058 招かれざる訪問者と終演(3)

 ペーター共々『王の間』に戻ったあと、俺はウルスラにもらった例の薬を取り出して、できたばかりの噛み傷に塗りこんだ。湿疹の薬を塗ったところで治りが早くならないことはわかるが、消毒の効果を狙ってのことだ。傷は思ったより浅いようだったが油断はできない。こんな何もない場所で傷口が膿んだりしたらどうすることもできないからだ。


 そんな俺の治療をペーターは寝台の上から無言で眺めていた。今さら罪悪感を感じているのかと最初は思ったが、ぽかんと口を半開きにした顔を見ればどうやらそうではないようだ。「何で黙ってるんだ?」と尋ねても答えは返ってこない。その代わり、これ見よがしに口をぱくぱくと金魚のように動かして見せる。俺をからかっているのか? と一度は思い――だがふと思いつくところがあって、その言葉を口にした。


「あのな、もう喋っていいんだぞ?」


 俺がそう言うとペーターは「ぷはー」とわざとらしい音を立てて息を吐いた。……言いたいことは山のようにあったがそのすべてを飲みこみ、ポケットに残っていたデーツを掌に載せてペーターの前に差し出した。


「ちゃんと黙ってたご褒美だ」


 と、俺が言い終わる前にペーターはそれを引ったくると、またさっきのように寝台の端に退き、こちらに背を向けて貪り始めた。そんな彼女の姿を認めてから、俺は溜息をついて寝台の上に寝ころんだ。


 ……何はともあれ、最悪の事態は免れた。手首に思わぬ負傷を受けはしたが、結果をみればまったくこちらの思惑通りにことは運んだ。


「……」


 緊張のあとの虚脱がどっと押し寄せてくるのを覚えた。


 今になって、自分がまさしく薄氷を踏むようにして一つの山を越えたのだということを実感した。特に最後の、天井に瓦礫を投げつけて自然な崩落に見せかけたあれは出来過ぎだった。もし俺があそこで銃を手にとっていたら……どんな事態になっていたか想像したくない。


「……」


 とにかく危険は去ったのだ。彼らがを持ち帰ったことで、今回の芝居はほぼ完全に成功したと言っていい。これでウルスラの恩にも報いることができたし、軍隊に拉致されて俺が拷問にかけられることも――あるいはこいつが慰み者にされることもなくなった。


 そんな感慨の中に虚脱した身体は、いつまで経っても元には戻らない。こうなるまで自分でもわからなかったが、やはりと言うべきか俺の精神はここまで相当に張りつめていたようだ。


「……」


 それが理由で、眼の前にペーターがぬっと逆さまの顔を突き出してきても、俺は動かずにそのままでいた。


 間近に見るその顔はうすく唇を開き、何を考えているかわからない神妙な目でじっと俺を見ている。とにかくこいつを守れたんだ……そう思って俺は無意識に微笑んだ。その笑みをどうとったのかわずかに眉をしかめ、だがすぐ元の表情に戻って「あれきりですか?」と言った。


「ん?」


「さっきのです。あれきりでおしまいですか? もうないんですか?」


「もうないよ」


「買い叩かれたもんだ! あんな危ない綱渡りにつき合わされて、そのご褒美があれきりだなんて!」


 そう言ってペーターは俺の顔を間近に見下ろしていた頭を起こし、視界から外れた。けれどもその場から離れる気配はない。顎をあげて目をやると、ちょうど頭の上あたりにさっきと同じように女の子座りをするペーターの姿があった。


 もう危険はないのだからどこへ行ってくれてもいい――そう思う一方で、ペーターがそうしたいというのなら別に俺の傍にいてくれてもいい、と折からの虚脱に任せて取り留めもなくそう思った。


「痛かったですか?」


「……ん?」


「さっき私が噛んだ手首は、痛かったですか?」


「……痛かったよ」


「でも、あれはハイジがいけないんですよ? ハイジが私に乱暴しようとするから」


「……そんなつもりはなかった」


「嘘です。ハイジはたしかに私に乱暴しようとしました。だから身を守るために私はああして抵抗しなければならなかったんです」


「……そうか」


「だから、私を恨むのは筋違いですよ? 恨むなら私に乱暴しようとした自分自身を恨んでください」


「……ああ、そうする」


 まともに相手をする気力もなく、適当に返事を返した。ペーターからの返事はない。何気なく視線を向けると、相変わらず何を考えているかわからない目でこちらを見る視線にぶつかった。


 ふと、そんなペーターの様子を妙にしおらしいものに感じた。つじつまの合わない言葉を連ねながら、それでもじっと俺の傍から離れないこのペーターは、考えてみればたしかにしおらしい。


 そうして今朝目覚めたのがこのペーターで本当によかったと今さらのように思った。こそあったものの被害はそれだけで済んだし、何よりこいつは俺の言いつけを守り、最後まで黙っていた。少なくともいきなり大声で叫んだり、笑いながら踊り出したりはしなかった。それを思えばいわれのない糾弾にも腹は立たない……むしろ感謝のようなものを感じさえする。


 ……それにしても、これから何をすればいいのだろう。


 先ほどの息詰まる演技を最後に舞台から降りてしまった俺には、もう何もすることがない。この何もない砂漠の廃城に何もすることがないまま置き去りにされて、何をすればいいのかわからない状況に変わりはない。


 ……いや、ことそれに関して言えば事態は悪化している。昨日まではまだしもサバイバルの手段を講じてあれこれ頭を悩ますことができた。それが当面の食糧が保証された今となっては、そのために不毛な努力を重ねることさえできない――


「……そうだ。水」


 不意にそのことを思い出し、寝台の上に身体を起こした。残っていた水はみんな今朝に飲んでしまった。だから水だけは早急にどうにかしなければならなかったのだ。


 昨日汗まみれになって作った『浄水場』の性能を試すチャンスでもある。部屋の隅に転がしてあった空のペットボトルを拾いあげ、中庭に向かうべくそのまま『王の間』を出ようとした。


「……ついて来なくてもいいぞ?」


 背中に聞く小さな足音に振り返ると、ペーターが裸足のまま追いかけてくるところだった。その足に俺が目をやると思い出したように靴に駆け寄り、いそいそと身につける。そうしてまた俺の前に戻ってくると、準備できましたというように微笑んだ。そんな顔を見せつけられては何も言えない。ついてくる足音を確認しながら俺は、そのまま黙って薄暗い廊下に出た。


◇ ◇ ◇


 『浄水場』の始動に時間はかからなかった。


 『倉庫』から持ち出したポリ袋をそのまま底に敷き、ペットボトルで泉の水を汲んできてそこに溜める。充分に水が溜まったところで底の穴に空のペットボトルをあてがい、蒸散を防ぐために石で袋の口を閉じる。そうして天井についた水がうまくペットボトルの口に滴下するように小石を乗せてやる――それで終わりだ。


 灼熱の太陽の下、ポリ袋の内側に早くも水滴がつき始めるのを見てほくそ笑みながら、俺は早々にその陽射しを逃れナツメヤシのつくる木陰に入った。


「何してたんですか?」


「生きてくために必要なことだよ」


「? 何ですかそれは?」


「お前に話してもわからないこと。いいか? 俺がさっきいたあそこにあるものには手を触れるなよ? 近づくのも駄目だ」


「どうしてですか?」


「危ないからだ。お前が触ったら俺たち二人揃って死ぬことにもなりかねない。だから絶対に手を触れるな。それちゃんと守ってたらまた食べさせてやるから」


「はい、わかりました。約束ですよ?」


「ああ」


 『倉庫』からポリ袋とカッターを持ち出したとき、ペーターには少し離れた部屋で数を数えていてもらった。そこに物資が隠してあることを知られたくなかったからだ。


 大きな危機をやり過ごしたこの廃墟にまだ危険が残っているとすれば、それはペーターの存在だ。


 下手に『倉庫』の在処ありかを教えればそこにあるものを見境なく食い散らすだろうし、最悪、カロメを段ボールごと泉に沈めかねない。物資を『王の間』に移すなどもっての他だ。『倉庫』の鍵は俺が責任を持って管理していくしかない。


「喉が渇きましたよ?」


「もう少し我慢しろ。今、水はきれてる」


「あそこにいっぱいあるじゃないですか。あれを飲むとします」


「あれは毒の水だ。飲んだら紫色になって死ぬ」


「そうなんですか? でもこの前ちょっと飲みましたよ?」


「ちょっとならいい。けど、沢山飲んだら死ぬ。だからもうあそこの水は飲むな。俺がちゃんと飲める水を用意してやるから」


「そうしたら、またくれますか?」


「ん? ……ああ、ちゃんとやるから」


「ならそうします。もうあそこの水は飲みません」


 そう言ってペーターは無邪気な笑顔を見せた。その笑顔に、俺は改めて小さな罪悪感を覚えた。がこの辺りに落ちていたのを拾ったものだということを知らないのだ。もしそれを知ったら、こいつはいったいどんな顔をするのだろう。


 ふと、周囲にまだが落ちていないか気になった。だが頭を巡らせるまでもなく、この辺りの実は昨日であらかた拾い尽くしたことを思い出した。それにペーターはここに何度も足を運びながらそれに気づかなかったのだから、気を回す必要もないだろう。


 代わりに俺は頭をあげ、激しい逆光に黒々とした椰子の茂みを仰いで、今後はあの実を乾かしてちゃんとしたものを作ってやろうと思った。


 ――不意に風が渡った。


 砂を巻きあげない程度の穏やかな風は、けれども地面に降り注ぐ木洩れ日を踊らせ、泉の水面みなもを波立たせた。昼下がりの酷暑にわずかでも涼をあたえてくれる風は俺たちにとってありがたい。これ以上強くならず、また弱くもならないでほしいと願いながら、しばらくその風が頬を撫でてゆく感覚に身を任せた。


 そうして気がつけば、世界に俺たちは二人だった。陽炎の下に吹く穏やかな風は、ただ俺たち二人だけのものだった。悠久の時の中に緑を失わないオアシスも、崩れかけた土塊つちくれの城も。果てしなく広がる灼熱の荒野も、高く遠く澄み渡る群青の空さえも。


 灼けつくような太陽の下、鮮やかな色彩をもって描き出されるその景色の中に、俺たちは二人きりだった。


 そのことを思った瞬間、涙がこぼれそうになるほどの孤独が何の前触れもなく胸に湧きおこるのを覚えた。その孤独の感覚は、だがはっきりした形をとるまでもなく陽炎に溶けた。そのあとにはただ、何もない世界にあって何もすることがない午後の、無意味でだらしのない空虚だけが残った。


 ふと、もう一つの世界のことを思い出した。ここへ来るまでずっと暮らしていた、今は彼方にある遠く懐かしい世界。……思えば来客を迎えるために忙しかったとはいえ、今までそれを思い出さないでいたのは変な話だ。つい昨晩、俺は久々にそこに戻り、紛れもない現実と幻覚がない交ぜになったような奇妙な体験をくぐり抜けてきたばかりなのだから。


 ――あれはいったい何だったのだろう。


 ウルスラに教えられた通りの方法で俺はあの元の世界に戻ることができた。けれどもそこに待っていたのは目も耳も全て塞いでしまいたくなるような現実と、舞台前と何も変わらずおかしなことばかり起こるちぐはぐな世界で、結局、目的を遂げられないまま俺はまたこちらに帰ってきた。……いや、しまった。


 あそこで俺はどうすればよかったのだろう。どうすればあのペーターを舞台に向かわせることができたのだろう。……そもそもその舞台が流れてしまったあの世界で、いったい俺はどこへ彼女を連れて行けばよかったのだろう。


 考えれば考えるほどわからなくなってくる。もしあの舞台が流れたことを知っていたのなら、ウルスラは何のために俺をあの世界に帰したのだろう……過酷な現実を突きつけた挙げ句、この俺に何をさせたかったというのだろう。


 もう一度あの世界に戻るべきなのだろうか。


 この劇で俺に残された役目はそれしかないとウルスラは言った。さきほど成功裏に終わった芝居によって舞台から降ろされた俺には、あちらのペーターを舞台に上げることしかできない……それ以外にこの劇の中で俺にできることはない。その言葉が本当だとしたら、俺はやはりまたあの元の世界に戻るべきなのだろう。


 だがそのためにはまた昨日の夜のように、どうしても避けては通れない儀式がある――


「歯が磨きたい」


「え?」


「口の中が気持ち悪いし、歯が磨きたいです」

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