「……成果が出たってことかい?」


「まあ、そういうことになるかと」


「やけに落ち着いてるじゃないか。第六感シックスス・センスに目覚めたばかりにしてはさ」


「いや、昨日あたりからです。昨日の夜はそれがなかったら、あるいは死んでたかも」


「……」


で何度も死んだ甲斐があったってことですかね。動物の気持ちがわかりました」


「……参ったよ」


 俺としては軽い返事を期待したのだが、キリコさんは真面目な顔でそう言ってじっと俺を見つめた。しばらくの間そうしていたあと、俺から視線を外してふっと小さな溜息をつき、「ハイジには本当に参った」と力なく呟いた。


「どっちの参ったですか?」


「両方だよ。まったくねえ」


 そう言ってキリコさんはまたひとつ、さっきより大きな溜息をついた。その気持ちは何となくわかる気がした。第六感に目覚めたなどという大仰な表現がむしろしっくりくるほど、それは凄いことに違いないのだ。


 ただ昨日、今日と続いた実戦演習の中で充分にしたことで、それは俺の中で既に普通の感覚に近いものになってきている。ちょうど頬に触れるこの夜の空気を冷たいと感じるのと同じように。


 だから手放しで誉めてくれるキリコさんの言葉が、今は少しこそばゆく感じられる。そのこそばゆさから俺はあえて空気を読まず、それまでと同じ調子で言葉を返した。


「それにしてもあの声、何だったんですかね」


「あの声?」


「軍曹から逃げるときの叫び声です。絶妙のタイミングでアシストしてくれた」


「ああ……」


「何となくヤバいってことはわかるんです。自分に危険が迫ってるっていうか、そういうのはわかるようになったんですけど、詳しいとこまではわからなくて」


「……なるほど」


「あの叫び声の正体、というか出した方じゃなくて出させた方なんですけど、それが何だったのかなって。そのあたりがちょっと気になって」


「あの子だよ」


「え?」


「あんたのブートキャンプのパートナーさ。あの叫び声を出させた方の正体は」


 確信に満ちた口調で――というよりはっきり断定するようにキリコさんは言った。なぜそう言い切れるのか聞こうとして、その答えが既に自分の中にあることに気づいた。


 軍曹から逃れ、キリコさんの手を引いて通路を駆けていたときの感覚が生々しく蘇った。……あのとき、確かにあの叫び声の元にあるのがあの少女であることを、何の根拠もないままに俺も確信していたのだ。


「……」


 そのことをキリコさんに伝えようと思い、口を開きかけた。だがやはり思い直してそうするのをやめた。その代わり、にわかに背筋に寒気を覚えた身体に、いつの間にかまたずり落ちていた毛布を首まで引きあげた。


「それにしても今日はよくやってくれたね」


 明らかに調子の違うキリコさんの一言に、俺は顔を向けた。口元にうっすらと笑みを浮かべたキリコさんが、いたわるような目でじっとこちらを見ていた。


「俺ですか?」


「馬鹿だね、他に誰がいるんだい。今日は掛け値なしによくやってくれたよ。最高の働きだった」


 キリコさんには珍しい手放しの賞賛だった。さすがに俺はきまりが悪くなり、短く鼻で笑ったあと茶化すように言った。


「ボーナスは出ないんですか?」


「え? ああ、ボーナスねえ。あたしの一番大事なもんをくれてやりたいとこだけど、それはいらないってことだし」


「いらないなんて言ってませんけど」


「そうだったかい? けどまあ、いずれにしたってこんな場所で二十年以上守り通した処女奪われるってのもねえ」


「そうですね。初めてはやっぱり海の見えるプチホテルでないと」


「よくわかってるじゃないか」


 そう言って俺たちはお互いに笑い合った。


 不意に、俺は懐かしさを覚えた。思えばにいた頃、俺はこの人と年がら年中こんな会話ばかりしていた気がする。……あの春の夜の交流会館前で規則を楯に道を閉ざしてからも、キリコさんはあけすけで時に露骨とさえ思える話ばかりを俺に振ってきた。


 そして、俺はそんな彼女が好きだった。かつて恋いこがれた女性であることや、気の置けないサークルの先輩であることを超えて、一人の人間として俺はこの人が好きだった――


「あ、そうだ」


 そう言ってキリコさんは立ち上がり、毛布が乾いた音を立てて床に落ちた。どうしたのか俺が尋ねようとする前にキリコさんは扉を開け、そのまま部屋を出て行った。


 ぼんやりと見送った。待っていてもなかなか帰ってこないので俺は仕方なく彼女の残していったブロック食品を食べた。それもあらかたなくなり、さすがに心配になり始めたところで、きいと乾いた音を立てて扉が開いた。


「ごめん、待たせちまったね」


 部屋に入ってきたキリコさんの手には一本の瓶が握られていた。近くまでくると瓶を顔の高さまでもたげ、芝居がかった笑顔でその瓶にキスをして見せた。


 薄明かりに照らされるラベルにかろうじて『vinワインo』の文字が読み取れた。もう一方の手は甲を下に逆さまのワイングラスふたつを中指と人差し指の間に挟み、小指と薬指の間にはオープナーまで引っかかっている。


「……ワインまであるんですか」


 半分呆れてそう言う俺に、キリコさんは得意満面といった表情で「だから言っただろ」と返事した。


「ここはあたしの領土だからね。生きてゆくために必要なものが色々と隠してあるのさ」


「ワインなくても生きていけると思いますけど」


「何か言ったかい?」


「いや、何でも」


 小気味のいい音を立ててワインの栓が抜かれ、床の上に置かれたワイングラスに注がれた。キリコさんが俺の隣に座りこみ、その一方のグラスを手に取った。俺が残る一方を取り、元通り壁に背もたれるとキリコさんはにやりと笑い、黒々とした液体を満たすグラスを高く掲げた。


「乾杯」


 ちん、とグラスが打ち鳴らされる音が響いた。


 そうして俺たちは廃墟の一室に何とも場違いな飲み会を始めた。突然だったこともあり味には何の期待もしていなかったのだが、飲んでみるとキリコさんが持ってきたその赤ワインはかなり美味しかった。……と言うより、俺がここまでの浅薄な人生で口にしてきたどのワインより美味しい。


 正直にその感想を述べるとキリコさんは得意げな笑みを浮かべ、グラスに残っていたそれを一気にあおった。


長靴イタリアの真ん中であたり年のやつだからね。味に関してはそう悪くないはずだよ」


「そうすか。……にしたって俺たち、何でこんな砂漠の真ん中でワイン飲んでんだろ」


「なに言ってんだい。ワインてのは元々が砂漠の飲み物じゃないか」


「そうなんですか?」


「水がない場所で水分摂るための苦肉の策だよ。真水じゃ瓶に詰めといたってすぐに腐っちまうが、アルコールなら何年でもつからね」


「なるほど」


「連中はあたしらと違ってこれを酒だなんて思っちゃいないのさ。生きるために飲む水なんだよ。所詮あたしらとはアルコールを分解する酵素が違う……いいかい? 美味いからって飲み過ぎるんじゃないよ?」


「わかってますって」


 いつの間にかキリコさんは俺と同じ毛布にくるまり、ぴったりと身体を寄せ俺の肩にもたれかかるようにして飲んでいる。俺の方でも今さらそれに戸惑いを感じるようなことはなく、逆にいい気分になってくる自分に逆らわなかった。


 ……キリコさんがこんなものを持ち出して来たのも、あるいは不安を紛らわすためかも知れないと思った。もっとも俺自身はこの状況にあって何ら不安めいたものを感じてはいない。それがアルコールの力によるものなのか、それともあまりに急な展開で感情がついて来られていないだけなのか、そのあたりはわからないが。


「昔話をしてやろうか」


「え?」


「昔話だよ。昔にあったお話」

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