061 招かれざる訪問者と終演(6)

「はあ、はあ、はあ……」


 駅前から離れたい一心でただ闇雲に走り続け、ようやく足を止めたのは高架下のしけた噴水の前だった。菓子パンの空き袋や煙草の吸い殻、そんな汚らしいゴミに囲まれた噴水は相応にみすぼらしく、面した道の交通が多いことも相まって本来の憩いの場としてはまったく機能していない。


 だが、そんな人気のない薄汚れた場所が、今の俺にはありがたかった。その噴水のへりにどっかりと腰をおろし、頭をたれて息が静まるのを待った。


「はあ……はあ……」


 次第に落ち着いてくる息の代わりに、汗がちょうど噴水のように顔から背筋から吹き出してくるのを感じた。……こんな炎天の下に息があがるまで走り続けたのだから無理もない。高架のつくる日陰の中にまだ少しは暑さをしのぐことができたが、じっとりと肌にはりつくような蒸し暑さはで感じていたものとは明らかに別物だった。どちらがより暑いというのではない、両方とも耐え難いほど暑い。けれども今ここで身体中に流れる汗をどうにもできないでいる俺にとっては、やはりこちらの暑さの方が厳しく耐え難いものに感じる。


 呼吸がすっかり落ち着いても汗は止まらなかった。それでもようやくまともに動くようになった頭でさっきの出来事を考えようとし――軽く頭を振ってそうするのをやめた。考えるまでもない……こうして思い返してみればあれは何でもない。


 あの一週間以来もう慣れっこになった、考えてもどうにもならないわけのわからない出来事がまた起きただけだ。


「……」


 そうして気がついてみれば排ガスの漂う高架下の噴水に、俺はまた何も感じられない自分に戻っていた。


 あの駅前での事件の中に生まれた感情の芽は完全に消え去り、そこに至るまでの虚ろな無感覚をすっかり回復してしまった。そこまで考えて……けれどもそれは正しくないと思った。回復したのではない、変わっていないのだ。なぜなら俺が駅前で感じたあれは、感情などという言葉で呼び習わせられるものではなかった……。


 ぼんやりと眺める俺の目の前を、二階建てのバスが通り過ぎていった。


 ――そのときふと、俺は本当は戻ってきてなどいないのではないかという考えが脳裏をぎった。あの砂漠の廃城に飛ばされてから二度……昨日と今日、俺はここへ帰ってきたということになっている。だが、は本当に俺が元いたなのだろうか? あるいはこそが隊長の言っていた演劇のためにつくられた世界で、その妹の口車に乗せられ、巧妙にすり替えられたそこにまんまと送りこまれた……そんなことはないだろうか?


 俺は今、この場所にいる――高架下の噴水のへりに腰かけ、往来する車の排気音を聞いている。だがそれさえも、今の俺には定かではない。


 人間とは他人がいなければ自分を自分と認識できない生物なのだと授業か何かで聞いたのを思い出した。たとえば今この俺が別の誰かと入れ替わっていたとしても自分にはわからない。鏡に顔を映してみたところで、それが自分の顔だと思いこんでいれば気がつくことはない。だから自分を自分と認識するためには、誰か他人に名前を呼んでもらう必要があるのだ――と。


 だがここに、俺のための他人はいない。俺の名前を呼んでくれる人は、今ここに存在しない。それが理由で俺は自分が本当に自分であるか、それさえもはっきりと認識できない。


 ……もう帰ろう。諦めに似た気持ちで俺はそう思った。とりあえず帰って、それからまたその先を考えよう。そもそも俺はいったいここへ何をしに来たというのだ? それを考えるとばかばかしくなり、自嘲に鼻を鳴らして噴水から立ちあがりかけた。


 そうして腰を浮かせた俺が駅の方から歩いてくる人影に気づくのと、その人影が少し驚いたように立ち止まるのとがほとんど同時だった。


「おや、これは……」


「あ、どうも。その……お久し振りです」


 今日は帽子をかぶっていない額の汗をハンカチで拭いながら近づいてくる、その人影はオハラさんのものだった。


 偶然といってこれほどの偶然もないタイミングで現れた彼に、俺は戸惑いながらも立ちあがって会釈をした。オハラさんも同じように頭を下げる。それからしばらく男二人見つめ合ったまま微妙な沈黙があったあとに、オハラさんは無言で噴水のへりに腰をおろした。一瞬どうすればいいものかと迷ったが、結局、俺も同じようにその場に腰をおろした。


 二人して座りこんだあとも、しばらく話が出なかった。


 何となく気まずい思いで話題を探して、まず思いついたのは当然のようにペーターのことだった。だがそこではたと、それが触れてはならない話題であることに気づいた。あいつが今どんな状態にあるか、そんなことは昨夜の出来事を思い返すまでもない。そしてオハラさんの方でも話を切り出せないでいるのが、おそらくそのためであることを理解した。あるいは無言で非難しているのかも知れない……彼女を取り返しがつかないまでに傷つけ、心を損ない歪ませてしまった相手を……。


 ……言葉が出てこなかった。この場で話すべき唯一の話題、その最初の一言を口にすることがどうしてもできなかった。だが逆に、それは俺がここで口にしなければならない一言なのだと思い直した。通りすがりのオハラさんが俺の隣に座ってくれたのは、その話をするためだ。ならばそれがどんなに厳しい内容であったとしても、俺はその話を聞かなければならない。


 勇を鼓して息を吸った。そして声が裏返るのも構わず、その一言を口にした。


「あいつどうしてますか?」


「え?」


 けれどもオハラさんから返ってきたのは、意外そうな声と意外そうな表情だった。その反応に俺は逆に拍子抜けしながらも、ここで出るのが当然の話題にそんな反応を返してくるオハラさんの態度に、少し訝しいものを感じた。


「いや……どうしてるのかと思って。ここ数日、ちょっと色々あって顔見てないんで」


「……ああ、それならばあたしも一緒ですよ」


「え?」


「あなた様と一緒です。あたしはちょうど数日前、あの家の主人から暇をいただきまして」


「……」


 衝撃的なその告白に、愕然として声が出なかった。まさかいきなりそんな話を振られるとは思ってもみなかった。ただ見守るしかできない俺の隣で、オハラさんは穏やかな表情を崩さずに淡々とその話を続けた。


「そういうわけでして、今は就職活動の最中なんですよ。タクシーの運転手にでもなれないかと古いつてをたどってみたのですが、なかなか……。この歳で再就職ということになりますと、やはり難しいようです。かといって年金がもらえるのは、まだ少し先の話ですし」


「……どうしてそんな」


 ようやく絞り出せた一言がそれだった。思わず声が震えてしまうのをおさえられなかった。その一言にオハラさんはいったん言葉を切り、話すのをやめた。そうしてしばらく間を置いてから、また訥々とつとつと話し始めた。


「そのへんですが、正直なところあたしにもよくわからないのです。久し振りにお帰りになられた旦那様から急に。落ち度はまあ、普段から身に覚えがありましたから、ろくろく申し開きをすることもできませんで」


「……」


「十年も勤めておりましたから、そのようなことになってしまいましたのは寂しい限りです。あたしとしては身体が動く限りご奉公させていただきたい気持ちでおったんですが」


「あいつは……どう言ってましたか?」


「いえ、何も。何しろ急だったもので、最後にご挨拶することすらかないませんでした。土曜の夜に荷物をまとめてお屋敷を出まして、もうそれっきりです」


「そんなばかな……そんな不当な解雇、許されないでしょう」


「許す、許さないは使用者の都合です。使用人は黙って従うしかありません。労組があるわけでもなし、いさかいなど起こしたところで時間の無駄だということくらいはわかっておりますから」


 何でもないことのようにオハラさんはそう言った。けれども俺はその理不尽さに納得できず、やり場のない怒りさえ覚えた。そんな俺をたしなめるようにオハラさんはふっと微笑むと、視線を車道に戻して「それが社会です」と言った。


「それが社会というものです。あなた様のように学問を積まれた方はまた違ってくるのでしょうけれども、あたしのような下々の者にとっては、そうした道理に合わない苦しみに耐えること……それこそが社会であり、現実なんです」


「……」


「それをあれこれ言ったところではじまりません。あたしはもうずっと前からそういうものとして受け容れておりましたし、こういうことになるのも……つまり暇をいただくことも、いつかあるかも知れないものと覚悟はしておりました。ですから、そのことにはもう諦めがついておるのです。ただ……ですが、あたしとしましては――」


 そこでオハラさんは言いにくそうに口ごもった。それで俺には、次に何の話題がくるかわかった。何も言わずオハラさんが話し始めるのを待った。


 明らかに荷物を載せすぎなダンプがけたたましい音を立てて通り過ぎていったあと、オハラさんはそれまでより静かな声でその話を切り出した。


「ただ一つだけ心残りなのはあの子の――お嬢様のことです」


「……」


「あたしが最後にお顔を見たのは土曜の夜です。どこで何をしていらしたのか、ずぶ濡れで帰ってくるなりお部屋におこもりになられて」


「……」


「あたしがお屋敷を出ましたのはそのすぐあとですから、それからお嬢様がどうなられたのかは存じておりません。……ですが、あのご様子からするとまたになってしまわれた。いや、あたしの勘ではあの頃よりも」


「……」


「確かなことはわかりませんが、あたしにはどうしてもそんなように思われてならんのです」


「……」


「あたしはもう何もお聞きする立場にありません。……いや、元々そんな立場にはありませんでした。あなた様にどうしろと言う権利もなければ、そのつもりもありません。そのあたりはいつか、車でお送りしたときにお話した通りです。ですが――」


「……」


「――ですが、人の心というものがそんなに丈夫でなく、簡単に壊れてしまうものだということは知っておいていただきたい。……あなた様には、それを知っておいていただきたかった」


 何の言葉も返せなかった。胸に深々と突き刺さったそれは、しばらく俺に息をすることすら許してくれなかった。初めて――今日この町に戻って初めて感じた確かな感情がそれだった。


 ……けれどもその感情は俺にとってあまりにも痛く、あまりにも苦しい。


「……どうすれば、いいんですかね」


「え?」


「……どうすればいいんでしょう。壊れてしまったものを元に戻すには」


「さあ……そのあたりはどんな偉いお医者様でもわからないんではないでしょうか」


「……」


「ですが、お嬢様に限って言えば――」


「あいつに……限って言えば?」


「いえ……その答えはきっと、あなた様の方がよくご存じでしょうから」


 そう言ってオハラさんはおもむろに立ちあがった。それからシャツの胸ポケットを指で探り、一枚の紙片を差し出した。……名刺だった。どうしていいかわからないまま、それでも俺は黙ってその名刺を受け取った。


「何かございましたら、どうかご連絡ください。どこかでまたお会いできますように」


 それだけ言って軽く頭を下げると、オハラさんは高架下の日陰を抜け、元来た駅の方へゆっくりと小さくなっていった。


 激しい陽射しの中にその姿が見えなくなってしまったあとも、俺は薄汚れた噴水のへりから腰をあげることができなかった。

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