065 劇中劇(3)

 ――異様な光景の中にいた。


 壁も天井もない空間に大小さまざまな歯車が浮かんでいる。無数の歯車は互いに噛み合い、立体的なジグソーパズルのように所々で高く、あるいは低い巨大な構造体を形づくっている。どの歯車も動いていない、その回転は止まっている。だがもしひとつの歯車が回り始めたのならば、この空間に存在するすべての歯車がいちどきに連動して回り出す……何の根拠もなくぼんやりとそんなことを思った。


「……え?」


 そこで初めて、その異様な空間に立ち尽くす自分自身に気づいた。周囲を見まわしてみる……物言わぬ歯車の群れの他に何もない。乾ききった土塊の壁も、砂まみれの寝台もここにはない。その寝台の上で唇を重ねていたはずの少女は、もうどこにもいない。


「そう……か」


 そうして俺は、自分がペーターと口づけを交わしたこと――それがふたつの世界の壁を飛び越えるためのトリガーであったことを思い出した。まったくそれと意識することなく、俺はそのトリガーを引いてしまったのだ。


 そう考えればいきなりが起こったことの説明はつく。けれども俺が立つこの場所は、どう見ても俺が元いたあの町のどこかではない……。


「ん?」


 と、視界の端に白いものが目に入った。どうやら人影のようだ。


 そう思っているうちに、遙か遠方に小さかったその人影はまるで地面の上を滑るように異常な速度で近づいてきた。


 反射的に逃げようと足を動かしかけた。だがほとんど一瞬で表情がわかるまでに接近したその人影に、俺は直前でそうするのをやめた。


「……やあ」


 目の前に現れたのはウルスラだった。……あるいはクララか、もう一人の姉の方かも知れない。けれども何となく、それはあのとき言葉を交わしたウルスラである気がした。そう思い、俺の前に立つなり深々と頭をさげる彼女に、わずかな冒険の意味もこめて俺はその名前を告げた。


「ウルスラだよね?」


 そんな俺の言葉に彼女はきょとんとした顔になり、だがすぐにっこりと微笑んで「そうです」と回答した。


「今度はお間違えになりませんでしたね」


「ああ。もうちゃんと覚えたから」


「本当ですか? では次にお間違えになったらどうします?」


「何でも言うこと聞くよ。どんなお仕置きでも」


 言い方がおかしかったのか、俺の返事にウルスラはくすくすと笑った。つられて俺も少しだけ笑った。だがそうしている間も、頭の中はひとつのことでいっぱいだった。


 だからウルスラが笑いやんで顔をあげるのと同時に、俺は思いきってその質問を口にした。


「ここは?」


「イドです」


「……イド?」


「はい。あたしたちはそう呼んでおります、ここを」


「そのイドっていうのは――」


 聞き慣れない単語を問い直そうとして、けれども真剣な目でじっとこちらを見るウルスラに途中で質問を止めた。


 端整な顔に物言いたげな表情を張りつけたまま、やがてよく通る小さな声で「お聞き届けいただけなかったようですね」と彼女は言った。


「え?」


「この前にお会いしたとき申し上げた忠告です。へは丸一日以上おいでにならないようにという忠告を、貴方はお聞き届けにならなかった」


「あ……」


 真剣な表情の中に険しいものを滲ませるウルスラを前に、俺は今さらのようにその忠告を思い出した。


 いや……正確には思い出させられた。あの中庭で告げられたその忠告を、俺は最初のうちこそ意識していたが、そのうち完全に頭から追いやっていた。


 『心からの忠告です』と、あのときウルスラはそう言っていた。その忠告をあっさりと無視されたのだから、彼女がそんな顔で俺を責めるのも無理はない……。


「ごめん……せっかく教えてくれたのに」


「お謝りになることなどありません。そんなお顔をなさらないでください」


「けど……」


「咎めてなどおりません。この前も申し上げました。あたしはいついかなるときも貴方の味方です」


「それは……どうして?」


 俺のその問いにウルスラは小さく頭を振って答えなかった。その代わりにまた真摯な目で俺を見据え、鸚鵡返しのように「どうしてですか?」と逆に問いかけてきた。


「え?」


「どうしてまたこちらへいらっしゃったのですか?」


「それは――」


 ウルスラに提案されたこの演劇における俺の役割、あいつをちゃんと舞台に立たせるという役目を果たすため。そう言いかけて……その目的がもうほとんど見失われていることを思った。


 当の本人は頑なに俺との関係を拒否し、そもそも彼女を立たせるべき舞台は流れてしまってどこにもない。打開の糸口は見えない。何をどうすればいいのか見当もつかない。


 それが痛いほどよくわかっていながら忠告を無視してこちらに足を運ぶ……冷静に考えれば俺のやっていることは滅茶苦茶だ。今回のそれが偶発的な原因によるものだということを差し引いても、自分の行動にきちんとした理由をつけることはできない。


「どうしてだろ……よくわからない」


「……」


「自分でもよくわからなくなってきた。何のためにこっちに来てるのか」


「あの方のためではないのですか?」


「え?」


「あの方をちゃんと舞台に立たせる、そのために貴方はこちらにいらっしゃっているのではないのですか?」


「もちろん、それは考えてる。けど……色々と頑張ってはみたけど手詰まりなんだ。あいつは俺が何言っても聞いてくれないし。第一、あいつを立たせたくても舞台はもう流れちゃったみたいだし」


 力なくそう言う俺に、ウルスラはまた小さく頭を振った。そうして俺に向き直り、決然とした声で一言「流れてなどおりません」と告げた。


「けど、俺の聞いた限りじゃ流れたって……」


「それは日曜に計画されていた舞台の話です」


「それは……その通りだ」


「つまり、の話に過ぎません。日曜にあのホールで催されることになっていた舞台は流れました。けれどもそのはまだ生きています」


「……」


「貴方がその舞台を諦めない限り、どこでどんな形であってもその舞台はできます。たとえそれが当初思い描いていたものから離れても、その舞台に立つ役者の顔ぶれが変わってしまっても。それがハイジさんたちの劇団の信条とうかがっていたのですが、違いますか?」


「違わない。その通りだ」


 頭をハンマーで殴られた思いだった。異常な状況続きだったとはいえ、そんな当たり前のことさえ俺は忘れていた。


 ……そう、まったくその通りだ。俺たちがやろうとしていた舞台はまだ生きている。どこでどんな形であっても俺たちはその舞台をやれる。それが即興劇団ヒステリカの信条であって、その存在証明アイデンティティなのだ。


 たとえそれが当初思い描いていたものから離れても、その舞台に立つ役者の顔ぶれが変わってしまっても。


 だが、けれども……。


「舞台についてはそうだ。まったくウルスラの言う通りだ」


「はい」


「ただ、今のあいつが俺と一緒の舞台に立ってくれるとはとても思えない」


「……」


「俺なりに頑張ってはみたけど、どうやら駄目みたいだ。舞台に立たせようにも、まともに口も聞いちゃくれない。俺のことはもう忘れたいし顔も見たくない、そういう感じなんだ」


「違います」


「え?」


「その認識は間違っています。あの方は必ずしもハイジさんのことを、そのように冷たく考えているわけではありません」


 確信に充ちたウルスラの言葉に二の句が継げなかった。まるで俺とあいつの間にあったすべてのやりとりを見てきたような言い方に反発を覚えながらも、なぜかそれを口に出すことができなかった。


 何も言えないでいる俺の前でウルスラは床に視線を落とし、それからもう一度真摯な眼差しをこちらに向けた。


「現在、あの方の個性はふたつに分離しています」


「え……?」


「表と裏に、と言い換えてもいいでしょう。あの砂漠の城における個性が表、これから貴方が向かおうとしている町での個性が裏。そのふたつの個性がそれぞれ分離した状態で固定されつつあります」


「……」


「表ではどこまでも親密に、裏ではどこまでも辛辣に。ふたつの個性がまったく逆の態度でそれぞれ貴方に接している。そしてその傾向は時を追うごとに強くなってきている。そうではありませんか?」


「……」


 またしても言葉が出なかった。だが、今度は反発を覚えたわけではない。


 逆にそのウルスラの話には頷かざるをえないところがあった。今朝、あいつが俺に見せていた態度……昨日の閉ざされた門の向こうでのそれ。そのふたつを比べてみれば、ウルスラの言っていることには妙に説得力がある。


 確かにあちらとこちらとであいつはまったく逆の、ほとんど別人格といっていい態度で俺に接しているように思える。けれども、それはいったい――


「ここにひとつの選択肢があります」


「え?」


「表と裏でそれぞれに個性が分離した状態。あの方のそうした状態を、もし貴方がとするなら、この先の話は必要ありません」


「……」


「ただその場合、もう貴方はこちらに来るべきでは……いいえ、決して来てはなりません。あの城であの方と過ごす時間を大切になさってください。そして、こちらにいるあの方のことはお忘れになってください」


「……」


「けれどもあの方のそうした状態を、好ましくないと貴方が判断されるのであれば、その状態を打開するためにひとつの案をお聞かせします」


「……」


「成功の確証はありません。むしろひどくが悪いと言っていいでしょう。時間も限られています。先だっての忠告は撤回いたしません」


「……」


「本来ならこれ以上一分一秒たりとも貴方はこちらにいらっしゃるべきではない。それは本当に危険な行為なのです。貴方ばかりでなく、こうして申し上げているあたしにとっても」


「なら……どうして」


 ようやく言葉にできたその質問にウルスラは答えなかった。その代わりにそれまで以上に真剣な目で俺を見つめ、張りつめた声で「ご決断ください」と言った。


「……」


「時間も押しています。あの方の現在の状態を打開するための案をお聞きになるかならないか、ご決断を」


「聞かせてほしい」


 即答だった。


 それについては考えるまでもなかった。あいつにとって今の状況が好ましいわけがない。何か方法があるというのならば聞かない手はない。


 それにおそらく、ウルスラはその方法を告げるために彼女の言う危険を冒してまで来てくれたのだ。そんなウルスラの気持ちに応えるためにも、ここで敵前逃亡することはどうあってもできない。


 間髪を入れず返事を返した俺に、ウルスラはしばらく唇を閉ざした。いったん目を伏せ、何か考えこむような表情をつくった。そうして小さくひとつ溜息をつき、思い切るように頭をあげ、俺を見た。


「先ほども申し上げましたが、こちらでの時間は限られております」


「ああ」


「闇雲にあの方を追いかけるだけでは何の進展もありません。強引にでも物語を先に進ませるためのアクションが必要です。そしてそれは、充分に計算されたものでなければなりません」


「わかるよ」


「ところでハイジさんは女の子についてお詳しいですか?」


「……は?」


「本心では相手を思いながら、それを素直に表に出せないでいる。そのような女の子をうまく振り向かせるための手管というものをご存じですか?」


 突然、脈絡のない方向へずれた会話に、しばらく返事を返すことができなかった。


 だが真面目な顔のままじっとこちらを見続けるウルスラを前に、やがて俺は時間遅れの反射のように頭に思い浮かんだままを口にした。


「いや……あいにく俺そういうのはさっぱり」


「それでは、あたしにすべて任せてください」


「……」


「今からこの場所を出て、あの町へと向かいます。そこで貴方とあたしは、その場限りの演技を行います」


「演技?」


「はい、演技です。脚本のない劇、言うなれば即興劇です」


「……! それはどんな?」


「詳しく説明している時間はありません。あたしに演技を合わせてください。それとも、難しいですか?」


「え?」


「詳しい説明がなければ、そうした演技をすることはできませんか?」


 そう言ってウルスラは口元に挑発的な笑みを浮かべた。


「やってやるよ」


 俺は言下に答えた。同時にふつふつと煮えたぎってくるものがあった。こんな提案をされて、こんな顔で挑発されて――それで熱くならないようなら最初から即興劇などやっていない。


「そっちこそ大丈夫なのか?」


「はい、大丈夫です」


「わかった。ならウルスラにぜんぶ任せた」


「ありがとうございます。なら早速始めましょう――」


 にっこりと笑ってそう言い、ウルスラは振り返った。そのままドアノブをひねるような仕草をする……と、それまでまったく何もなかった場所に扉が開いた。


 扉の向こうには何もない、墨を充たしたような漆黒の闇だけが広がっている。その闇の中へ、ウルスラは早くも身体半分をのみこませようとしている。


「ちょっと待って」


「……? 何でしょう?」


 思わず声をかける俺に、訝しそうな顔でウルスラは振り返った。自分でもなぜ声をかけたのかわからなかった。だが頭だけ振り向いた彼女を見て、その理由に思いあたった。


 こちらに向き直るウルスラに歩み寄り、その前に立った。そして右手の親指に人差指をつがえ、それを彼女の額に向けて突き出した。


「知ってる? これ」


「いえ……何でしょうか」


俺たちヒステリカの儀式。演技に入る前の」


「おでこを……弾くのですか?」


「そう、お互いに」


「……」


「ウルスラは俺のを頼む。せーので一緒に」


 それだけ説明すると、ウルスラは訝しそうな表情から笑顔に変わった。さっきの挑発的な笑みとは違う、どこか満足そうな笑顔だ。その笑顔のまま彼女は腕を伸ばし、俺の額の前に指をつがえた。


「いくぞ。せーの――」


 掛け声を合図にお互いの額を弾き合った。


 儀式の意味を理解してくれたのだろう、ウルスラはそのまま何も言わず扉をくぐった。


 エッシャーの騙し絵よろしく虚空に開かれた扉。その先にはあらゆる存在を否定する漆黒の闇。ウルスラの呑みこまれたそこ――どこへ繋がっているかもわからないそこへ、何の疑問も恐怖もなく、まるで自分の家に帰るような気持ちで俺は足を踏み入れた。

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