042 愚者と兵隊(1)

 ――鋭い光に瞼をこじ開けられた。どこから入ってきたのだろう、細い滝のような日射しがじかに目のあたりを灼いている。その眩しさとちりちりした熱さに、俺は堪らず手をかざした。


「……う」


 かざした手の向こう側に燃えさかる太陽を見た。壁の破れ目から覗くその太陽はちょうど地平から抜け出したばかりのようで、だがその光はもう充分に激しく、どこまでも力強い。


 とりあえず身体を起こそうと、太陽にかざした方とは別の手を後ろについた。――ざりっ、とした砂のような感触が掌を噛んだ。思わず振り返った。盛大に流れこむ陽光の中に、細かい砂と石ころにまみれた赭色オーカーの部屋が広がっていた。


「……」


 頭を逆にまわすと寝台があった。色褪せた……というよりほとんどセピア色に変色した天蓋つきの寝台。背中に薄く柔らかいものの感触があった。毛布と呼ぶにはあまりに粗末なボロ布……。


「――」


 そこではじめて、昨夜の記憶がありありと脳裏に蘇った。そうしてが幻でも何でもなく、今もまだ続いているのだということを思い知った。


「……そうだった」


 自分が今いるここがであることを思い出した。寝て起きても元の世界に戻らなかったところをみると、どうやら本物のようだ。起き抜けの頭のせいか、そんな突拍子もない事実を自分でも呆れるほど素直に俺は受け入れた。……もっとも目の前に広がる土塊の部屋、そしてその外に覗く荒涼とした風景を見れば、嫌でもそのでたらめな話を事実として受け入れるしかない。


 ――あのあと、生温かい水の中から身を起こした俺は、真っ暗な廊下をたどってどうにかこの部屋まで戻ってきた。だが、窓から顔を出していたはずのペーターはいなかった。もう捜す気力もなかったので、服が乾くのを待ってそのまま寝ることにした。最初はベッドで寝ようかと思ったが、あるじが帰ってきたときのことを考えてやめた。代わりにその寝台の上でくしゃくしゃに丸まっていた布きれを一枚拝借し、それを背中の下に敷いて眠りに就いた。


「……痛て」


 立ち上がろうと腰を浮かせたところで、節々に鈍い痛みを覚えた。こんな硬い床に薄っぺらな布団で寝たのだから当然だった。……やはり余計なことなど考えずにベッドで寝ればよかった。そんなことを思いながら俺は立ち上がり、ふとベッドに目を遣った。――ぼろぼろに朽ち果てたその寝台の上に、身体をくの字に曲げて静かな寝息を立てる少女の姿があった。


「……」


 唇をわずかに開いたあどけない寝顔をこちらに向けてペーターは眠っていた。服装はどうやら昨日のままで、元々そういう色だったのか、あるいは日に灼けての色か、淡いベージュのドレスの胸がゆっくりと上下していた。いや……おそらく日に灼けての色なのだろう。眩しい光の中に見るそのドレスはちょうど彼女が寝ているベッドのように粗末で、目を凝らせばところどころに染みが浮いていた。


 だ、と俺は思った。目の前で寝息を立てるペーターは今回の舞台のために練り上げられた《愚者》そのもので、まるでどこかの城から逃げ出した姫君がそのまま浮浪者になったようだ。


「……城」


 そう独り言ちて自分のいる部屋を見回した。どちらを見ても乾ききった土の壁だった。風化のためか壁の表面につなぎ目は目立たないが、破れた壁の近くの床に散乱する破片を見れば、やはりそれが煉瓦を積み上げて作られたものであることがわかる。壁から天井まで連なる大きな亀裂。時の流れの中に見捨てられた古の城――


「そうか……ここが城か」


 ここへ来る前、隊長にかけられた言葉を思い出した。


『彼女は孤独の中に心を病んでいる。荒れ果てた古城に一人寝起きし、見えざるものを見、声ならぬ声を聞いて日々を過ごしている。その彼女に対して、君には保護者を演じてもらう。ただ一人の理解者であるとともに、降りかかるすべてのものから彼女を守る騎士である、そうした役割を演じてもらいたい』


「……」


 寝台の少女に目を戻した。寝乱れた肩までの髪と古めかしいドレスが、その姿を俺が見慣れたものとは別のものにしている。だが、それはたしかにペーターだった。あの夜の庭園に見失った――死んだはずの恋人だった。


「ん……」


 ペーターが小さく呻いて寝返りをうった。その拍子にドレスの裾が捲れあがり、無防備な白い太腿が覗いた。


「……」


 俺は静かに歩み寄り、起こさないようにそっとドレスの裾を戻した。それから頭の側にまわり、かがみこんでその寝顔を見つめた。


 ……純真で無垢な寝顔だった。薄く開いた唇からかすかな音を立てて寝息が漏れていた。しばらく洗っていないのだろうか、艶のないぼさぼさの髪が顔にかかっていた。肌に触れないようにその髪をとりのけ、しばらくそんな彼女の寝顔に見入った。


「……」


 昨日、暗闇の中に彼女を追いかけたときのことを思い出した。だが、そのときに感じた激しい苛立ちは、記憶の隅に隠れて浮かんではこなかった。……目を覚ませば、またこいつは昨日のような狂態を演じるのだろうか。天使のような寝顔を見つめながらそう思い、できればこのままずっと眠っていてほしいと、半分真面目にそんなことを考えた。


『……グゥ』


「む……」


 その大きな音は俺の腹からだった。咎めるようにペーターの眉の間に皺が寄り、だがすぐ何事もなかったかのように元の寝顔に戻った。


「……」


 そこでようやく、自分が耐え難いほどの空腹を抱えていることに気づいた。考えてみれば昨日の夜から何も口に入れていないのだから当たり前だ。ひどく腹が減り、そして喉が渇いている。気を抜けばまた腹の音で、今度はペーターを起こしかねない。


「……」


 周囲を見回してみたが、食べるようなものは見あたらなかった。ひねれば水が出てくるような便利な設備も、もちろんなかった。……喉の奥にひりつくような乾きを覚え、食べ物はともかく水だけは早くどうにかしないとまずいと思った。気温はどんどん上がってきているし、このままでは脱水症になってしまう。だとしても、この乾ききった砂漠の真ん中に立つ廃城のどこに水が――


「――オアシス」


 ……水のある場所を思い出した。そう、ここは砂漠の真ん中にあって、水が湧く泉のあるオアシスなのだ。それに、その泉のまわりには椰子の林がある。昨日はよく見なかったが、あの赤い実はきっとナツメヤシだろう。だとすれば空腹も満たすことができる、ナツメヤシの実は食べられたはずだ。とりあえずあの中庭へ行ってみよう。そう思って立ちあがった。


「――ハイジ」


「……!」


「ん……ハイジ」


「……」


 ……ペーターの寝言だった。何度か俺の名前を呼んだあと、くすくすと小さな笑いが続いてその寝言は切れた。目覚めようとしているのだろうか。そう思い、しばらく待ってみたがペーターは起きなかった。いっそ自分で起こそうと寝台に足を向けかけ――だがやはりそうせずに、陽光のなか眠る少女を残して俺は部屋を出た。


◇ ◇ ◇


 廊下に出るとすぐ視界に青い靄がかかり、目が慣れるまでにしばらく時間がかかった。『王の間』と同じように土塊で固められた廊下には窓がなく、先々までうっすらとした闇が続いている。壁は充分に厚く頑丈にしつらえられているようだったが、やはりところどころで崩れたり、孔が空いたりしていた。小さい孔……大きな孔。そうした孔から差す陽光は、鋭い光の帯となって壁にくっきりした模様を描き、薄暗い廊下にあって灯火のように周囲を照らしていた。


 どのくらいそうして歩き続けただろう。やがて俺は大きく壁の崩れた一郭に出た。激しい太陽の光が降り注ぐそこは、昨日、暗闇をさまよい歩いていた俺がはじめて視界を得て、その破れ目から壁を乗り越えて城の外へ出た場所だった。


 月明かりの中にたたずむ少女の映像を想起した。


 ――何かに憑かれたような表情で月明かりに洗われる少女の姿を目にした場所だった。……あのとき、あいつはここでいったい何をしていたのだろう。今は眩しい光の中にあるそこに昨夜の情景を思い浮かべながら、俺は少しだけ彼女のことを考えた。けれども、すぐにその考えの糸は切れた。


◇ ◇ ◇


「うわ……」


 中庭に一歩を踏み出した俺は、思わずそう声に出して元の廊下に引き返しかけた。まるでサウナにでも入ったような暑さだった。空気は乾ききっているが、異様に暑い。ほんの少し歩いただけで額に汗がにじみ、にじむはしから塩になって肌に貼りついてくるような、そんな暑さだった。


 けれども少しも歩かないうちに、それが暑さではないことに気づいた。それは陽射しの激しさだった。降り注ぐ容赦のない陽射しが地面を焦がし、その熱が足下からもうもうと吹きつけてくる。手で触れることができないほど地面が熱せられていることは、実際にそうしてみなくてもわかる。ちょうどサンダルなしでは歩けない炎天の砂浜と一緒だ。


「……ふう」


 椰子の林に入り、それが陽射しの激しさであったことを改めて実感した。林と言っても数えるほどの椰子がまばらに生えているだけのそこには、それぞれの樹の下に人一人入れるていどの日陰しかなかったが、それでもその猫の額ほどの日陰に入るだけで折からの暑さはだいぶ和らいで感じられた。そのまま俺は腰をおろし、椰子の幹に背もたれた。


「……」


 頭だけおこして椰子の木を見上げた。5メートル……いや、10メートルはあるだろうか。枝のない幹は空に向かいまっすぐに伸び、その先には鋭い剣のような葉が幾重にも重なって広がっている。そしてその傘の下に、濃い赤色の実がたわわに実っているのが見える。間違いなくナツメヤシだった。


「……って、どうやって取りゃいいんだよ、あれ」


 思わず口に出してそう言い、辺りを見回した。梯子は……あるはずがなかった。長い棒のようなものがあればと、もう一度頭をめぐらせ……だがやはりそんな便利なものが転がっているはずもなかった。


『……グゥ』


「……」


 ……また腹が鳴った。食べられる物が目に入ったことで身体が反応したのだろう。だが取れない。あんな高いところにあるものをどうやって取ればいいのか……。たしかテレビで、こんな椰子の木に短いロープを使って器用にのぼっていく原住民の映像を見たことがある。だがここにロープはない。……あったとしても俺にそんな芸当はできない。


「……」


 周囲に転がっているのはせいぜい石ころだけだった。俺は手頃な大きさの石ころを拾いあげ、木の実の房に向かって投げた。石は的を外れ、小さく葉を揺らして空に吸いこまれていった。もう一つ、拾って投げた。今度は的に命中した。 ……けれども予想通りというべきか、木の実は一つも落ちてこなかった。


『……グキュルル』


「……」


 ……また腹が鳴った。もう一つ石を拾って投げた……当たらない。また一つ……当たったが落ちてこない。そうやって何個も石を投げているうち、俺は何だかばかにされているような気分になってきた。蓋の開け方がわからず、ガラス瓶の中の餌が取れない猿のようだ。なまじが見えているぶん余計に苛立ちが募る。……腹も鳴る。


「……くそ」


 むきになって立て続けに石を投げた。幸いなことに石だけはいくらでも落ちている。そんなことをしても無駄だということは何となくわかっていたが、それでもひょっとしてうまくいくかも知れないというかすかな期待もあって――空腹のために思考が短絡的になっているのだと気づかないまま、俺はただ闇雲に石を投げ続けた。


「……ん?」


 何個目になるかわからない石を拾いあげようとしたところで、ふと、乾ききった黄土色の地面の上に濃い赤色がまばらに散らばっているのが目についた。そのうちの一つを拾いあげて、見た。……乾燥した実だった。赤色というより褐色に近いしわくちゃのそれは、どうやらもうずっと前に自然に落ちたあの赤い実のようだった。


「……ドライフルーツか」


 正しく乾燥した果実だった。ナツメヤシの乾果は……何といっただろうか。たしか……そう、デーツだ。菓子によく使われる割とポピュラーなドライフルーツだと、いつかアイネからそんな話を聞かされた覚えがある。もっとも俺はその実物を見たことがない。だからこれがそのデーツと呼ばれるものか、正確にはわからない。


「……」


 つまむ指に力を入れてみるとゴムのような弾力がある。どうやら腐ってはいないようだ。熟し切って落ちた実が、この乾燥の中で腐る前に干乾しになってしまったのだろう。だとすればこれは天然の乾燥した果実だ。まるでこのオアシスに迷いこんだ旅人のために、神様があらかじめ用意してくれておいたような……。


「……けど、拾い食いだよな」


 文字通り、拾い食いだった。……いや、違う。そもそも拾い食いというのは、を拾って食べることをいうのであり、卑しい行為には違いないがまだわかる。……今、俺がしようとしているのは、そんな生やさしいものではない。あやふやな知識を根拠に、食べられるかどうかもわからないものを拾って口に入れるなんてことは、いくら何でも――


『……グキュルキュル』


「……」


決断を迫るようにまた腹が鳴った。頭ではどうあれ、身体の方ではこれを食べ物だと認識しているのだと、そんな都合のいい言い訳が浮かんだ。そう、これは食べ物なのだ。そう自分に言い聞かせながら、俺はゆっくりとそれを口に運び――囓った。


「……っ~!」


 甘かった。思わず絶句して顔をしかめるほど、その実は甘かった。二口、三口と囓る。味は干し柿に似ていたが、比べものにならないくらい甘かった。空腹のためにそう感じたのかも知れない。だが理由がどうあれその乾いた実は砂糖をまぶしたように甘く、デーツという名で呼ばれるドライフルーツ――あるいはそれに近いものと考えて良さそうだった。


「……」


 よく見ればそれは辺りに無数に落ちていた。どこか後ろめたいような釈然としない気持ちのまま俺はその実を拾い集め、できるだけ形の良いものを選んで丹念に汚れを落としてから食べた。濃い甘さのためかそれほどの数を食べないうちに空腹は癒えた。

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