064 劇中劇(2)

「ん……」


 瞼をおこしてすぐ、何か白い布のようなものが目に入った。


 間近に見る表面に細かい砂粒のついた、ふわふわと柔らかい感じのする木綿布……。それがただの布ではないこと、そして自分の頭の裏に回された細い腕に気づくのが同時だった。


 反射的に離れようとする――だがまるでそれを予期していたかのように腕は意外な力で逆に俺の頭を抱き寄せた。


「……」


 ――ペーターの胸にいだかれて眠っていた。


 その事実を認めた後、昨日の夜の出来事を思い出すまでに時間はかからなかった。


 ただそれを思い出しても、俺は不思議と気恥ずかしさを感じなかった。彼女がもう目を覚ましているのか、それとも眠ったままこうしているのか、それさえも気にならなかった。


 乾いた土の臭いに混じるくぐもった体臭を嗅ぎながら、しばらくそのままでいた。穏やかに上下する柔らかい隆起を額に感じながら、規則的に刻まれる心臓の音を頭の裏側でじかに聞きながら。


 ……できればこのままもう一度眠りに落ちたいと思った。けれどもはっきりと覚醒してしまった意識に、瞼をとじてみても眠りはもう俺の中に戻ってはこない。


 ――と、上側から俺の頭を抱いていた腕が離れた。


 そこで俺は初めて身体を起こし、頭だけで後ろを振り返った。……ペーターは眠っていた。あどけなく目のあたりをこすっていた手はやがて元の位置に戻り、そこにあるはずの俺の頭を探して――だがそれを見つけることができずに寝台の上に落ちた。


 かすかな寝息が聞こえる。両手を前に横臥するその姿は、寝ころんだままをする子供のようだ。どうやら本当に寝ているらしい。もっともここで彼女が寝たふりをしなければならない理由などどこにもない……俺ならまだしも。


「……っ!」


 左手首に痛みが走った。袖をめくりあげてみる……小さな歯形がくっきりとその痕を残している。昨日の一件でペーターにつけられたものだ。例の軟膏が効いたのか薄皮が張り、少なくとも膿んだりはしていないようだ。それだけ確認して俺は袖を戻し、窓の外に目を向けた。


 陽はもうだいぶ高かった。壁の破れ目から流れこむ光の洪水を眺めながら、ふと喉の渇きを覚えた。部屋にあるペットボトルはもうすべて空だ。けれども今日の分は、抜かりなくちゃんと昨日のうちに仕掛けてある。


 ペーターに目を戻した。しどけなく開かれた唇を眺め、はだけて隅に追いやられていた毛布をその身体にかけた。それからもう一度窓の外を見て、中庭に水を取りに行くために俺は寝台を降りた。


◇ ◇ ◇


「……ん?」


 生温い水とカロメを手に『王の間』に戻ると、ペーターは寝台の上に身体を起こしていた。入ってくる俺に気づくと彼女はまるで人混みの中に恋人を見つけた少女のように顔を綻ばせた。


 ……もうその手には乗らない。こんな朝っぱらから振り回されるのはこりごりだ。


 そう思い、俺はその笑顔を無視して持ってきた水とカロメを寝台の上に並べた。


「さて……と」


 それでも一言めをかけるのはかなりの勇気が必要だった。昨日の夜のいきさつを思うとまともに顔を見ることもできない。


 ……だがどうあれ、ここで逃げるわけにはいかない。勇気を奮い起こし、せめて声が震えないように気をつけながら彼女に顔を向け、言った。


「食べろよ」


「……」


「腹減ってるだろ? 昨日の夜から何も食べてないし」


 昨日の夜から――そのキーワードを口にしてしまってから、避けて通れた道に自分があえて踏みこんでしまったことに気づいた。


 思わず目を逸らし、歯噛みする思いで失言を悔やんだ。自分の顔に血がのぼってゆくのがはっきりとわかる。このままではまずい。


 それに……そうだ。相手はたかがペーターなのだ。そう思い、今度こそなけなしの勇気を振り絞ってもう一度彼女を見た。


「何か言ったらどうだ?」


「……」


「言えよ。言いたいことがあるなら」


 語尾が震えるのを情けなく思いながら、どうにかそれだけ言った。もうあとがないぎりぎりの一言だ。


 そんな俺にペーターは何を思ってか、不思議そうな表情を浮かべ小首を傾げた。何を言っているのか理解できない。そう言わんばかりの顔と仕草に、俺の方ではいい意味で拍子抜けを覚えた。


「……何か俺、変なこと言ったか?」


「……」


「まあ喋らなくてもいいけど。喋りたくないんだったら」


 そこまで言ってもペーターからの返事はなかった。こちらの言っていることを意に介さない様子で、ただ妙に親しげな笑顔を返してくるだけだ。


 ……ふと、そういえば昨日もこんなことがあったのを思い出した。俺たちを捕らえにきた軍隊の二人組。それをやり過ごしたあと、今と同じようにこいつは口を利くことができない演技をしていた……。


「もう喋ってもいいんだぞ?」


「……」


「怖いやつらは来ないんだから、もう」


「……?」


 試しにあのときと同じ言葉をかけてみても、やはりペーターは何も言わなかった。また小さく首を傾け、不思議そうな表情を浮かべるだけだ。


 ……あのときの彼女とは別人なのかも知れない。だがいずれにしてもこのペーターはではなさそうだ。そのことを理解して内心に安堵を覚え、もう構わず食事をとろうとまだほのかに熱を残すペットボトルを手に取った。


 俺がカロメの封を切り食べ始めると、ペーターは無言のままそれに倣った。喉もだいぶ渇いていたのだろう。彼女のために用意したもう一本のペットボトルには手をつけず、俺の飲みかけをラッパでごくごくといく。


 ……今さらそんなことを気にする間柄ではないが、せっかく用意したのだから自分の分を飲んでくれればいい。そう思ってそれを口にしかけ――言う前から結果が見える気がしてそうするのをやめた。


 そうして食事を続けるうちに、目の前にいる彼女が明らかにではないことに気づいた。というよりそれは、昨日まで代わるがわる顔を覗かせてきたどのペーターとも違っていた。


 差し向かいでカロメを囓りながら、彼女の目はずっと俺を見ていた。その顔に浮かぶ表情に昨日までの狂態は影もなく、ただ混じりけのない親愛の色だけがあった。


「何だよ……さっきから」


「……」


「じろじろ見るなよ。だろ」


「……」


 妙に落ち着かない思いでそう言っても、相変わらずペーターからの返事はない。カロメを頬張った口を動かしながら無防備な笑顔を返してくるだけだ。


 そんな反応に俺の方ではますます落ち着かない気持ちになってくる。また厄介な新顔が出てきた……ある意味、昨日までのあいつらよりよほど厄介だ。そう思って目を逸らし、余計なことは考えず目の前の食事に専念することにした。


 差し向かいで押し黙ったままの奇妙な食事を終え、散らかった寝台の上を簡単に片づけた。それで、俺にはもうやるべきことがなくなってしまった。


 空になったペットボトルに目を遣る……次の水はもう中庭に仕掛けてある。部屋を見まわす……土塊つちくれの壁以外何もない。食事はたったいま終えたばかりだ。そうなってみると、本当に何もやるべきことがない。


「……」


 食事のときのまま寝台に脚を崩すペーターを見やり、それからまた向かいの土壁に目を戻した。


 ……会話で紛らわそうにも話のできる相手はいない。本当に何もやることがない。


 そもそも俺はなぜこんなところにいるのだろう? ここへ来てもう何度繰り返したかわからない疑問が、まるで初めてのそれのように素直に浮かんでくるのを感じた。


「……」


 本当に、なぜ俺はこんなところにいるのだろう。素朴な気持ちで改めてそう思った。


 もう芝居も何もない。昨日のあれで俺は――俺たちは舞台を降りた。この舞台で俺たちが演じるべき役はもうない。だとしたら、なぜ俺は――俺たちは今もってこんな何もない場所に取り残されているのだろう?


 いったい俺は何をすればいいのだろう。もう一度そう思って、自分には果たすべき役割があったことを思い出した。目の前で微笑む少女――ペーターをちゃんとこの舞台に立たせるという役割。ウルスラから与えられたその役割について、考えてみれば俺はここまで成果らしい成果をあげられていない。


 そう……その役割について俺はここまでまったく成果をあげられていない。そればかりかもううまくいかないものと決めつけ、半分以上投げてしまっているふしさえある。


 もちろん俺なりに真摯に取り組んではきた。あいつの居場所をつきとめ、その前に立つまではできた。……だが、そこまでだった。あいつを前にして俺は何もできなかった。彼女の姿を見るだけで何も言えず、まして舞台に連れ出すことなど思いも寄らなかった。


 の顛末を思い返して、心がさらに沈んでゆくのを感じた。


 ……わずかに進展はあった。邸宅の奥で完全に俺を拒絶していた彼女が、昨日は門まで来て声をかけてくれた。せめてポジティブにそう思いこもうとして――思いこむことができないほど状況は絶望的だ。


 まだ乾かない傷をえぐるようにすげない態度を見せつける、そんなあいつに対して俺は苛立ちを覚えることすらできない。


 心はただ申し訳なさで軋みをあげている。もし許してもらえるなら何でもする……だがその許しを乞う機会さえあいつは俺に与えてくれない。


 生温い雨の降りしきる門の前。固く閉ざされた鉄格子の向こうに見た彼女の顔を思い浮かべる。何もかも許して受け容れるようなあどけない笑顔。その笑顔から無邪気に告げられた、銃弾よりもあからさまな拒絶の宣言。


 それを思うだけで俺の心は挫けそうになる。もう何もできないこと……何もさせてはもらえないことに、心臓がゆっくりとその動きを止めてしまいそうになる――


「……わ!」


 そんなことを思いながら隣に目をやり、間近に迫っていた顔に思わずのけぞった。


 ほとんど触れるか触れないかの距離、その場所にペーターの顔があった。驚いてうまく反応できないでいる俺に彼女は姿勢を変えないまま、なぜだろう、俺と同じように驚いたような表情をつくった。


「……何だよいったい」


「……」


「近すぎるだろ。ちょっとは――」


 俺が最後まで言い切る前にペーターは驚いた表情を消し、さっきまでの親密な笑みを浮かべた。


 その笑顔に、不覚にも心臓が跳ねるのを感じた。


 さっきまでのように、彼女からは一言もなかった。ただ無防備で親しみを隠さない、吸いこまれるような笑顔だけがあった。


 刹那、胸を衝き湧き起こる感情があった。彼女を愛しいと思う気持ちが、ほとんど一瞬で心を埋め尽くしてゆくのを感じた。


 そんな俺を前にペーターはもう一度、それまでよりいっそう優しく穏やかに微笑んでみせた。その笑顔に俺はもう抗うことができず、あぐらをかいたまま降参するように額を彼女の胸に置いた。


 額を押し当ててすぐ、彼女の腕が頭の裏にまわるのがわかった。そのまま抱き寄せるでもなく、ペーターの手はゆっくりと俺の髪を掻き撫でた。ゆっくりと、ゆっくりと。細い指が髪の間を通るたびに、温かい気持ちが血に溶けて身体の隅々まで広がっていった。


 小さく刻まれる心臓の音を額に聞いた。そうして初めて、自分たちがちょうど今朝寝覚めたときと同じ格好で抱き合っていることに気づいた。


 ペーターは何も言わなかった。ただいつまでも慈しむように俺の髪をくしけずり、掻き撫でた。脚を組みこうべをたれた姿勢で身を任せながら、涙が出そうなほど膨れあがった想いの中に俺はどうすることもできなかった。


 ひたすらに彼女が愛しかった。いつまでもこのままでいたかった。


 そんな俺の想いに背いて彼女の手が俺の髪から離れたとき、俺は祈るような気持ちで頭をおこした。


「……!」


 頭をあげたそこには、ペーターの唇が迫っていた。唇が唇に触れようとする寸前、さっきと同じように俺は思わず頭を引いた。


 そんな俺を見てペーターもまた、さっきと同じように驚いたような表情を浮かべる。そうしてほどなく、その驚いた表情を消して飾りのない穏やかな笑顔に戻る。


 それでもう、俺は何も考えることができなくなった。


 寝台についていた右腕をペーターの肩にまわしてその身体を引き寄せ、少しだけ頭を傾けて自分から彼女に唇を近づけた――

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