066 劇中劇(4)
「……さま」
――そうして気がついたとき、俺はごく浅い眠りの中にいた。ぼんやりとした意識は、眠りから覚めようとして覚めきらないでいるそれのようだ。
……まだ少し寝足りない、もうしばらくこの眠りの中にいたい。そんな俺の意識の中に、さっきから無闇に侵入してくる声がある……正直、うるさい。
「……いさま……兄さま」
……まだ起きたくない、もう少し寝かせてほしい。微睡みの中にそう呟く俺を責め立てるかのように声はなおもその
「もう! いい加減になさってください!」
ひときわ大きな声と共に引っ張られるような感覚があり、それでようやく俺は目を覚ました。
まだはっきりしない視界に声のした方を見る。俺から引き剥がしたものと見えるブランケットを手に怒り顔の少女が仁王立ちしている。ウルスラだった。着物はいつものそれ……その上にピンクの可愛らしいエプロンをしている。
……何がどうなっているのだろう。状況が把握できないでいる俺を呆れたような目で眺め、手の中でブランケットを折り畳みながらウルスラは続けた。
「まったくだらしのないお兄さま。もうこんな時間だというのに、目が腐りますよ」
「……」
「さあ、寝惚けてないで早くお顔を洗ってきてください。せっかくの朝食が冷めてしまいますから」
そう言ってウルスラは畳んだブランケットを寝台に置き、部屋を出て階段をおりていった。
まだよく働かない頭で周りを見まわして、今いるそこが自分の部屋であることを知った。かぐわしい匂いに首をのばす――テーブルには食事の準備が調っているようだ。寝台の上に欠伸しながら大きく背伸びをしたあと、とりあえず彼女の言いつけ通り顔を洗ってくるために寝台を立った。
顔を洗い戻ると、ウルスラはすでに食卓についていた。部屋に入ってくる俺をやれやれといった表情で出迎え、そのまま着席を促すように向かいの席に視線を移した。
「お寝坊さんは治りましたか?」
「うん……まあ」
「それだけですか?」
「え?」
「毎日世話をかけている妹に、何か一言くらいないんですか?」
「ああ……いつも起こしてくれてありがと」
「いいですか? お兄さまのために申し上げますが、そういうのを言わされて言うのでは意味ないんですからね」
「……はい」
「ご自分で気づいて言うのでないと、女心には響きませんから。お兄さまの今後のためにちゃんと覚えておいて損はありません」
「……はい、わかりました」
「わかれば結構です。では手を合わせまして、いただきます」
「……いただきます」
挨拶して箸に手をつけるウルスラに倣いつつ、ようやく話が見えてきたことを思った。
……なるほど、これがあの場所でウルスラが言っていた即興劇だ。俺が《兄》で彼女が《妹》。あとは二人してこの小屋に暮らしているということ以外明らかではないが、とにかくそういう設定で進めてゆく演技。
そうとわかれば気持ちを切り替えなければならない。考えるまでもなく、その劇はもう始まっているのだ。
食卓に目を戻して、そこで俺は新鮮な感動を覚えた。ごはんに味噌汁、
その小憎いまでのはまりように、かすかな嫉妬を覚えた。いくら主導権が彼女の方にあるとはいえ、相応の演技で返さなければ沽券に関わる。そう思い、味噌汁をすすりながら俺は慎重に言葉を選んだ。
「どうしてエプロンつけたままなんだ?」
「え?」
「面倒臭がらず取れよ。食事の間くらい」
「だって、着付けた着物が汚れてしまいますもの」
「どこかへ出かけるのか? 今からそんな
「まだ寝惚けていらっしゃるんですか? 今日はあたしの外出につき合っていただけると、そういうお話だったじゃありませんか」
「え? ……ああ、そういやそうだった」
「本当に覚えてらしたんですか? 昨日あんなに何度も念を押しましたのに」
そう言って小さく溜息をつき、ウルスラはそれまで通りの奥ゆかしい食事を続けた。
堂に入った妹ぶりだった……とても素人の演技とは思えない。俺はこのまま
――そこでふと、いま自分が始めたばかりの演技に疑問符がついた。演技そのものではない、その前提となる意義について。
そもそもウルスラが劇の話を持ちかけてきたのはあいつを舞台に立たせるため、それが目的だったはずだ。それが彼女と二人こんな芝居を演じて、いったい何の役に立つというのだろう……?
だがその疑問を口にすることなどできるはずもない。もう劇は始まっているのだ。
それに、すべて自分に任せろとあの場所でウルスラは言った。その言葉に、すべて彼女に任せると俺は応えた。……ならば四の五の言わずにウルスラを信じるしかない。どの道そうする以外、あいつを舞台に導くための手だてがあるわけではないのだ。
「おかわりはいかがですか?」
「ん?」
と、穏やかなウルスラの声に劇の中へ引き戻された。
空になった自分の茶碗に目をやり、もう少し入ると思った。「お願い」と言って茶碗を差し出すと彼女はそれを受け取り、静かに席を立った。
しばらくして戻ってきた茶碗にはふっくらとご飯がよそわれていた。湯気の立ちのぼり方から一粒一粒の向きに至るまで非の打ちどころのない見事な盛りつけに、目が覚めてもう何度目になるかわからない新鮮な感動を覚えた。
「ウルスラはいいお嫁さんになるよ」
「何ですか? その早く嫁に行け、みたいな言い方」
「そんな言い方してないだろ。素直に誉めただけだ」
「同じことです。まったく人の気も知らないで。お兄さまのお世話がある限り、あたしはどこへも行かれませんから」
そう言ってウルスラはまた小さく溜息をつき、何事もなかったかのように味噌汁の椀を口に運ぶ。その頬にほんのりと赤みがさしているのを見て、俺は不覚にもその演技に目を奪われた。
見とれている場合ではない――改めてそう感じた。役者としての矜持にかけて、このウルスラの演技に見合うだけのそれを俺も同じように演じなければならない。
それに……そうだ、彼女と演技できるのはおそらくこれが最初で最後なのだ。そう思って、まだかすかに燻っていた疑問は完全に頭の中から消えた。
「それで、今日はどこへ行くんだっけ?」
「昨日、何度もお話ししました」
「ごめん。よく聞いてなかった」
「そんなお兄さまには、もう何も教えてあげません」
「いいだろ。今度はちゃんと聞くからさ」
赤みの消えた頬に憮然とした表情を張りつけ、ウルスラはあくまで素っ気ない態度をとり続ける。そんな彼女を前に、俺はようやく確信をもって
情報は一切ない、筋はすべて相手に任せてある。だから俺が演じるべき兄の型はその手のもので間違いない。
自分の言ったことを何も覚えていない
……なるほど、設定は把握できた。あとは何も考えずこの役に没入し、ちぐはぐな兄妹の掛け合いを楽しんでいけばいい。
「雨は大丈夫かな」
時計の針と窓の外を見比べて言った。曇っているのだろう、もう八時なのに外はだいぶ暗い。その加減からして雨が降っていないのがおかしいくらいだ。けれどもそんな俺をたしなめるように、「降りませんよ」とウルスラは返事をした。
「え?」
「大丈夫です。雨は降りません」
「降るだろ、この分だと」
「降りません。外に出ればわかります。そういえばお茶がまだでしたね。すぐに
席を立って空いた食器を重ね、それを手にウルスラは部屋を出ていった。
その背中を見送ったあと、俺はもう一度窓の外に目を移した。薄暗いというよりほとんど夜に近い。これで雨が降らないわけがない。そう思い、窓の外を眺めながらウルスラの言ったことの意味について少しだけ考えた。
だがやがてそうするのをやめて大きく伸びをし、のけぞったまま頭の裏に手をまわして彼女が戻ってくるのを待った。
◇ ◇ ◇
――その意味を理解したのは小屋を出てすぐだった。
食後のお茶を飲んだあと、昨日の約束を果たすためにウルスラと街へ出ることにした。美しく着飾った彼女に普段着では不釣り合いかとも思ったが、そもそも釣り合うような服など持ち合わせていない。
結局、普段通りの身支度を済ませ、急かし顔のウルスラと連れ立って小屋を出た。いつもの商店街を並んで歩き始め、数歩も行かないうちに何気なく空を見上げて――その光景に思わず声をあげるところだった。
見上げた空は晴天だった。地平に切れ端のような雲が浮かぶ快晴に近い空。
けれども、それは青空ではなかった。
少なくとも青ではない――濃紺に黒みがかった銀を混ぜたような――そんな色の空だった。太陽は出ていた。雲に隠れているわけでも、白昼の月に
「どうなさったんですか?」
反射的に声のした方を見る。上目遣いに見つめてくる嬉しそうな笑顔があった。うまく反応できないでいるとウルスラは俺の右腕をとり、その胸に抱きこんだ。そうして少女らしい華やいだ声で、「さあ行きましょう」と言った。
「見ての通りです、今日は雨など降りません。さあ、早く行きましょうお兄さま。まわりたいところはいっぱいあるんですから」
「……ああ、そうだな」
促されるまま俺はその光景の中に踏み出した。腕を組みしなだれかかってくるウルスラを隣に、ほとんど何も考えられない頭で。
……ただ、ぎりぎりのところで俺は役者としての本分に踏みとどまった。落ちる寸前の思考を必死にはたらかせて、どうにかその兄としての台詞を吐いた。
「……やめろよ、みっともないだろ」
「え? 何がですか?」
「それだよ。恋人同士でもないのに」
「似たようなものです。兄妹じゃありませんか」
「似てないよ。俺が恥ずかしい」
「あたしは少しも恥ずかしくありません。これくらい我慢してください。お兄さまとのお出かけは本当に久し振りなんですから」
もう浮かれる気持ちを隠そうともせずに言うウルスラに、俺はそれ以上の反論を返さなかった。憮然とした顔で口を閉ざし、腕にぶら下がる少女に歩調を合わせる姿は、照れ臭い思いを見せまいとする不器用な兄に映るだろう。
……けれども実際のところは、それが俺の限界だった。偶然にもはまった演技から抜け出そうとしないまま、無言で俺はその異様な情景を眺め続けた。
何かを待っていたように蝉の声が聞こえ始めた。
まだうまく働かない頭に、そういえば夏になったのだ、とぼんやり思った。その声は次第に大きくなり、やがて蝉時雨と呼べるまでになった。
――だが、それはやはり蝉の声ではなかった。幻影を見るような暗い空の下に、俺の知る夏はどこにもなかった。
「すっかり夏ですね」
「え?」
「梅雨も明けましたし、もうすっかり夏です」
「ああ……もう夏だ」
それでも成り行きにそんな返事を返して、俺はもう空について考えるのをやめた。
そう……空などどうでもいい。俺たちがここに立つ目的に比べれば、それはほんのささいな問題に過ぎない。
やるべきことはわかっている。これは彼女が危険を賭して俺に与えてくれた――おそらくもう二度と踏むことのできない舞台なのだ。
「……というか、いい加減放せ」
「いやです」
「いいから放せって。暑いだろ」
「い・や・で・す。今日一日、あたしにくださると約束なさったじゃないですか。今日という日が終わるまで、お兄さまはあたしのものです。あたし以外のことを考えたら駄目なんですからね」
俺の腕に頬をすり寄せて言う彼女に、今度こそ明確な演技の意図をもって俺は大きく溜息をついた。
そんな掛け合いを続けながら、俺たちはゆるゆると町へ向かった。昼にかかろうとする形ばかり暑い道に、盛大な蝉の声はいつまでもやまなかった。
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