062 招かれざる訪問者と終演(7)

 オハラさんと別れてしばらくしたあと、俺の重い足はまた駅前へと向かっていた。彼のあとを追ったわけではない。何の目的もなく、ただ何となくそうしたかっただけだ。


 ……だがあるいは、俺はもう一度オハラさんに会って、もっと厳しい言葉をかけてほしかったのかも知れない。俺がペーターの心につけた傷――その何分の一でもいいから同じ傷を自分の心にもそれをつけてほしい――そんな思いから、俺は知らないうちにオハラさんのあとを追いかけていたのかも知れない。


 歩きながら考えるのは、ただひたすらに彼女のことだった。そのことを考えるたびにしくしくと胸が痛んだ。


 もちろん、自分がしたことはわかっていたつもりだった。けれどもそれを彼の口から客観的に聞かされたことで、いっそう大きな罪の意識が改めて俺に覆い被さり、鋭い錐のように容赦なく胸に突き刺さる……。


 ペーターを打ちのめし、ぼろぼろに傷つけたもの。その原因が俺であることはわかっている――そんな確信に充ちた、オハラさんの口振りだった。具体的に何があったのかまではわからないのだろう。ただ引き金を引いたのが俺であること、それだけは、きっとわかっている。


 俺とあいつの関係をよく知っているオハラさんには、すべてが手に取るようにわかったのだ。ましてあの夜に小屋まで彼女を迎えにきて、クラクションも鳴らすことなくそのまま帰っていった彼には――


「……っ!」


 不意に、オハラさんの解雇とあの一件が関係あるのではないかという思いが稲妻のように走り抜けた。


 考えるまでもない、。いても立ってもいられず俺は駆け出し――だが少しも走らないうちにすぐ立ち止まった。


 彼を追いかけて何になる……謝って何になる。


 そんなのはただ、自分の心を慰めたいだけのお為ごかしだ。それはもう済んでしまったことで、あれこれ言ったところで何もはじまらない。それがわかっていたから、オハラさんはまず最初にその話をしたのだ。謝る必要などないと、無言で彼は俺にそう言ってくれたのだ……。


 ちょうど道ばたにあったベンチに腰かけ、大きく一つ溜息をついた。そしてまた頭は振り出しに――俺が向き合わなければならない少女のことに戻った。


 そう、とりもなおさず俺はそのためにここへ戻ってきたのだ。オハラさんの話を聞いたことで、今はそのことをはっきりと意識することができた。


 俺はあいつを舞台に立たせなければならない。


 なぜそうなのかはわからない……曖昧で不確かで、どうにもとらえどころがない。だがそうすることでしかあいつを取り戻せないというウルスラの言葉が、ここへきて妙に素直に納得できる――そんな自分がいた。


 それでも……それがわかってもなお、俺はそのベンチから腰をあげることができなかった。昨日の夜、あの迷路のような屋敷の奥に待ちかまえていた空虚な眼差し――あからさまな拒絶の意思をこめたその眼差しを思い出して、自然に足が竦んだ。


 撃たれるのは構わない。不法侵入者として撃ち殺される、そんなことは何でもない。けれどもあれほど明確な拒絶を俺に見せた以上、この先どうしたところであいつは俺に会うことさえしてくれない……そう考えていい。


「……」


 ……だがそこまで考えて、ふとその中にある矛盾に気づいた。


 本当に俺を拒絶するつもりなら、門を閉じていればいい。それが門も玄関も開け放しの屋敷の奥で待ちかまえて、俺にわざわざそれを見せたのはなぜだろう? 


 ……つまり、あいつはそれを俺に見せつけたかったのだ。決して許さないということを俺に見せつけ――それでおそらく、俺を精神的に苦しめたかったのだ。


 子供じみた話だが、あいつならありうる。……と言うより、そうした子供じみた思考と行動こそは、三年前に会った頃から欠片も変わらないあいつの本質そのものなのだ。


 けれども、その事実は俺にとって蜘蛛の糸だった。


 あいつが俺を傷つけ、苦しめようとしているのだとしたら、それは俺にとってわずかに残された糸口に他ならない。それはまだあいつが俺のことを意識し続けている証拠であるし、何よりになりうるからだ。


 どんなに手酷く苦しめられようとも、門戸を閉ざされてしまうよりましだ。それが開かれているうちは迷うことはない。俺は何度でもその門をくぐり、何度でも彼女の復讐につき合ってやればいい。


 それで俺の心は決まった。今日、この町に来て初めて目的に向かい動くことができる……そう思った。


 太陽はもう大きく西に傾き、淡いとき色に染まり始めていた。向かいのガラス窓に時計を見る――六時半だった。俺は勢いよくベンチから立ちあがると、ペーターの屋敷の方面へ向かうバスの停留所を探して、ぼんやりと鈍い熱のくぐもる黄昏の通りを駆け出した。


◇ ◇ ◇


 息せき切って飛び乗ったバスはがらがらで、俺の他に乗客の姿はなかった。汗を拭いながらそのバスに揺られるうち、にわかに空が暗くなってゆくのを窓外の景色に見た。雲は遠い雷鳴を従え、夕映えに染まりかけていた空を瞬く間に塗りつぶしてゆく。一雨来るかも知れない。そう思って降り立ったバス停から、また駆け足にペーターの屋敷へと急いだ。


 ――門は閉ざされていた。


 バス停を出てすぐ額を打った雨粒は、ほどなくしてしの突く雨となった。その雨の中をずぶ濡れになりながらここまで走ってきた俺の前に、黒い鋳鉄の格子が何も言わず立ち塞がっていた。雨霞の先に見る玄関にも、扉は閉まっている。濡れそぼつ濃く深い闇の中に、屋敷は来るものを寄せつけない冷徹な表情で目を閉じ、耳を塞いでいるように見えた。


 自分の理解が間違っていたことを知った。いや……それは最初から勝手な思いこみで、俺がそうであってほしいと願う希望のようなものだったのかも知れない。


 あいつは俺に何を見せたかったわけでもなかった。あるいは何かを見せたかったのだとしても、それはもう昨日の件で片づいた。だからもう俺の前にこの門が開かれることはない。……あいつが俺の前にその顔を見せてくれることはない。


 もうどうにもならない……何をしたところで結果は見えている。


 そう思いながらも俺は門の脇に、泣き濡れたチャイムのボタンを押した。激しい雨音の奥に、その音は聞こえない。血を吐くようなこの思いが彼女に届くことはない。それがわかっても、俺はもう一度ボタンを押した。三度までそのボタンを押して、そのままじっと返らない応えを待った。


 返事はなかった。重く湿った服がべったりと肌に貼りついているのを感じたが、そんなことはどうでもよかった。もし少しでも彼女が出てきてくれる可能性があるなら、この雨の中を一晩中待ち続けてもいい。ここで諦めてしまえば完全に糸が切れるのだ。あいつを舞台に立たせるため――壊れてしまったものを修復するための機会が永遠に失われる。それを思えば、待ち続けることなど何でもなかった。土砂降りの雨も、その中でみじめに立ち尽くす自分も……何も気にならなかった。


 けれども最後にもう一度チャイムのボタンを押して、反応がないことを確認したあと、俺はその場から立ち去ることにした。待つのが嫌になったわけでも、何かを諦めたわけでもない。ただ、「ああ、そうか」と思っただけだ。心の一番深い部分で、俺はたぶんそのことを受け容れた。


 もはや門は閉ざされ、俺の前に二度と開くことはない――そう悟ってしまえば、あとはもう帰る道しか残されていないのだ。


 動かなくなった心で踵を返しかけ、それでも未練がましく俺は門を振り返った。湿りきった闇のカンバスに彼女の顔……昨日、あの部屋で見せた感情を宿さない虚ろな瞳を思い描き、すぐに掻き消した。


 もういい……もう何もかもどうでもいい。


 そう思いながら首を戻そうとする俺の目に――閉ざされた門の先、降りしきる驟雨しゅううの中に、小さな黒い染みが動くのが見えた。


 最初、それが何かわからないまま漠然と眺めた。けれどもその染みが人の形をしていることに気づいた俺は、考えるより早く門に向き直り、鉄格子に張りついた。


 雨に冷えきった鋳鉄の間に見るその黒い染みは、確かに人影だった。そしてその人影が誰のものであるか――雨に遮られ、遠目に闇の中であっても、俺がその姿を見間違えるはずはない。


「ペーター!」


 それはペーターだった。


 雨のなか俺と同じように傘もささず立ち尽くすその人影は、間違いなく彼女のものだった。いつの間に出てきたのだろう、明かりのない玄関の前に立つその影に表情まではわからない。けれども思いがけず姿を見せてくれたというそれだけで俺は狂喜し、何も考えられないまま大声でその名前を呼び続けた。


「ペーター! ペーター!」


 呼びかけに彼女は応えなかった。声が届いていないのかも知れない。そう思い、雨の音に負けまいと必死で声を振り絞った。なり振り構わないその絶叫は、けれども無駄にはならなかった。


 小さな人影はやがてその顔をこちらに向けた。そしてわずかな拍のあとに、影は玄関から門に続くなだらかな坂をゆっくりした足取りで駆け下りてきた。


「……!」


 息を呑んで彼女を待った。黒い影が次第に大きく、彼女自身の姿を描き始めるのに時間はかからなかった。坂を下る勢いをそのままに、身体ごとぶつかるようにペーターは門にたどり着いた。手を伸ばせば届く俺の目の前にがしゃん、と重い音を立ててその手が鉄格子を掴むのを、夢見るような思いで俺は見つめた。


「はあ……はあ……」


 俯いて荒い息をつく彼女に、すぐには声がかけられなかった。


 呼びかけに応えてここまで来てくれたことで、一度は消えた希望の火が再び灯ったのは確かだった。けれども、この先はわからない。ペーターが何を思って俺のところへ来たのか……それは彼女が顔をあげ、その表情を見せてくれるまでわからない。こぶしを握りしめ、祈るような気持ちでそのときを待った。


 だから彼女が頭をあげこちらを見たとき、俺は安堵のあまりその場にへたりこみそうになった。


 俺に向けられたそれは、純真無垢な罪のない笑顔だった。二人きりでいるときによく見せた、今思えば俺が彼女の表情の中で一番好きな笑顔だった。その笑顔に、あの嵐の夜以来わだかまっていたものは綺麗に流れ去ったのだと俺は信じた。


 再会の言葉――ようやくまた彼女に巡り会えたこの瞬間に相応しい言葉を探して――だがそれが見つかるより、彼女の声がかかるのが早かった。


「だれですか?」


「え?」


「あなたは、だれですか?」


「――」


 無垢な笑顔のまま告げられたその言葉に、心が凍りついた。


 そんな俺に何を思ってか、ペーターはきょとんとした表情をつくり、小首を傾げた。――そこに至って、俺は今さらのように既視感を覚えた。これとよく似た場面を……いや、を俺は過去に経験している。


 あの嵐の夜に――俺が彼女を取り返しがつかないまでに傷つけ、永遠に損なってしまったあの忘れもしない夜に。


 何もかも、あの夜と同じだった。闇の中に降りしきる雨も、彼女の額に貼りつく濡れた髪の一筋さえも。――だが、それは演技ではなかった。彼女のそれが演技でないことが、はっきりと俺にはわかった。


 あの夜を繰り返して見せることで俺を苦しめ傷つける、そのための演技ではなかった。ペーターは――冷たい鉄格子の向かいに立つ少女は何の演技もしていない。これは演技ではなく、彼女はもう本当に俺のことを――


 言葉もなく彼女の腕があがり、自分の胸に硬いものが押し当てられるのを感じた。


 濡れたシャツを通して伝わってくるその冷たい感触が何であるか、視線を落とさなくてもわかった。俺は鉄格子の間から手を挿し入れ、引き金にかかる小さな指に自分のそれを添えた。


 彼女はもう笑ってはいなかった。少し驚いたようなあどけない顔で……不思議そうな目でじっと俺を見つめていた。俺は――自分でもどんな顔をしているかわからないままそんな彼女を見つめ返して、デリンジャーの引き金に添えた指をゆっくりと押しこんだ――


 ――ぱん、という音が響いた。


◇ ◇ ◇


 ――目の前にペーターの顔があった。


 息がかかるほどの間近に、少し驚いたような顔で不思議そうに俺を見つめる彼女の顔があった。


 だが、そこはもう門の前ではなかった。二人を隔てる鉄格子も、頬を伝い流れ落ちる雨も……ここにはなかった。


 両腕を俺の頭の横に突き、覆い被さるような姿勢でペーターは俺を見下ろしていた。その肩越しに破れた天井と、その破れ目からもれこんでくる乾いた月の光を見た。


 ――そこは『王の間』だった。


 『王の間』の寝台の上に……手を伸ばせば届く距離にペーターと向かい合っていた。それがわかったとき、俺の身体は動いていた。何も考えられないまま彼女にすがりつき、その身体を引き寄せ、もろともに寝台へ倒れこんだ。


「きゃ――」


 頭の上に小さな悲鳴を聞いた。


 俺はそれに構わず、どこへも逃すまいとその身体を抱き締めた。不用意に引き寄せたせいで俺の顔がちょうど彼女の腹あたりにくる不格好な抱擁だった。それでも俺はほとんど必死の思いで……自分が何をしているかもわからずに目の前の身体をかきいだいた。


 ペーターは逃げなかった。


 最初、わずかに身じろぎしただけで、そのあとは動こうとさえしなかった。土の匂いがする寝台にぎこちなく抱き合ったまま、しばらくの時が流れた。


 やがて俺の頭に、何か柔らかいものが触れた。その柔らかいものは優しく俺の頭を撫で、その髪に指を絡めてゆっくりとくしけずり始めた。


「――どうしたんですか?」


「……」


「何があったんですか? ハイジ」


 気遣うような声がかかった。顔は見えなくても彼女がどんな表情をしているかわかる、優しく慈しむような声だった。


 その声に俺は何も応えられず、顔をいっそう強く彼女の腹に押し当てた。自分の身体が震えているのがわかった。その震えが何のためのものか……そこまではわからなかった。


「どうして震えてるんですか?」


「……」


「寒いんですか? 寒いなら私の毛布もあげますよ?」


「……寒くない」


「なら、どうして震えてるんですか?」


「……てしまったから」


「え? なんですか?」


「大切な人を……取り返しがつかないほど傷つけてしまったから」


 こらえきれず涙が溢れた。溢れ出てすぐ、その涙は目を覆うドレスの生地に染み、どこへも流れ落ちることはない。


 もう気づかれているのはわかっていても俺は声を殺し、息を詰めて泣いていることを隠した。そんな俺の髪をゆっくりと掻き撫で、「よしよし」と小さな声でペーターは囁いた。


「よしよし」


「……っ!」


「なにも怖くありませんよ? よしよし」


「……」


「だからもう泣かないで。よしよし。ほら、よしよし――」


 それでもう、俺は抑えることができなくなった。


 彼女の身体にしがみつくようにしながら、全身を震わせ、声をあげて泣きじゃくった。


 ペーターはもう何も言わなかった。ただ優しく俺の頭を撫で、髪を梳っていた。干涸らびた土の匂いがするその懐に――柔らかい腹に顔を押し当て、俺はただ子供のようにいつまでもいつまでも泣き続けた。

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