060 招かれざる訪問者と終演(5)

 ――蝉の声が聞こえた。


 眩しい光の中に目が覚めてしばらく、ちょうど時間外れのうたた寝から覚めたときのように自分がどこにいるか、今がいつで、どうして眠っていたかわからなかった。


 ぼんやりとした目で辺りを見まわし、そこが自分の部屋であることはわかった。


 時計を見る――午前九時。針が二本のアナログ時計では午前か午後かわからないが、この明るさからして午前だろう。そんなつまらないことを考えながら身体を起こし、眠気の抜けきらない頭を手櫛で掻きむしった。


 今がいつで、自分がどこにいるか。はっきりしなかったうちの二つまでは理解することができた。だが、どうしてここで眠っていたのか、そのあたりがまだわからない。朝練の時間はとっくに過ぎてしまっている。今から走っても間に合うはずはないし、だいたい舞台はもうこの前の日曜日に――


「……」


 そこまで考えて、自分がどうしてここで眠っていたのか、その理由に思い当たった。


 ……いや、どうして眠っていたかまではわからない。ただ、、そのわけはわかった……何となくわかった気がした。あの城の寝台で寝ていたはずの俺が、今ここにいる。それはつまり、考えるまでもなくそういうことだ。


「……」


 もう一度頭の裏を掻いて、部屋の中を見まわした。……どう見ても住み慣れた自分の部屋で、見間違えるわけもない。


 今回は例のをした覚えはないし、なぜ戻ってきてしまったのかまるでわからない。あるいは寝ている間に触れたのだろうか……ふと頭にのぼったそんな考えを、どうでもいいことだとまた手櫛で掻き消した。


「……つか、何日いつなんだ今」


 日付がわからない。確認しようにもここには日めくりはおろか、曜日を確認できるようなものさえない。日頃からそのあたりの感覚がなかった自分を呪わしく思いながら、それでも何かないかと視線をめぐらせるうちにラジオが目に入った。


 ……そういえば俺の部屋に、外界と繋がるための手段はこれしかなかったのだ。そう思って俺は寝台を降り、ラジオの電源を入れてボリュームのつまみを回した。


 かさついたノイズがスピーカから零れた。チューニングのつまみに指をかけ、ゆっくりと回す……だが、合わない。無機的なノイズの中にかすかな音楽も、アナウンサーの話す声も現れない。AMからFMに切り換え、しばらくつまみを回し続けてもやはり駄目だった。故障したわけではないことはなんとなくわかったが、結局、俺は聞くのを諦めてラジオの電源を切った。


 冷蔵庫は空に近かった。いつのものかわからない干涸らびたチーズと、半切りにしてラップのかけてあるレモン。さすがに手を出す気にはなれない賞味期限の切れた牛乳。チーズはまだどうにかなりそうだったので硬くなった周りの部分をナイフで削り、ピースに切り分けて食卓に乗せた。あとは牛乳をかけないシリアルと水道水。食事とも呼べないそれ――向こうで口にしていたものとたいして変わらないそれをテーブルに並べ、午前の陽射しに充ちた部屋に一人わびしい朝食をとった。


 食事の途中に、ふと気がついて左の袖を捲りあげた。その内側から露わになった手首に、ペーターがつけたはずの歯形は見あたらなかった。それを確認して俺は袖を元に戻し、朝食の残りを食べた。傷が消えた理由はわからなかったが、その理由を考えようとする思いも、どういうわけか浮かんでこなかった。


 食事をとり終え歯を磨いてしまうと、何もすることがなくなった。


 もともと今回は確かな目的があって戻ってきたのではない。あの砂まみれの寝台で寝ていたはずが、気がついたらここにいたのだ。なぜこうなったのかわからないし、何をすればいいかもわからない。


 ――もちろん、あいつを舞台に立たせるという役目を忘れたわけではない。だが昨日のあの有様では何を言っても無駄だろうし、何より、あいつはおそらく俺とはもう会ってさえくれないだろう。曲がりなりにもあいつと数年来つき合ってきた俺にはわかる。昨日のあれは言葉よりもはっきりした、あいつなりの俺への絶縁宣言だったのだ。


 そのことを改めて理解しても、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。ただ何の感動もなく「ああ、そうか」と思っただけだ。そのときの状況があまりに異常だったからかも知れない。もっとも、それが異常だったこと自体に俺はもう何も感じないし、その異常な状況であいつが見せた態度――それ自体を無視することも、否定することもできない。


 いずれにしろ、このままここにいても仕方なかった。腹ごしらえは済んだし、あちらに帰るにしても。ここに銃がない以上、見つけるまでは帰りたくても帰れない。


 そんな結論をもって、どこへ向かうとも決めないまま俺はとりあえず小屋を出ることにした。


◇ ◇ ◇


 昼に向かう町には蝉の声が立ちこめていた。


 雲のない透き通るような青空の下、長屋のトタン屋根が陽射しに映え、ぎらぎらと輝いているのを見た。半分以上の店にシャッターが降りた商店街に人足はない。老人の模型屋も閉まっていたが、それは今日が休みということではなく、この時間はまだ開いていないだけなのだということを俺は知っている。


 微睡むような小路を抜け、表通りへ出た。さすがに車は走っていたが、人の通りはなかった。今の時分にこれだけ閑散としているのを見れば平日のようだが、曜日まではわからない。そういえばそれが知りたかったのだと思い返し、差し当たり日付を求めて駅の方へ足を向けた。


「……やっぱり月曜か」


 だが少しも行かないうちにパチンコ屋の電光掲示板でそれを知ることができた。月曜日――俺たちの舞台があるはずだった日曜日の翌日――ということだった。その日曜日を俺はに過ごしたのだから、今日がその翌日であることは当然といえば当然だった。


 あそこからどうやって小屋に戻ったかわからないが、一晩寝て起きたということのようだ。それがわかっても、俺は何も感じなかった。なぜ日付を確認しようなどと考えたのか、それさえ思い出せなかった。


 再び目的を見失った町に、俺はそのまま駅へと向かった。もちろん、何か宛てがあってのことではない、完全に惰性だった。人気ひとけのない通りを歩きながら自分はいったい何をしているのだろうと、そればかりを思った。こんなことをしていても何にもならない――声に出さずに呟く俺の首元を一筋の汗が伝い落ち、シャツの内に飲みこまれてゆくのを感じた。


 ――昨日ここへ戻ってきたのはペーターを舞台に立たせるためだった。それが俺に残された唯一の役目だという言葉を信じ、それを果たそうと真剣に彼女のことを捜した。


 その目的はまだ死んでいない。昨日と今日で何かが変わったわけではない。だが俺はもう彼女を捜すこともせず、こうして意味もなく町を徘徊している。そんな自分に釈然としないものを感じながらも、俺の足は決してそちらへ向かおうとはしない……。


「……」


 不意に――まったくの不意に、自分の中に感情の動きがないことに気づいた。


 小屋の寝台に目覚めてからずっと何気なく思っていたそれを、はっきりした事実として認識した。自分を取り巻くすべてに、今の俺は何も感じない。始まったばかりの夏のただ中にある町にも、昨日立つはずだった――立つことができなかった舞台にも。そのすべてに、俺は何も感じない。……いや、感じることができない。


 これまでに覚えたことのない、それは違和感だった。


 頭ではわかっていること、それに対して自分が何かを感じずにはいられないものすべてに、俺は何も感じることができない。そしてその違和感さえも、正確には本物でなかった。自分が何も感じられないという状況……違和感を覚えるべきその状況にあってその違和感さえ感じられない自分に、感情から離れた不審さを頭で考えているだけだ。


 似たような感覚には覚えがある。舞台前のあの一週間、これと似たような感覚を何度となく味わった。だがそのときの感覚と今のこれとは、決定的なところで違っている。それをわかりやすい言葉にすれば、今にも壊れそうな何かと、既に壊れてしまって動かない何か――その二つの違いだ。


「……」


 ……そう、壊れている。もっと言えば、死んでしまっている。死んでしまっているのは俺の中にある感情の動きであり、俺を取り巻く町――町を含む現実そのものでもある。さんさんと降り落ちる陽光の下にあらゆるものが死に絶え、動きを止めている。もちろん実際にではない、往来する車も風にそよぐ梢も実際には動いている。ただそれらは、俺との関わりにおいて死んでいる。おそらく俺との関わりのみにおいて、目に映るすべてのものは完全に息絶え、冷たく硬直している……。


 いっそ何かが起こってほしい。ほとんど諦めに似た気持ちで俺はそう思った。


 目の前で何が起こったとしても、今の俺には何も感じられないだろう。それならば何かが起こってほしい、できるなら空が落ちてくるような途方もない事件がいい。その中で自分が本当に何も感じないでいられるか、それを確かめてみたい。


 そんなつまらないことを考えながら、俺はまた歩き出した。まばらだった人影は、駅が近づくにつれさすがに増えていった。昼がもうすぐなこともあってか、スーツ姿のサラリーマンが足早に歩いているのが見える。人群ひとむらに紛れ、その間を泳いで駅前の広場に出た。ひとまず目的に達して立ち止まる――その俺の目の前で、それは起こった。


「……」


 最初は目の錯覚かと思った。


 俺の周囲で、時間が止まっていた。広場を行くすべての人がそのままの姿勢で硬直し、その動きを止めていたのだ。それは一瞬だった。何事もなかったかのように人々はまた動き始め……だが、そこでまた止まった。そうしてまたすぐに動き始める。


 ちょうど群れをなして遊泳する海水魚のように、俺の周りで人々が一糸乱れぬ調和の中に動きを止め、また動き始める――そんなことを繰り返す。


 錯覚ではなかった……少なくとも、俺の目にそれは錯覚とは映らなかった。冗談としか思えないそんな光景を、俺は呆然と眺め続けた。雑踏はもう耳に届かない、ただ映像だけがあった。立ち尽くす俺の周りをぐるぐると回る人々の群れ……得体の知れない結託に足並みを揃え、俺一人を残して奇妙な統合をみせる物言わぬ人々の群れ……。


 けれども――そんな光景を目の当たりにしてなお、俺はやはり何も感じられなかった。ここへ来るまでにふと考えたこと……不確かだったその予想を、今、確かなものとすることができた。こんな異様な光景が自分の周りに広がっているのを見ても、俺は何も感じない。


 ……そして不意に、これまでわからなかったその理由を天啓のように理解した。俺が今、何も感じないでいられる――何も感じることができない理由。それは俺の目に映るこれが、俺とは何の関係もないだからだ。


「……っ!」


 それを理解した刹那、俺の中に初めて感情らしい感情が起こった。


 いや、起こったなどという生やさしいものではない、ほとんど爆発的な勢いで俺の内側を埋め尽くした。それは違和感だった。自分という存在が拒絶され、この世界のすべてから無視され排斥される……そうとしか言いようのない居心地の悪さだった。


 居ても立ってもいられない、だからといってどうすることもできない……一刻も早くこの場から逃げ出したくて、けれども足は一歩も動こうとはしない……そんな圧倒的な負の感覚の中に俺はたまらず胸を押さえ、その場にうずくまった。


「ぐっ……」


 実際に胸が苦しかった。精神から溢れ出たそれが肉体にまで影響を及ぼしている――自分という存在がこの現実から切り離され、打ち捨てられる――その曖昧でとらえどころのないぼんやりした苦痛を、ぼんやりした苦痛のままこの身体が感じている。その苦痛は黒い霧のように広がって現実感がなく、けれどもそのあまりの重さに心が押し潰されてしまいそうだ。


 低い声で呻きながら俺は必死でその苦痛に耐えた。だからその声がかかったときも、俺はすぐには頭を上げられなかった。


「――大丈夫ですか?」


「……え?」


「どこが悪いんですか? 救急車呼びますか?」


 頭を上げるとスーツ姿の女性が心配そうに俺の顔を覗きこんでいた。周囲には小さな人だかりができている。その人だかりが女性の周囲にできたものではなく、俺の周囲にできたものであることはすぐにわかった。なぜ彼らが一様に気遣うような目で俺の方を見ているかということも……。


「ねえ本当に大丈夫? 救急車が嫌なら、この近くに病院もあるし」


「いえ、大丈夫……何でもないです」


 そう言いながら俺は辺りを見回した。


 遊泳する人々の群れはもうどこにもなかった。気がつけば胸の苦しさは、まるでそんなものなど初めからなかったかのように消えていた。矢も楯もたまらず俺は立ちあがり、声をかけてくれた女性へのお礼もそこそこに、何も考えられないまま逃げるようにその場をあとにした。

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