041 砂漠の城(2)
通路の暗闇と部屋の薄明かりとの境。ちょうど部屋に入るか入らないかの場所から、彼女は曖昧な表情でじっとこちらを見ていた。
それはたしかにペーターだった。見慣れない服に身を包み、いつものリボンで髪を詰めていなくても、目の前に立つその少女は、たしかにペーターだった。
「……」
そのことを確認したあとも、俺は彼女に声をかけることができなかった。……何と言って声をかければいいかわからなかった。さっきまで頭の中で幾つも考えていた謝罪の言葉はすべて消え失せ、俺は何も言えず――何も考えることができず、ただ黙ってペーターの姿を見守った。
そこで、彼女の唇が動いた。
「誰ですか?」
大きく心臓が跳ね、全身の血が沸き立つのを感じた。そしてすぐ、沸き立ったばかりの血が氷のように冷たくなった。
「あなたは誰ですか?」
きょとんとしたあどけない表情で、ペーターはもう一度そう言った。それは昨日の夜――あの嵐の庭園で俺を拒絶した彼女そのものだった。そのときのことをありありと思い出して、俺はしばらく息をつくこともできなかった。
何も考えることができなかった。どんな言葉を返せばいいかわからなかった。それでも長い沈黙のあと、俺は精一杯の思いをこめてその名前を呼んだ。
「……ペーター」
「ペーター、ですか」
「え?」
「あなたはペーター、ですね?」
おもむろに腕をもたげ、こちらを指さしてペーターはそう言った。頭の中は真っ白で、彼女が何を言っているのかわからなかった。返事を返せないでいる俺にもう一度、「あなたはペーターなんですね?」と、彼女は言った。
「……ペーターはおまえだ」
何も考えられないまま、そんな答えを返していた。「え?」と言って驚いたような表情をつくる彼女に、俺はもう一度その言葉を繰り返した。
「俺じゃなくて、おまえがペーター」
「ペーター?」
こちらに突き出していた指を自分の鼻先に向け、彼女はそう言った。「そう、おまえがペーター」と、俺は返した。
「ペーター……ペーター?」
「なあ、おまえいったい――」
「あはっ、ペーター。あははっ、私がペーター!」
突然、螺子が外れたように笑うと、彼女は部屋の中を駆け出した。
「あはっ、ペーター! あはははっ、ペーター! ペーター!」
笑いながら部屋の中を駆け回るペーターを、俺は呆然と見守った。ぶつかるような勢いで壁に向かい走ったかと思うと立ち止まり、不思議そうな目でこちらを見てまた笑いはじめる。自分を指さしてその名前を連呼し、そしてまたあらぬ方向に向かい走り出す。そんな彼女を、俺はあっけにとられて見つめ続けた。寝台から立ちあがることも……声をかけることもできなかった。
「あっ」
永遠に続くかに思われた時間は、けれどもペーターの短い声で途切れた。何の前触れもなく立ち止まった彼女は同時に笑うのをやめ、自分の名前を呼ぶこともやめてその場に立ち尽くした。
「……」
そのままペーターはぼんやりした表情で窓の外――壁の破れ目の向こう側を眺めている。何を見ているのだろう……まだ立ち直りきらない頭で漠然とそんなことを考えた。
俺がいることなど忘れたように、彼女はしばらくそうしていた。だがやがて不意にこちらに顔を向けると、「ほら」と言った。
「……?」
「聞こえますか? ほら」
じっと俺を見つめ、同意を求めるようにペーターはそう言う。だが俺には何も聞こえない。風のない砂漠に抱かれたこの廃墟に、彼女の声以外、俺の耳に届く音はない。
「……何も聞こえない」
「喋っている声です、大勢の人が」
「聞こえないな……そんな声は」
「聞こえますよ、ほら。泣いてる人もいるし、笑ってる人もいます。ねえほら、聞こえるじゃないですか」
「……っ!」
刹那、目の前で繰り広げられる出来事に一時は忘れていた記憶が蘇った。……これと似たような会話を、俺たちは昨日の夜、あの雨の中でしていた。あのときペーターは今と同じように、何かが聞こえると言って俺に同意を求め、それを聞こうと耳を澄ました俺の脚をデリンジャーで撃ったのだ……。
「……」
――あのときの続きなのだろうか。はじめて、俺はそのことを思った。あのときの続きを、ペーターは今ここに繰り返そうとしているのだろうか。俺を決して許しはしないという言葉の代わりに……。彼女がここに現れてからの会話を思い返してみれば、そうした意図が含まれている気がしてならない。けれども……。
「ほら。聞こえますよ、ねえほら」
……けれども昨日のような惨劇がはじまる気配は、ここにはない。あのときと同じように調子の外れたことばかり口走りながら、今のペーターからは昨日の夜のように鬼気迫るものが感じられない。そう……今の彼女はちょうど、いつもの発作を起こして俺の気を引いているだけの、俺のよく知るペーターのようにも見える。
「……聞こえないな」
「え?」
「俺には何も聞こえない」
「本当に?」
「ああ、本当に」
俺の返事にペーターは驚いたような目をこちらに向けた。そんな表情のままおもむろに右腕をもたげ、さっきそうしたようにまた俺を指さした。
「ハイジ」
「……!」
「あなたはハイジ、ですね?」
すぐには返事ができなかった。彼女の口からその名前が出るのを聞いたのは本当に久し振りで、どう答えればいいのかわからなかった。だがしばらくの逡巡のあと、俺は心を決めて「ああ、そうだ」と言った。
「その通り、俺がハイジだ」
「ハイジ」
「……ああ、そうだよ」
「ハイジ……ハイジ?」
「……」
「あはっ、ハイジ。あははっ、ハイジハイジ!」
そこでまたペーターは笑い出した。可笑しくて堪らないというように笑いながら俺の名を連呼し、そしてまた部屋の中を駆け回りはじめた。
「あははっ、ハイジ! あはははっ、ハイジ! ハイジハイジ!」
俺はまた言葉もなく立ち尽くした。……そうするしかなかった。走っては立ち止まり、思い出したように俺を見てハイジと呼んで笑い、そしてまた走り出し、立ち止まってはまた走る。その繰り返しだった。そんな無意味で気狂いじみた振る舞いを延々とペーターは繰り返した。そんな彼女を、俺はただ黙って見ていた。
「ハイジ! あはははっ! ハイジハイジハイジ!」
……これはいったい何なのだろう。混乱しきった頭でぼんやりとそう思った。ペーターはなぜこんなことをしているのだろう。何のために……何を思ってこんな茶番にもならない演技を……。
「……っ!」
突然、理由のわからない苛立ちが胸に沸き起こった。ベッドから立ちあがり、ペーターを捕まえようと駆け寄った。彼女は一瞬、驚いた顔をし、だがすぐ元のように笑いながら、俺の腕をかいくぐり、部屋の中を逃げまわった。
「ハイジ! ハイジ! ハイジ! あははははっ!」
「……っ! いい加減にしろ!」
あちらへ行ったかと思えばこちらへ、またあちらへとペーターは器用に逃げまわり、その間もずっと笑うのをやめなかった。そんな彼女を追いかけるうち俺は、次第に本気で苛立ってくる自分を感じていた。
絶対に捕まえる――たとえ手荒な手段を使ってでも。そう思って飛びかかろうとした直後、ペーターはこちらに振り向きもしないまま部屋を飛び出し、ここへ来るまでに俺が通ってきた通路の闇の中へ呑みこまれていった。
一瞬、躊躇した。けれども次の瞬間には、ほんのついさっき手探りで一歩一歩たしかめながら通ってきた通路に向け、駆け出していた。
「……あはははっ! ハイジハイジ!」
暗闇の中にペーターの声が聞こえる。そして乾いた足音が響き渡り、みるみる小さくなってゆく。……この闇の中をどうして走ることができるのだろう? 理性ではそう考えながら、俺もまたその声のあとを追い、走った。
「待てよペーター! ちょっと待て!」
「ハイジハイジ! あははっ! ハイジハイジ……」
呼びかけにペーターはいったんは立ち止まったように見えた。だが俺がそこへ近づこうと足を速めると、また笑い声と足音が響き、暗い回廊の先へ遠ざかっていった。
「止まれ! そこで待ってろ! くそっ!」
……折からの苛立ちは俺の中で膨張し続け、破裂する一歩手前まで来ていた。ペーターを捕まえたら俺は何をするかわからない……そんな恐怖に似た思いがあった。けれどもそれ以上に俺はこの今の状況に苛立っていた。こんなわけのわからない場所で、わけのわからない振る舞いばかりするペーターに――
「はあ、はあ……くそっ、ペーター!」
近づきまた遠ざかる声と足音に嘲られているような気持ちになってくる。ああしてペーターは俺を嘲って楽しんでいる。そう思って苛立ちはいやが上にも高まった。
つかず離れず前をゆく彼女を追いかけ、暗闇を走り続けた。幾つもの角を曲がり、階段を駆け下った。……それがどれほど危険なことかわかっていた。一回も転ぶことなくその長い路を走り抜けることができたのは、ほとんど奇跡に近い。
通路の暗闇から月明かりの中庭へ吐き出された俺の息は激しく乱れ、脚に震えが起こるほど疲れ果てていた。すぐさまペーターの姿を探した。目で追うより早く、その笑い声が耳に届いた。疲れ切った身体に鞭打ち、声のする方に向かい駆け出そうとした。
――けれどもほんの数歩進んだところで俺は足を止めた。そのまま立ち止まり、目の前に広がる情景に見入った。
そこにペーターはいた。月光の下に黒々と茂る棗椰子の林を背に踊っていた。無邪気に笑いながら、おとぎ話の中の妖精のように優雅に、楽しそうに舞い踊っていた。
「……」
声をかけようとして、かけられなかった。その情景に染みをつけることを思って、近づくことができなかった。通路の闇を抜けてくる間の苛立ちは嘘のように消えていた。俺はただ黙って、踊り続ける彼女を見守った。
「……歌」
いつの間にか笑い声は歌に変わっていた。歌いながら、両腕を広げて軽快なステップを踏みながらペーターは踊っていた。一人きりの観客の前で、一人きりの舞台はいつ果てるともなく続いた。時間が経つのも忘れ、俺はその舞台に見入った。
「……!」
けれどもペーターの視線が俺をとらえた瞬間、その舞台は唐突に終わりを告げた。彼女は踊るのを止め、歌うことも止めてじっと俺を見つめた。それから俺を指さして、「ハイジ!」と言った。一頻り笑って、また俺を見て、「ハイジハイジ!」と繰り返して、棗椰子の茂みの方へ駆け出した。
「あははっ、ハイジ。あはははっ、ハイジハイジ!」
「……っ!」
我に返って、あとを追いかけた。そしてまたさっきあの部屋でしたように――あるいは暗闇の通路でそうしたように、不毛で意味のない鬼ごっこを俺たちは再開した。ペーターは逃げては椰子の幹に隠れ、そこから顔を覗かせる。俺が近づくとまた逃げ、別の椰子の陰に身を隠す。
「ハイジ! あはははっ! ハイジハイジハイジ!」
笑い続け、俺の名を呼び続けるのもさっきまでと同じだった。……だが俺の胸にはもう、さっきまでのような苛立ちはなかった。苛立ちに衝き動かされて彼女を追いかけているのではなかった。そのことに気づいて、俺は自分が何をしているのかわからなくなった。何のためにペーターを追い、何のために捕まえようとしているのだろう……。ふと浮かんだそんな疑問に俺は思わず足を止めた。
それとほとんど同時に、椰子の茂みの中でばしゃん、と水音が響いた。
「……! ペーター!」
反射的に音のした方へ駆け寄った。けれども近づくにつれ、駆け寄るほどのことはなかったことに気づき歩調をゆるめた。ただペーターが池に――池というのも大げさな水溜まりにはまったというだけの話だった。それでも俺は「大丈夫か」と尋ねながら近づき、助け起こそうと腕をさしのべた。
「……」
そこで俺は再び、暗闇の通路からこの中庭に出たときのように動けなくなった。だが動けなくなった理由はさっきとは違っていた。
水溜まりに尻もちをつき、不思議そうな目で俺を見つめるペーターの身体には、水浸しのドレスがぴったりと貼りついていた。そのドレスの下に、彼女の身体がたおやかな線を描いていた。薄暗い椰子の茂みの中に、かすかな月明かりを頼って見るそんな彼女は、俺がこれまで見てきたペーターとはまったく違っていて――引き寄せられるように俺はのばした手を更に彼女に近づけた……。
「えい!」
――ばしゃん、と水音がした。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。ペーターに腕引かれて、今度は自分が水溜まりに落ちたのだと気づいたときには、彼女はもう中庭を抜けまたあの通路の暗闇へ呑みこまれてゆくところだった。
「……」
俺はもうそのあとを追いかけなかった。まだ尾を引く胸の高ぶりを抑えるために夜空を見あげると、同じ藍色の夜空にあって、弦月は早くも下弦のそれに変わろうとしていた。
しばらくの時間が経って、仰ぎ見る城の窓から少女が顔を覗かせた。――そしてまたすぐに隠れるまで、ぐちゃぐちゃの頭を抱えたまま、生暖かい水が服を浸みのぼってくる落ち着きのない感覚に身を任せていた。
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