057 招かれざる訪問者と終演(2)
風の死んだ砂漠に陽光がいよいよその激しさを増す頃、招かれざる客たちは本当にやって来た。
盛大なエンジンの音を聞くまでもなく、軍用のジープが土煙をあげて近づいてくる光景を、壁の破れ目からはっきりと目の当たりにすることができた。そこに至って俺はペーターを連れ、当初の予定通り隣の部屋に移った。倒壊した壁のつくる小さな横穴――入口から死角となることを確認してあったそこにペーターを押しこみ、背中からその身体を抱えるようにして自分も身を潜ませた。
次第に大きくなるエンジンの音はやがて中庭のあたりに止まった。ドアが開けられる無機的な音に続いて、硬い靴底が乾ききった大地に降り立つ音までたしかに聞きとれた。そればかりか、内容まではわからないが話し声のようなものさえ聞こえてくる。俺たちに気取られることは想定の上ということなのだろうか? だとすればそこで初めて身を隠した俺たちを捜すために、一部屋一部屋くまなく探索してくる可能性が高い……。
小さな身体を抱く腕に力をこめた。ペーターは頭だけで振り返り、不思議そうな目で俺を見たが、それきり何も言わなかった。ここまでは言いつけ通り黙ってくれている彼女に一応の安心を覚え、だがそれを上回る不安の中でどうか最後までその沈黙を守り通してほしいと願った。昨日ウルスラからもらった拳銃はジーンズのポケットに忍ばせてある。その拳銃を使うような事態にならないことを今はただ天に祈るのみだ。
それほどの時間を待たず、高らかに靴音を響かせて招かれざる者たちはやってきた。その靴音からして人数はそう多くない。多くとも三人か……いや、二人のようだ。探索には相応しくないその
覚悟はとっくに済ませていたが、迫り来る危険を前にそんなものは何の役にも立たなかった。靴音が近づき、陽気な話し声が聞こえるまでになっても、俺はそれがこの部屋をやり過ごすこと以外なにも考えられなかった。
――それでも必死の祈りは天に通じたようだ。こちらの思惑通り彼らが『王の間』に入る様子を耳にし、俺はとりあえず胸をなで下ろした。
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罵り合うような声が壁越しに聞こえてくる。英語での会話だ。一瞬、眉をひそめたが、大声で交わされるそれは訛りのない平易な英語のようで、大学の授業をさぼりがちな俺にもどうにか聞きとることができた。
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【
その短いやりとりを聞いて、俺は内心にほくそ笑んだ。入室早々にして彼らはものの見事にはまってくれたようだ。あとはそのまま中庭に引き返し、ジープに乗りこんでくれればいい。
だがそんな俺の思いとは裏腹に、彼らはなおもその会話を続けた。
【
【
【
【
……だいぶ英語が聞き取れるようになってきた。
すきの多い煉瓦でできているためか向こうの声はこちらに丸聞こえで、まるで壁などないかのようだ。それは彼らの話を盗み聞きするには都合がいいが、逆にこちらで物音を立てれば向こうに筒抜けだということだ。
早く帰ってくれ――心の中で何度もそう叫ぶ。だがそんな俺の心の声は当然、彼らの耳に届いてはくれない。
【ま、これで真面目に捜す手間が省けたってもんだな】
【よく言うぜ。最初からそんな気もなかったくせによ】
【おまえはあったってのか?】
【もちろんあったさ。だから口笛吹きたいのもずっと我慢してたんだっての】
寝台の軋むかすかな音に、「うえっ!」という呻き声が続いた。勢いよく寝転がって土埃があがったのだろう。そんな俺の推測を裏打ちするように、「そんなところに寝っ転がるなよ」と、呆れたような男の声が響いた。
【砂まみれじゃねえか。どんな病気にかかるかわかりゃしねえ】
【問題ねえさ。この暑さじゃどんなバイ菌だって焼け死んじまうよ】
【だといいがな】
【せっかく来たんだ、ゆっくりしていこうぜ。帰ったってまたつまらねえこと言いつけられるだけだ】
【そりゃま、そうだろうけどよ】
【汚くたってここのがマシだ。あんな、自分の言葉も喋れねえような場所に比べりゃな――】
その台詞を最後に、しばらく会話の内容がわからなくなった。声が小さくなったのではない、理解不能なスラングが多くなり翻訳できなくなったのだ。
俺の英語力は微弱な電波を拾おうとするラジオに似て、ひとたびチューンが外れればすぐに聞きとれなくなる。ましてジェスチャーはおろか、表情も口の動きも目で確認できないこの状況ではなおさらだ。
こんなことならもっとちゃんと英語を勉強しておけばよかった――そう思ってみたところで始まらない。こうなってしまった場合の対処法は一つ、理解できる単語をかき集めてチューンを合わせ直すしかない。
壁向こうの声に必死に耳を澄ませてその作業に集中した。その甲斐あって、やがてラジオのチューンはまたようやく聞きとれるまでに回復した。
【さあ、もういい加減に帰ろうぜ】
【いいや、帰らねえ。せめて女を見つけだしてからでないと】
【あの指見りゃわかるだろ。とっくにどこかで干涸らびちまってるよ】
【ああ畜生! それだけを楽しみにしてたんだがなあ!】
【何だ、そんな気でいたのか】
【おまえは違うってのかよ?】
【無事に連れて来いって言われたんだ。あとが恐ろしいじゃねえか】
【恐ろしいって、あの雌犬がか?】
【
「……!」
思いがけなく飛び出したその名前に、心臓がにわかにまた早鐘を打ち始めた。恐怖からではない。興味から、だ。やはりキリコさんも役者としてこの舞台に立っていたのだ。そして何ということだろう、俺たちを拘束しに来た彼らは、キリコさんに関係のある兵隊だったのだ!
「……っ!」
刹那、激しい衝動が俺の全身を貫いた。
このまま隣の部屋に乗りこみ、捕まろうが殺し合いになろうが彼らと接触したいという衝動が耐え難いほどに膨れあがるのを感じた。俺一人ならそうしていたかも知れない……いや、きっとそうしていただろう。けれども腕の中でじっとしている身体――守らなければならない小さな柔らかい身体が、ぎりぎりのところで俺の暴走を食い止めてくれた。
大きく息を吸い、そのまま止めた。そうしてそれまでより一層深く耳を澄まして、壁の向こう側の声に意識を集中した。
【そういや今回の命令の出所はそこだっけな】
【そういうこった。まあ実際はどうか知らねえけどな】
【ああ、あの女こそやりてえよなあ! 白衣の上から見たってむしゃぶりつきたくなるようなイカした身体じゃねえか! 一回でいいからああいう女を気絶するまでハメまわしてやりてえ。なあ、そう思わねえか?】
【おまえな、それやったら実際に首が飛ぶぞ。俺は一回のファックに命まで賭けようとは思わねえ。おまえもあれだ、試験場の女で我慢しとけ】
【へっ、それだって厳罰ものの規則違反だろうがよ】
【なに、ちゃんと後始末すりゃ問題ねえ。そのへんはみんなわきまえてるさ。証拠さえ残さなけりゃ誰がやったかなんてわからねえんだ】
【俺はそれが嫌なんだよ。ちょっと前まで愛し合ってた女に鉛弾をブチこまなきゃならないなんてな】
【柄にもねえこと言いなさんな。ま、そのへんは学者先生もお目こぼししてくれてんだよ。慰安所がなきゃ軍隊が立ちゆかないことくらいわかってんだ】
【けどよ。それだって、あの話……】
【ああ……ウィリアムの野郎か……】
と、また会話が聞きとりづらくなった。だが今度はチューンが外れたのではない、彼らの声が小さくなったのだ。それまでの調子とはうって変わって、低く呟くような声で彼らは話を続けた。それを聞き逃すまいと、俺はいよいよ必死になって壁に耳を押し当てた。
【試験場で死んだって話だろ? パンツずり下げたまんまでよ】
【ロディーの話じゃ背中を撃たれたらしい。どのみち、ありえねえ話だ】
【ああ、ありえねえ。こんなことは今までになかった】
【そもそもあっちゃならねえ話だ。あそこで俺たちが死ぬこたねえ。俺たちは撃たれたって死なねえ。学者先生が言うにはそういう話だったじゃねえか】
【そうだ、そういう話だった。それが背中から撃たれて死ぬんじゃ、いくら高い金もらったって割に合わねえ】
【……こんなこた言いたかねえが、ここんとこ何かヤバくねえか?】
【ああ、たしかにな。いよいよヤバくなってきた気がする】
【いっそ逃げちまうか?】
【逃げる? どうやって】
【ジープはあるんだ。あとは水と食糧があればいい】
【燃料が足りねえよ。そのへんはあの雌犬も注意してるってこった。第一、本部の命令に背いてどうすんだ。脱走兵の末路なんてわかりきってるだろ】
【そうか……そうだな。まったくなあ、あんとき金につられてなけりゃこんなことには――】
「くしゅん!」
「……!」
突然響いたその音に、思わず俺まで声をあげそうになった。
確認するまでもない、ペーターがくしゃみをしたのだ。彼らの話に集中するあまりその危険を完全に忘れていた。その恐れていたことがついに起こってしまったのだ。
【A
【
そんな短いやりとりのあと、壁越しの声は消えた。それが何を意味するかわからないほど愚かではない。陽射しの中に身を乗り出していたペーターを慌てて引き寄せた。そうしてその口を覆おうとした瞬間、左手首の近くに焼けつくような激痛が走った。
「……っ!」
痛みの正体はすぐ理解できた。ペーターが噛みついたのだ。だがそんなことに構っている暇はない、彼らがここへ来るまでにもうあと何秒もないのだ。手首の痛みに耐えながら死にもの狂いで考えた。ジーンズの拳銃に空いている手を伸ばしかけ――けれども止めた。
ふと、足下に大ぶりの瓦礫が落ちているのが目についた。咄嗟にその瓦礫を拾いあげ、入口に黒い陰が覗いた瞬間にそれを天井目がけて思い切り投げつけた。
【Wh
【
瓦礫が降り落ちる乾いた音に、彼らの忌々しげな叫び声が混じった。俺の投げた煉瓦は偶然うまいところに当たったようで、盛大にまきおこる土煙の向こうに下半分が塞がったようになった入口が垣間見える。その裏にあって右往左往する二つの人影と。命拾いしたことで元の調子に戻った彼らの掛け合いと――
【
【
【
【
もうもうと立ちこめる土煙の中、遠ざかってゆく彼らの靴音を聞いた。その靴音が聞こえなくなってしまったあとも、俺は壁の穴にペーターを抱えてじっとそのままでいた。
窓下にジープのエンジン音が生まれた。発進のために大きく膨れあがり、やがて急速に小さくなってゆくそれを確認してから、俺は肺の中のものをすべて絞り出す思いで大きく深い溜息をついた。
「……離せって」
俺がそう言って初めて、ペーターは俺の手首に噛みついていた口を離した。食いこんでいたものが抜けたそこに、改めて激しい痛みが走った。目に近づけて見れば、くっきりと綺麗に並ぶ歯形に赤い血が滲んでいる。これは
……だが彼女から逆に返ってきたのは不平そうなしかめ面だった。頭だけこちらに向けたその顔には、俺の方が悪いとでも言いたげな恨みがましい表情が貼りついている。その顔に噛み痕を突きつけて叱りつけたい思いに駆られ――けれども無駄なことだと思い直した。
代わりにもう一度手首の傷を眺めて、俺はまた腹の底から大きく深い溜息をついた。
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