059 招かれざる訪問者と終演(4)

 まったく出し抜けに、脈絡のない一言だった。けれどもその場違いな言葉に俺は、妙にしっくりと共感めいたものを覚えた。……と言うより、自分のことのようによくわかった。確かに口の中が気持ち悪いし、歯を磨いてすっきりしたい。ここへ来てから一度も歯を磨いていないのだから、そのへんは文明人として当然の欲求だった。


 だが、ここに歯ブラシはない。いくら歯を磨きたくてもそのための道具がない。昨日、ウルスラが持ってきてくれた物資の中にもなかった。何か足りないものはないかと彼女に聞かれたときも、水と食糧のことで頭がいっぱいで歯ブラシは考えつかなかった……。


 どうしたものかと思案しつつぼんやり椰子の傘を見上げ――そこでふと、昨日ウルスラがロープを使って器用に実を採っていたことを思い出した。人間とは道具を使う生き物……いや、この場合はむしろ道具を作る生き物なのだ。そう思って立ちあがった。そうして周囲を眺めまわし、近くの幹に垂れ下がっている小振りな枯れに目をつけた。


「何してるんですか?」


「黙って待ってろ」


 ジーンズのポケットからカッターナイフ――持ち出したものの『浄水場』の準備には使わなかったそれを手にとり、刃を伸ばして椰子の枯れ葉を切り取った。それからペーターの隣に戻り、葉柄はがらを適当な長さに切断してその先をささくれ立たせる作業にかかった。


 何かの本で読んだ話だが、昔は細い木の先をささくれ立たせて歯ブラシにしていたらしい。それならばナツメヤシの葉柄でも、似たようなものができないということはない。


「……できた」


 思ったより早く、その即席の歯ブラシは完成した。もちろんブラシは硬いし本物にはほど遠いが、どうにか用を足せそうなものになった。早速それを口に入れようとして……思いとどまった。少しだけ考えて泉に向かい、生温かい水でゆすいで削りかすを落としたあと、元の場所に戻ってその歯ブラシを使い始めた。


 試してみると案外、使い心地が悪くないことに驚いた。慎重に動かさなければ歯茎はたちまち血まみれになるだろうし、枯れた草の味が口の中に広がるのはどうしようもない。それでも一度コツを掴んだあとはそれほどの苦労もなく、だいぶ奥の方までうまく歯を磨くことができた。上下の歯を一通り磨き終え、泉の水で口をすすいでしまうと、不快だった口の中はまるで歯をぜんぶ取り替えたように気持ちよく爽快なものになった。


「……ん?」


 満足して木陰に戻ると、あからさまに不満げな顔をしたペーターが俺を迎えた。そういえば最初に歯を磨きたいと言い出したのはこいつだった。それが俺だけ磨いて気持ちよくなったのだから、ペーターがそんな顔をするのもわかる。


 俺はもう一度「待ってろ」と言い、地面に放り出してあった葉柄を拾いあげた。そうしてさっきの要領で、ペーター用の歯ブラシを作り始めた。


 二本目ということもあり、歯ブラシはすぐにできた。けれどもその出来あがったものを手にして、もう一つ大きな問題があることに気づいた。この歯ブラシにはコツが要るのだ。ペーターではうまく使いこなせるとも思えない。だからといって俺が歯を磨くのを見せつけたあとに、お前は磨くなというのも酷な話だ。


 ……そうなれば方法は一つしかない。恨むような目をこちらに向けるペーターの顔をしばらく見つめてから、俺は言った。


「歯、お前も磨きたいか?」


「さっきから言ってるじゃないですか。磨きたいって」


「なら、ちゃんと俺の言うようにできるか?」


「先に自分だけ磨いて、私のこと忘れてたハイジの言うことなんか聞きません」


「そうか。だったらお前の歯磨きはだ」


「……」


「いいか? これはお前のために言ってることだ。この歯ブラシはうまく使わないと酷いことになるんだ。だから俺の言うようにできないんだったら、お前には使わせない」


「……わかりました」


「本当にちゃんとわかったのか?」


「……ちゃんとわかりました」


「なら、そこで口開けて待ってろ」


 俺がそう言うとペーターは憮然とした表情のまま、雛鳥が餌を求めるように大きく口を開いた。それを確認して俺は泉に向かい、さっきと同じように歯ブラシの削りかすを水で洗い落とした。


 そうしてまた彼女の隣に戻り、言いつけ通り口を開いたままでいるペーターの真向かいにしゃがんで、「俺が磨いてやるからじっとしてろ」とその耳元で囁いた。


「……どうてハイ磨くいがうんでか?」


「お前が磨くと危ないからだ」


「……ハイいがいたってあうないかもれないじゃないでか」


「俺はさっき、自分の歯をちゃんと磨いただろ」


「……ならあたひだって最初はいほからちゃんと自分いうん磨けるいがえうかも」


「いいから黙ってろ。喋ったり口動かしたりしたら酷いことになるから、ちゃんとじっとしてるんだぞ?」


「……」


 俺の言葉にペーターはしぶしぶといった感じで喋るのを止め、覚悟を決めたように目を閉じた。俺は最初ペーターの前に座って仕事を始めようとし、だがうまくいかないことに気づいて後ろにまわった。


 ……そう言えばテレビで子供の歯を磨くお母さんも、いつもこんな格好だった。そんなことを思いつつ後ろから抱きかかえるようにして頭を上に向かせ、降り注ぐ木洩れ日を頼りに奥の方から一本ずつ磨き始めた。


 磨き始めてしまえばペーターは大人しかった。目を閉じてこちらのなすがまま、喋ることも舌を動かすこともしなかった。磨きやすいようにもっと口を開けと言えば開き、唇を剥けと言えば素直に剥いた。そんな態度に俺は満足を覚え、肩にもたれかかる頭の重みを感じながら時間をかけてその歯を磨いた。


「――できたぞ」


「……」


「あそこでうがいしてこい」


「……飲ん死ぬひうんじゃなかったんでか?」


「うがいするだけなら死なないから。せっかく磨いたのに、そのままだと気持ち悪いだろ?」


うでね」


「なら、うがいしてこい。俺はここで待っててやるから」


 俺がそう言うとペーターは弾かれたように駆け出した。泉につき、その水をすくいあげて二度、三度とうがいをする姿を陽炎の向こう側に眺めた。だが、口をすすぎ終えてもペーターは戻って来なかった。太陽を乱反射する泉のほとりから、ぼんやりとほうけたようにこちらを見ている。呼びかけても返事はない。


 椰子のつくる木陰の外に、陽射しはまだかなり強い。俺は仕方なく立ちあがり、連れ戻すために泉へ向かった。


「何やってんだよ」


「……」


「うがいが終わったんならさっさと戻るぞ、ほら。こんな暑い中にいると頭が――うわっぷ」


「あは、あはは……」


 最初からそのつもりだったのだろう。俺を充分に引きつけたところでペーターは泉に飛びこみ、そこからばしゃばしゃと水を飛ばしてきた。


 一発目をに食らった俺は反射的に顔を覆うだけでまともに反応できず、二発目、三発目も頭から浴びた。たじろぐだけで何もできない俺にペーターは容赦なく、無邪気に笑いながら立て続けに水を浴びせかけてくる。


「……こら、いい加減にしろって」


「あはっ、あはっ、あははは……」


 激しい陽射しに照らされる原色の泉に、自分も水浸しになりながらペーターはその遊びをやめなかった。きらきらしく降りかかってくる水しぶきの先に、濡れたドレスをぴったりと肌に貼りけた無防備そのものの彼女がいた。


 だが淡く色づく曲線が太陽の光に透けて見えるのを目の当たりにしても、俺の中に欲情の火は灯らなかった。そればかりかいっそ子供に戻ってお互い水をかけ合いたい気さえしたが、誰も見咎める者のいないこの廃墟にあっても、俺はそこまで開き直って気ままに振る舞うことはできないのだ。


 危険は去った。俺は――俺たちはもう知らないうちに始まっていた舞台を降り、演ずることをやめた。では今こうして俺たちがいるここはどこなのだろう? 俺たちがしているこれは何なのだろう? 


 ふとそんな考えがぎり、いつまで経っても頭から離れない。鮮やかな光彩に充ちた泉を眺めながら……その水に足を浸す少女に等閑なおざりな文句を連ねながら。


 ――もう一度あの世界に戻るべきなのだろうか。


 『王の間』を出る前に思ったその問いを、もう一度自分に繰り返した。どこか別の場所で続いている劇のに、もう俺の役目はない。この劇で俺が演じられる役は、元の世界に戻って彼女を舞台に立たせる、もうそれしかない。


 ウルスラが残していった言葉を何度も頭の中に反芻して、けれどもそのための儀式――その世界に戻るためにしなければならないことを思い、ふっと溜息をついてその考えを追いやった。


◇ ◇ ◇


 ――不毛な水遊びのあと木陰に戻って服を乾かし、陽射しが弱まってきたところでペーターを城の中へ帰した。


 『浄水場』の増設を思いつき、その作業を彼女に邪魔されたくなかったからだ。初号基の稼働ぶりは順調で、早くもペットボトルの半分まで水が溜まっている。新設するものも同じ仕様で問題ないだろう。そう思って俺は先の尖った岩を探し、昨日と同じように地面を掘り始めた。


 三基分の穴を掘り終えると既に夕暮れだった。


 作業自体の過酷さは昨日と変わらなかったが、それがちゃんと稼働するとわかっていることで仕事は捗り、予定よりだいぶ早く工事を終えることができた。最初の一基を加えれば四基。とりあえずこれで様子を見ればいい。ポリ袋はまだ沢山あるのだから、俺が苦労を惜しまなければ幾つでも必要なだけ増やすことができる。


 順調に作業が進んだとはいえ、全身くたくたに疲れ果てていた。腕も肩も砂が詰まったように重く、思い出したように昨日の筋肉痛も出てきている。少し息が苦しい――脱水症の兆候だ。そのことに気づいて俺は初号基のポリ袋からペットボトルを取り出し、その水を少し口に含んだ。生温い水が全身に運ばれ、細胞の一つ一つに染み渡ってゆくのを、労働を終えた充実感の中に一頻り味わった。


 もう一口飲んだところでペットボトルを元の場所に戻そうとし、だがもう『倉庫』にも水のストックがなかったことを思い出してそうするのをやめた。二人でこの量は心許ないが、明日までならどうにかしのげるだろう。少し曇ったペットボトルの内側に半分まで溜まった水を赤い陽にかざしそう思い、それを手に俺は豪奢な色に燃え立つ夕映えの中庭をあとにした。


◇ ◇ ◇


 『倉庫』から夕食分のカロメを持ち出して『王の間』に戻ると、ペーターは寝台の上にくの字になって寝ていた。


 一瞬、起こそうかとも思ったが、そうする代わりに俺は『倉庫』に立ち戻り、毛布を持ってきてその身体にかけた。そうして彼女の分のカロメを枕元に置き、寝台の端に座って自分の分のカロメを食べた。ペットボトルの水は半分だけ飲み、四分の一になったそれに蓋をしてやはりペーターの枕元にそっと寝かせた。


 それも終えてしまうと、重労働の疲れがうしおのように押し寄せてきた。自分のために持ってきたもう一枚の毛布を手にとり、半分投げやりな気持ちでペーターの隣に横になった。規則正しい寝息が咎めるように耳元で響いている。……だが、今日の俺にはこの寝台で眠る権利がある。首の裏にざらついた砂の感触はあっても、硬い床の上で寝るのとは段違いだった。


 せめて今夜だけはここで眠らせてほしい――誰に許しを求めるでもなく心の中でそう思い、しばらく目を閉じて、それからまた薄く目を開けた。


 壁の破れ目から赤い陽が染みいっているのが見えた。赭色オーカーの壁に深く刻まれた亀裂から流れこんでくるそれを、まるで鮮血のようだと思った。俺たちはこの先どうすればいいのだろう――と、迷路に入りかけているその問いをもう一度心に思った。


 けれども疲れ切って休息を求める頭に、その考えも長くは続かなかった。次第に瞼が重くなり視界に靄がかかるのに逆らう気持ちも持てないまま、今日を限りの太陽に別れを告げ、泥のような眠りの中に俺は転げ落ちた――

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