063 劇中劇(1)

「――先輩?」


「ん? おお」


「奇遇ですね」


「何してるんだ? こんなとこで」


「先輩こそ何してるんですか? こんなとこで」


 ――夢を見ている。高校の頃の夢だ。


 あいつが演劇部に入ってまだ間もない日、梅雨明けを待つばかりのよく晴れた日曜の午後。所在なくぶらついていた街角で思いがけず出会った、そのときのこと。


「いい天気ですね」


「ああ。けどちょっと暑すぎだ」


「夏が来たってことですよ」


「夏?」


「はい。もう夏です」


 あいつが最初の『発作』を起こすよりもずっと前のこと。


 俺にとって彼女が練習熱心な期待の新人で、同時にまだ気になる後輩だった頃のこと。


 初めて学校の外で会い、初めて二人だけで話した日のこと。


 蒸し暑い日のこと。


 朝方まで降っていた雨の染みるアスファルトから立ちこめる湿気の中を、行くあてもなく二人で歩き続けた日のこと。


「あ、猫」


「どこ?」


「もういなくなっちゃいました」


「どんな猫だった?」


「可愛い黒猫でした」


「いなくなってよかったじゃないか、なら」


「? どうしてですか?」


「不幸になるって言うだろ。黒猫に横切られたら」


「迷信ですよ、そんなの。先輩はそういうの気にする方ですか?」


「いや、まあ別にそういうわけでもないけど」


 町はずれの通りに人の影はまばらだった。


 長雨の憂鬱が抜けきらない町の景色を眺めながら、ときどき思い出したように俺たちは話をした。


 静かで穏やかな会話だった。


 午後の町にたゆたう大気に流されるように、どこへ向かっているのかもわからないままゆっくり、ゆっくりと俺たちは歩き続けた。


「そういえば、うちどこだっけ?」


「私のですか? 結構近くですよ、ここからだと」


「兄弟とかはいるの?」


「いません」


「なら三人家族か」


「いえ、二人です」


「二人?」


「はい。母親がいないんですよ、うち


「……」


 凪いだ水面に初めて風が立ったのはそのときだった。


 気安い俺の質問に、そこまでと同じ調子で何でもないことのようにあいつはそう返した。だが俺の方では口に出してしまった無神経な質問に湧きあがる後悔を抑えられなかった。答えのきた質問を取り消すこともできず、かといって他にどんな言葉を返すこともできない。


 そんな俺の気持ちを慮るように、その顔に柔和な笑みを浮かべて優しい声で「いいんですよ」と彼女は言った。


「え?」


「いいんです。聞かれなくても、そのうち私の方から話すつもりでいましたから」


「……」


「先輩にはちゃんと話しときたいって思ってました。だから、いいんです」


「そっか」


「けど、先輩にだけです」


「え?」


「部活の人に家族のこと話したの、これが初めてです。私がこういうはなしするのは……こういうはなししたいのは、先輩にだけです」


 さっきまでと何も変わらない調子であいつはそう言い、返事を求めるようにじっと上目遣いに俺を見た。しばらくの間があって、「そっか」と一言だけ俺は返した。


 それで彼女は俺を見つめるのをやめ、おもむろにまた歩き始めた。ほんの少し遅れて、俺も同じようにした。


 そして俺たちは眩しい陽射しの中に、どこへ向かうともない散策を再開した。


 入道雲があがっていた。魔法のような夏の午後だった。


 ……たぶんその通りだったのだと思う。実際に魔法にかけられていたのだ。三年以上経った今だからわかる。俺とあいつにとって、これが最初で最後の機会だった。


 俺たちがそうなるための――どこにでもあるような道を二人で手を繋ぎ歩いてゆくための。


 そこからバス停に着くまで何を話したのか、よく覚えていない。ただ何でもないような会話を続けながら、それがさっきまでと同じものではないことはわかった。


 夏の訪れをあるがままに受け容れようとする町に、あいつは言葉を待っていた。そして俺は――たぶん心のどこかでその言葉をかけたがっていた。


 けれども、俺はそうしなかった。あいつがその言葉を聞くことはなかった。


 バス停に着き、俺はバスに乗って帰ることを告げた。バスが来るまで一緒に待っていると彼女は言った。そうして俺たちは雨よけとベンチだけのバス停に、二人並んで座ってバスが到着するのを待った。


「ちょっとわかりましたよ、この前の話」


「ん?」


「台本が一緒でも、同じ舞台は二度とできないって」


「ああ、その話か」


「それってつまり、演技はやり直せないってことなんですね」


「そういうことだ」


「けど、それ演劇だけのことじゃないですよね、きっと」


「え?」


 そこでバスが来て扉が開き、あいつは乗り込んだ。それきり俺たちは別れた。


 あいつが何を思って最後にあんなことを言ったのかわからない。だが結局、すべてはその短いやりとりの通りになった。


 その時間をやり直すことはできなかった。俺たちの間に同じ魔法がかけられることは、もう二度となかった。


 この日から俺たちはまるで記憶をなぞるように同じやりとり――魔法のきれたイミテーションのやりとりを飽きるほど繰り返すことになる。


 やがてそのやりとりは形式化し、ひずみ、ばらばらに壊れ――最後にもう一度、取り返しがつかないまでに壊れることになる。


 すべてはこのときに始まり、このときに終わった。このときから俺たちは二人で手を繋いで歩いてゆく道の代わりに、あの嵐の夜に向け真っ直ぐに敷かれたレールの上に……。


 それがわかっていてもこの日をやり直すことはできない。


 たとえそれが記憶をなぞる夢の中のやりとりだとわかっていても。それはたった一度きりのやりなおしのきかない出来事であり、なるべくしてなったことなのだ。


 それをやり直すことなどできない、後悔する気持ちもありはしない。もう一度この日に戻されるとしても俺は――そしてあいつもきっと、このときと同じやりとりを同じように繰り返す。


 ――それでも、心は考える。


 もし俺があのとき、あいつに別の言葉を返していたら? バス停に向かう道の間に、もし何か違う言葉をかけていたら? 


 結局、繋がれることのなかった手。その互いの手の距離を縮めるために必要だった言葉。あの魔法をかけられた短い時間の中で、俺がもしその言葉をあいつに伝えることができていたなら?


 だが、俺はやはりあの日をそのままに繰り返す。


 昼下がりの町にあいつを一人残したバス停を、バスの窓から手も振らずに見送ってそのときを終える。彼女の言葉の中に隠されたものに気づかず、あるいは気づかないふりをして。そのくせ心のどこかで未来を期待して。


 この先、俺とあいつがこんな日を何度も繰り返してゆく未来を。


 そうすることでいずれ俺たちがどこにでもあるような道を二人で手を繋ぎ歩いてゆく、そんな未来を――

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