196 消えるべき者、立つべき者(9)
そのキリコさんの言葉に、俺はぐっと返事に詰まった。
予想もしなかった展開だった……いや、よく考えればその話をキリコさんにした時点で、こんな展開になることは予想しなければならなかったのかも知れない。
だが、それは俺にとって簡単に頷くことのできない要求だった。できることなら避けて通りたい――と言うより絶対にやりたくない仕事に他ならなかった。
「……」
キリコさんは哀れむような目で真っ直ぐにこちらを見つめ、沈黙して俺の返事を待っていた。だが俺はいつまでも返事を返すことができなかった。
再び俺がDJの前に立ち、そのことについて尋問する――それは明らかにDJを裏切る行為だった。
あいつがどんな思いであの話を語ってくれたのかわからない。けれどもそこには俺にだから打ち明けてくれたのだという部分が確実にあった。少なくとも俺はそう信じている。
「……」
それがその打ち明け話を『あの女』にまんまとバラし、あまつさえ根掘り葉掘り聞き出そうと『その女』同伴で戻って行くのは正直ありえない。それはもうあいつへの裏切りではなく、俺の中で大切にしているもの――人間としての矜持を自ら打ち砕く行為と言っていい。
……あいつの前に立つことはできない。キリコさんの言うように再びあいつの前に立ち、その件について尋問することはできない。
苦しい思いの中そう結論づけ、断りの文句を告げるために口を開きかけた。だがその前に、キリコさんの方から言葉がかかった。
「わかったよ。今度はあたしだけで行く」
「……」
弾かれたように顔をあげた。さっきとは打って変わって、慈しむような優しい目でこちらを見るキリコさんの顔があった。
「たぶん、今あんたが感じてるそれがあのときのあたしの心境だよ」
「……」
「あいつの気持ちを裏切りたくないんだろ。それはあたしにもわかる、痛いほどにね」
「……」
「そのつらさはわかるつもりさ。それが理由で、さっきは逃げちまった。けどそれでそのつらさをハイジに押しつけちまったんなら申し訳ないよ」
「……」
「そんなつもりはなかった。だから今度はあたしが行く。ハイジみたいにうまく聞き出せるかわからないけど、あたしが行って――」
「俺も行きます」
言葉が口を衝いて出た。言葉を遮られたキリコさんは最初驚いた顔で俺を見守り、それからさっきと同じ哀れむような目でじっと俺を見つめた。
……断腸の思いには違いなかった。けれども今初めてあのときのキリコさんの気持ちを理解し、冷たい汗を流し震えるような思いでそれを恐れていた胸の内が、はっきりとわかった。
それがわかった以上、キリコさんに一人でDJの前に立たせることはできなかった。マリオ博士が絡んでくるということなら尚さら、この人を一人でそんな場所に送り出すことはできない。
……正直、足が竦む思いがないと言えば嘘になる。そんな思いを振り払うように、俺はもう一度その決意を口に出して言った。
「俺にも行かせてください」
遂にそう言った俺を、キリコさんは何も言わずじっと見つめた。真っ直ぐに向けられる眼差しは燃え立つようで――その眼差しが何のために燃えているのか、いつまでも開かない唇が語っている気がした。
『オマエ騙されてるぜ』
からかうような声が耳の奥に蘇った。その声の持ち主に再び会うことを思って俺は小さく身震いし、それからキリコさんの言葉を待った。
「なら、行こうか」
果たして、キリコさんの言葉が来た。俺は短く「はい」と答えた。示し合わせたように二人同時に頷き、通路に続くドアへ向かおうとした。
そのとき、ドアを激しくノックする音が聞こえた。
「……!」
その音が聞こえたのはキリコさんがドアの前に立つ一歩手前だった。だから彼女が一瞬身を竦めたのも無理はないし、俺も思わず足を止めた。
けれどもキリコさんは冷静にもう一度ドアが打ち鳴らされるのを待ち、その音が止んだところでいつもの間延びした声でドアの向こうに呼びかけた。
⦅はいはい、入ってるよ。ったく、騒々しいったらないね⦆
⦅申し訳ありません。緊急の用件があって参りました⦆
⦅何だい? その緊急の用件ってのは⦆
⦅当方にて拘束しておりました《ジャックの娘》が――たった今、脱走致しました⦆
その返事が終わらないうちに、キリコさんは勢いよくドアを押し開けていた。
開け放たれたドアの向こうに立っていたのはエツミ軍曹だった。直立不動の軍曹はここまで走ってきたのだろうか、荒い息とともに肩を大きく上下させている。
こちらに背を向けノブに手をかけたまま、⦅何だって?⦆と冷たい声でキリコさんが言った。
⦅繰り返します、《ジャックの娘》が脱走致しました⦆
⦅そんなこと聞いてんじゃないよ。何だってそんなヘマ――⦆
⦅マリオ博士より緊急の要請です。キリコ博士に置かれましては、至急、
軍曹の強い口調がキリコさんの台詞を遮った。キリコさんは一瞬こちらを振り返り、訴えるような目で俺を見た。
その顔はどこか泣き出しそうな少女の顔に見えた。不謹慎にもこれでDJの前に立たなくて済むと内心に覚えた安堵を押し隠すため、俺は奥歯を噛みしめて精一杯苦渋の表情をつくった。
⦅猶予はなりません。ご同行を⦆
まだ荒い息の中に決然とした軍曹の言葉がかかり、キリコさんは黙って通路に出た。当然、俺もそれに続く。
軍曹は即座に走り出し、一呼吸遅れてキリコさんと俺もあとを追った。そうして俺たちは三人がちょうど真っ直ぐ列になり、軍曹、キリコさん、俺の順番で一列縦隊に通路を駆けた。
だが、慌ただしい靴音が通路に反響していた時間は短かった。俺の目の前でキリコさんが不意に足を止め、ぶつかりそうになりながら俺もその場に立ち止まった。
なぜ止まったのだろう――そう思うより早く通路の少し先から、苛立ったような声が投げかけられた。
⦅どうしたのです! 急いでください!⦆
こちらに向き直り仁王立ちして叫ぶエツミ軍曹の声に、キリコさんはすぐには応えなかった。
走ってきたことであがっていた息をなだめるように大きく息を
⦅――どうしてあたしが出向かなきゃならないんだい?⦆
⦅博士! そんな理由に拘っている場合では――⦆
⦅聞いてるのはこっちだよ。あたしが出向かないといけない理由は?⦆
低く落ち着いたキリコさんの声がさっきとは逆に軍曹の台詞を遮った。
なぜキリコさんが走るのをやめ立ち止まったのか、その正確な理由は量りかねた。ただ彼女がそうしたことの意味と、今し方の囁きで何を俺に伝えたかったのかはわかった。
――だから軍曹が銃口をこちらに向けたとき、ほぼ同時に俺もホルスターから抜いた銃の照準を彼女の眉間に合わせていた。
⦅評議会の決議です、キリコ博士。貴女には《ジャックの娘》を故意に解放した嫌疑がかけられています⦆
⦅へえ、逃げてすぐだってのにねえ。肝心の議題にゃ耳が遠くなるくせに、こんなときばっか動きが早くて困っちまうよ⦆
後ろで銃を構えている俺が見えているかのように、余裕たっぷりに鼻で笑うような調子でキリコさんは言った。
一瞬、トリガーにかかった軍曹の指が動きかけ――鏡合わせの俺の動きにお互いの指が止まった。
エツミ軍曹の端正な顔にはっきりと苛立ちの表情がのぼるのが見えた。その視線を真っ直ぐキリコさんに向けたまま、あのときと同じ共通言語で軍曹は俺に告げた。
【Don'
【Then,
自分でも驚くほど
軍曹の表情が一段と険しいものになるのが見えた。けれども銃声は響かない。その指がトリガーを引き絞ることはない。そのへんは最初からわかっている。この勝負は、先にトリガーを引いた方が負けなのだ。
――そう、俺の弾が効こうが効くまいが、そんなことはこの際どうでもいい。映画やドラマならまだしも、本来こんな
そのありえないことが成立してしまっていることが、雄弁にひとつの事実を物語っている。それはつまり、エツミ軍曹が俺たちを撃てないということだ。
ただその一方、キリコさんから次の一言が出てこないことで、俺は事態の
緊迫の時間は過ぎていった。ほんの数秒とも永遠ともつかないその時間、俺は軍曹の動きに意識を集中し続けた。ほんの小さな動きたりとも見逃さないように。
――その意識にふと別の感覚が混じるのを感じたのは、緊張のためかキリコさんが小さく喉を鳴らした直後だった。
「――」
初めは気のせいだと思った。
誰の目にも明らかな危険が眼前に突きつけられているこの状況でその感覚がもたらされるのならば、それはもっと前に来ていなければおかしい。けれどもそんな考察に背いて急速に大きくなってゆくその感覚に、危険は別の場所にあるのだとわかった。
――ヤバいと思った。どこで何が起こっているかわからない。だがとりあえず、これ以上ここにいるのはヤバい。
「……キリコさん逃げて」
「え?」
「逃げろ! 今すぐに!」
矢も楯もたまらず俺は叫んだ。その声にキリコさんは小さく身を竦め、軍曹に顔を向けたままためらいがちに足を動かしかけた。
【Fr
軍曹が銃を両手に構え直すのが見えた。その前後、俺は迷わずトリガーを引いた。
薄闇の廊下に男の絶叫が響き渡ったのは、そのときだった。
「……!」
突然響いた男の悲鳴に一瞬、軍曹の反応が遅れた。
弾き飛ばされて床に落ちた銃と、右手を押さえてうずくまる軍曹の姿。その光景を残像のように目に焼きつけ、振り向きざまキリコさんの腕を取って俺は全力で駆け出した。
「車庫はどっちですか!?」
キリコさんの手を引く俺の腕は伸びきっている。ただそれを感じながら、振り返らずに叫んだ。
キリコさんからの返事はなかった。二人分の靴音がばたばたと周囲に反響して聞こえた。その靴音に、また断末魔の叫びが混じった。さっきの悲鳴よりも明らかに遠い、どこで響いているのかわからない男の叫び声。
だが、わかっている。もうこれ以上ここにいてはならないこと、ここを一刻も早く出なければならないこと――それだけはわかっている。
「キリコさん! 車庫は!?」
「こっちで合ってる……でも、鍵が」
「え?」
「車の鍵がないんだよ! 車庫に行っても!」
「はあ!? 必要ないでしょ!」
そこで初めて、俺は後ろを振り返った。息を切らしながら、苦痛と驚きが入り交じった表情でキリコさんは俺を見つめた。
「鍵なんかいらないんでしょ! 俺には!」
キリコさんの目がはっきりと驚愕に見開かれるのを認めて、俺は前に向き直った。薄暗い通路の先は闇に消えて見えなかった。
危険は続いていた。いてもたってもいられない何かヤバい感覚は今も俺に纏わりついて離れなかった。
キリコさんの腕を引き必死の思いで駆けながら、この感覚をもたらしたのがあの少女――何度となく訓練を共にした名前のない少女であることを、何の根拠もないままに俺は確信していた。
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