040 砂漠の城(1)
――そこが闇の中であると気づくまでに時間がかかった。
目を開いているのか、あるいは閉じているのかさえもわからない、自分の鼻先もまともに見えないほど濃く深い闇。そんな闇のただ中に俺は立っていた。
何度か瞬きをすることで、自分がたしかに目を開いていること、そして闇の中にいることを理解した。それを確認したあと、今度はそこが照明の落ちた舞台の上であることを思った。……そうだ、さっきの銃声をきっかけに舞台がはじまったのだ。そう思い、仲間たちの姿を探して頭を回らせ――だがそこには濃い闇の他に何もなかった。
「……拳銃」
そこでふと、きっかけの銃声をつくった拳銃が手の中にないことに気づいた。頭蓋に向けて引き金を引いたあとどうした覚えもないのだから、当然、それはまだ俺の手の中にあるはずだった。だが、それがない。
……気づかないうちに落としてしまったのだろうか。だとしたら照明が入る前に回収しておかないとまずい。いずれにしてもそう遠くには行っていない、すぐ近くに転がっているはずだ。
そこまで思って、拳銃が足下に落ちているか探るために――だが蹴り飛ばさないように慎重に、ゆっくりと足の位置をずらしてみた。
じゃりっと砂を踏みしめるような音がした。
「……?」
出し抜けに響いた音に足の動きを止めた。砂を擦るような音……いや、それは間違いなく靴底が砂を擦る音だった。もう一度足を動かしてその音をたしかめ、それから俺はしゃがみこみ手でじかにそこに触れてみた。
「……」
そうして俺は、自分が立っているそこが舞台の上ではなかったことを知った。指先に触れる冷たい感触は石か土……だが石にしては脆く、土にしては硬すぎる。乾ききって表面に
「何だよ……これ。……ここ、どこだよ」
思わずこぼれ出た呟きは漆黒の闇に溶けた。何がどうなっているのかわからない。自分がどこに立っているのかもわからない。わからないままに俺は歩きはじめ――だが何歩も歩かないうちに文字通り壁に突き当たった。
「……」
驚いて声をあげそうになるのをどうにか堪えた。伸ばした手の先に触れる壁は、さっき背を屈めて触った足下のそれと同じ煉瓦で、表面には同じように粉がふいている。もっとも、それが本当に煉瓦であるかはわからない。脆い石か、もっと別の何かかも知れない。ただ一つはっきりしているのは、下も横もその煉瓦のようなもので塞がれた、真っ暗闇の迷路の中に、自分が今いるということだ。
「……迷路か」
両手を壁につけたまましばらく動けずにいた。だがそうしているうち、ふとその迷路という言葉で思い出すところがあった。『どんな迷路でも必ず出口にたどり着ける技』、そんなものを子供のころ本で読んだことがある。それは、片手を壁につけてずっと離さずに歩き続けるというものだ。つまり迷路の道という道を通り尽くす方法で、時間さえかければ――そして出口がありさえすれば必ずそこにたどり着くことができる。
当時流行っていた抜けきるまでの時間を競う
「……やってみよう」
そう口に出して決心し、右手を壁につけたまま俺はゆっくりと歩き出した。
少し歩いたところで、このあたりに何か目印をつけておくべきだということに気づいた。目印をつけておかなければ――あまり考えたくはないが、出口がなかった場合に、俺はいつまでもぐるぐるとこの暗闇の中を歩き続けることになる。そう思ってジーンズのポケットに手を入れた……何もなかった。自分の身体に触れて壁に目印を刻めるようなものを探ってみた……やはりなかった。少し立ち止まって考えたあと、仕方なくまた右手を壁につけ歩きはじめた。
けれどもその心配は杞憂だった。しばらく歩き続けるうち、それまで真っ暗だった視界に、朧気ながら風景がその線を描きはじめた。
どうやらここは曲がりくねった回廊か何かのようだ。さっき見えなかった景色が見えはじめたということは、どこからか光が漏れているのだろうか。それともただ俺の目が暗闇に慣れてきただけなのだろうか。そんなことを考えながら、もう幾つ目になるかわからない角を曲がった。――そこで、俺は立ち止まった。
――息を詰め、目の前に広がるその情景に見入った。天井の破れ目から覗く夜空には赤みを帯びた月。その月明かりの中に、古めかしいドレスに身を包んだ少女が立っていた。
夜空に向けて少女は何かを喋っている。その声は小さすぎてはっきりと聞きとれない。彼女に近づくために踏み出そうとして……けれども俺の足は根が生えたようにその場から動こうとしない。――そこで、少女が不意にこちらを見た。
「……ペーター?」
――俺を目にするなり、何も言わず少女は走り去った。
少女を追いかけることもできずに立ち尽くした。あとには主を失ってどこか気が抜けたような月明かりの回廊だけが残った。
「……」
いなくなった少女のことを考えながら、しばらくの間そうしていた。だがやがて俺は気を取り直し、さっきまで少女がいた月明かりの中に踏み入った。
少し肌寒い乾いた夜気に、月明かりはただ静かに染み広がっていた。わずかに赤みを帯びた下弦の月。その光の溜まりに、それまで闇のなか手探りでたどってきた壁と、踏みしめてきた床の地肌が露わになっていた。
「……煉瓦なのかな、これ」
壁も床も、やはり一面の砂で覆われていた。明らかに石ではない。だがほとんど黄土色に近い色といい爪で掻くだけで崩れてくる脆さといい、俺の知っている煉瓦とはどこか違う。粘土を固めて干しただけのような感じがする。それともこれがいわゆる
「……」
もう一度、上を仰いだ。崩れた天井の合間に覗く狭い夜空をしばらく眺めた。……そこでふと、天井の破れ目が壁まで及んでおり、どうにかよじ登って外に出られそうだということに気づいた。
視線を回廊に戻し、少女が消えていった闇の奥に目を凝らした。そのあと俺はまた破れた壁を眺め、充分に助走をつけるために二歩、三歩と後ずさった。
「……何だよ、ここ」
壁から身を乗り出してその光景を目の当たりにした俺は、そう呟いてからほとんど転げ落ちるようにその場所へ降り立った。……正確には立ったのではなく、尻もちをついて座った。そうして座ったまま、俺はしばらく金縛りにあったようにその場から動けなかった。目の前に広がる光景は、それほどかけ離れたものだった。
「何だよ……ここ」
呆然とその光景を眺めながらもう一度そう独り言ちた。見渡す限りの荒野だった。草木の一本もない赤茶けた大地が、遙か地平の果てまで海原のように続いている。ところどころに丘陵をつくり、落ちこんでは隆起し、隆起してはまた沈む岩塊の海。草木の一本もない、生命あるものの影をどこにも見いだせない不毛の海。
そこで不意に、自分が眺めているそこがどういう名前で呼ばれるものであるかに気づいた。
「……まるで砂漠だ」
思わずそう口にしたあと、まるでではないとすぐに思い直した。そう、まるでではなく、そこは文字通り砂漠だった。砂に覆われているのではないが、岩肌と石ころだらけの乾ききった大地は、たしか礫砂漠……あるいは岩石砂漠だっただろうか。
……どうあれ砂漠には違いない。俺が見ているこの光景は紛れもない砂漠だ。写真や映像の中でしか見たことのなかった砂漠が今、目の前に広がっている。見渡す限り果てのない砂漠。どうやら俺はその砂漠のただ中に
「……」
そこではじめて俺は後ろを顧みた。そしてまた俺は動きを止め、その光景を眺めた。それは城だった。乾ききった地面と同じ色の
「……」
地面に座りこんだまま、しばらく呆然とその建物を見ていた。だがやがて俺は立ち上がり、城壁の壁伝いに歩きはじめた。城の反対側にも同じように砂漠が広がっているのか……答えはうすうす予想できたが、それを自分の目ではっきりたしかめようと思ったのだ。
「……やっぱりか」
どれほど歩いたのだろう。月の位置からして城の裏手にまわった俺は、自分の予想した答えに
……これではっきりした。ここは広大な砂漠の真ん中で、この城はその砂漠に見捨てられた古い時代の廃墟か何かだ。――あの会場の舞台に緞帳があがるのを待っていたはずの俺がどうしてそんな場所にいるのかわからない。けれどもそんな場所に自分がいるということは、スニーカーで踏みしめる乾いた土の感触のように明らかな、疑う余地のない現実のようだ……。
「……?」
元の場所へ引き返そうとしたところで、何気なく目を遣った城壁の先に翳りがあることに気づいた。淡い月明かりにここからではよくわからないが、城壁の他の部分より暗くなっているように見える。……どうせここまで来たのだからたしかめていけばいい。そう思い、引き返しかけていた足をその場所に向けた。
「……門だ」
翳りになっていたそこは、門だった。もっとも扉などはなく、城壁に穿たれた穴と言った方がいいかも知れない。五人が横に手を繋いで通れそうな幅広の穴は、かつて兵士たちが慌ただしく出入りしたのだろうか。そんな感慨に耽りながら門をくぐり、中に入った。
「……」
そしてまた俺は言葉もなく立ち尽くした。門を抜けたそこには想像もしなかった景色が広がっていた。月明かりの下に黒々とした葉を立てる緑の茂み。立ち並ぶ幹の奥には小さな池のようなものが見える。乾ききった大地の真ん中にあって、ここにはささやかな水と緑がある。そこまで考えて……ここがどういう場所であるか俺は理解した。
「……オアシスか」
自分がなぜここにいるかは相変わらず謎のままだったが、ここがどういう場所であるかはわかった。ここはオアシスに建てられた城塞で、城としては遙か昔に滅びたがオアシスはまだ枯れずに生きている。茂みに緑をなしているのはおそらく
――ふと降り仰ぐ城の窓から、少女の顔が覗いているのが見えた。
「……」
俺と目が合うと、窓から覗いていた顔は一瞬で消えた。そうだ……誰一人いなくなってしまったわけではない。今この城には俺と――そして少なくとも、もう一人の人間がいるようだ。
しばらく眺めていたが、少女の顔が窓に現れることはなかった。最上階に近い……星の位置からして東向きの窓。そこに至るまでの通路は、きっとさっきの回廊のように真っ暗だろう。元の場所に引き返してあそこから辿るべきだろうか。あるいはこの中庭のどこかに城への入り口がないものだろうか……。
気がつけば弦月は天頂にさしかかろうとしていた。その月明かりを受ける土の城は、まるで巨大な墓標のように見えた。
◇ ◇ ◇
「――ここか」
どこをどうまわってきたのかわからない。中庭につながる入り口に戻れと言われても、もう戻れる自信はない。時おりかすかに漏れる月光を頼りに闇また闇の通路をたどってくるのは、正しく探検だった。永遠にも思えるその探検の果てに、俺はようやくこの部屋にたどり着いた。
部屋といっても、そう呼ぶのがはばかられるほど荒れ果てた場所だった。庭に面した壁はところどころで崩れ、そうしてできた穴の幾つかは、ちょうど開け放しの窓のようになっている。さっき少女が顔を出していたのはこのうちのどれかだったのだろう。
崩れているのは壁ばかりではない。中央にできた一番大きな破れ目はそのまま天井につながり、欠け落ちた屋根の間には月――さっき中庭に仰ぎ見た赤い月が覗いていた。その破れ目から漏れこむ月明かりの下には古めかしいベッドが鎮座している。城の寝室にふさわしい豪奢な天蓋のついたベッド。……だがよく見ればその天蓋もその下の寝台も、この城と同じようにぼろぼろに朽ち果てている。
「……ここは」
不意に強い既視感を覚えた。これと同じ景色を、俺はどこかで見たことがある。そう……夢の中だ。昨日の朝に見たあの夢の中でペーターと話していたのがここだった。この部屋で俺たちは、何年も前、出会ったばかりの頃に交わした古い会話をなぞった……。
――不意に、嵐の森で見た映像がフラッシュバックした。
「……っ!」
ずきり、と胸が痛んだ。あの嵐の森にペーターを見失ってからずっと鳴りをひそめていた痛みが胸の奥に蘇った。それは決して小さな痛みではなく、俺は少しの間、歯噛みをしてその痛みに耐えなければならなかった。
やがてその痛みもどうにか耐えられる程度に治まり、大きく息をついて立ち直った俺は、頭をあげ周囲を見回した。そこに
緊張が切れ、ここにたどり着くまでの疲れが一気にこみあげてくるのを感じた。俺はベッドに歩み寄り、よくたしかめもしないでその上に仰向けに寝ころんだ。
「……」
乾ききった土の臭いと、首の裏にざらりとした砂の感触があった。だが俺は構わず、頭の裏に手を組んで枕にし、目を閉じてここへ来るまでの出来事を思った。回廊で月明かりの下に見た少女の姿が脳裏に蘇った。――あれはたしかにペーターだった。瞼の裏に思い描き、改めて俺はそう思った。そう……たしかにペーターだった。俺があいつを見間違うはずはない。たとえ見慣れない服に身を包み、いつものリボンで髪を詰めていなくても。
「……」
瞼をあげると、破れ目だらけの天蓋が見えた。その天蓋の向こうには、同じく大きな破れ目を晒す天井があって、弦月はちょうどその破れ目から死角に入ろうとしていた。……この部屋は城の最上階だったのだと、そんなことを今さらのように思った。砂漠の真ん中に建つ朽ちかけた廃城。その城の、おそらくは王族の寝室に、俺はいま乾いた土の臭いを嗅いでいる……。
ここがどこであるかは漠然とだが理解できた。石と砂ばかりの広大な砂漠に浮かぶ小さなオアシス。そのオアシスをよすがに遠い昔に建てられ、そして同じく遠い昔に見捨てられた城……俺がいるのはそこだ。どういった絡繰りかまではわからないが、あの会場の舞台にきっかけのトリガーを引いた瞬間、俺はこの城の回廊の闇の中に送りこまれた。……まるでおとぎ話だがそう考えるしかない。信じようが信じまいが、俺は今、実際にこうしてここにいるのだ。
「ここが……隊長の言ってた場所なのかな」
演劇によって成立する演劇のための世界。俺がずっと夢見てきた、もう一つの世界。ここがそうだというのだろうか。隊長の言っていた劇の中の世界なのだろうか。……とてもそうは思えない。そんなばかげた話は信じることはできない。
だがもし、もう劇が始まっているのだとしたら、俺はすぐにでも考えを改めなければならない。そうしなければ、俺はこの劇に入ることができない。そう、ここは隊長の言っていた世界で、仕組みはわからないが俺はそこに送りこまれた。そしてこれから俺はこの世界で、もう先に来ている相方と共に劇を演ずる――
中庭に見上げた城の窓から覗いている少女を、もう一度思い返した。
――その相方とは、どうやらペーターのようだ。そのことを思って、また胸がしくしくと痛みはじめるのを感じた。さっきのように息もつけないほど激しい痛みではなかった。だがそれは熾き火のように強まりも弱まりもせず、いつまでも消えずに長く尾を引いた。
……昨日のことは決定的だった。あいつがはっきりと口にしたように、これまで築きあげてきた俺たちの関係をうち砕く、取り返しのつかない事件だった。あんなことがあったあとに、どうして二人で演技できるというのだろう。まともな演技などできるはずがない。そんなのは
「けど……あいつならどうだろ」
ペーターならあるいは、こんなときにいつもと変わらない演技をするかも知れない。ふとそんなことを考えて――俺は大きく深い溜息をついた。……あんなことがあって完全にこじれてしまったというのに、俺はまだあいつの演技を意識している。取り返しのつかない破局を迎えてなお、これまでのようにあいつのことを考えている。そんな自分をどこか滑稽に感じながら……けれども俺の頭からは彼女のことばかりが離れなかった。
――嵐の夜、胸から血を流し俺の腕の中から消えたペーターの姿が、頭から離れない。
……あいつはどこへ行ってしまったのだろう。にわかに激しさを増した胸の痛みに耐えるために、俺はまた奥歯を噛みしめた。何度でも謝りたかった。どんな言葉を口にしても……たとえそれで許してもらえなくても……。
幾つもの謝罪の言葉を考えるうち、胸の痛みは耐え難いほどに膨らんでいった。堪らず俺はベッドから身体を起こし、魂を絞り出すように大きく息をついた。頭をあげ、部屋の入り口を見た。
――そこに、彼女は立っていた。
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