298 出撃と葬送(11)

 扉を開けた先に広がる部屋は、もうだいぶ明るかった。壁に穿たれたまどからは黎明のほのかな光が、まるで細かな砂粒のように舞いこんできている。後ろ手に扉を閉めながら俺は部屋の中を見渡し――すぐにルードの姿を認めた。


 部屋の隅に半分崩れかけた柱の陰、光の届かないその場所にルードはいた。壁に背もたれ、両脚を床に投げ出して座っている。頭はうなだれたまま上がらない。その目がこちらを見ることはない。ただぎこちなくもたげられた右腕の先には銃があって、その銃の口は真っ直ぐこちらに向けられている。


 ――恐怖はなかった。ちょうどさっきの戦場で途中からそうなったように、自分に向けられた銃口に俺はわずかな恐怖も感じなかった。


 あるいは神経が麻痺してしまったのかも知れない。そんなことを思いながら、俺はルードのいる方に向かい、一歩を踏み出した。


 ルードの腕がわずかに動き、俺はすぐに足を止めた。……だが、それだけだった。銃撃がないのを確認して、俺は二歩、三歩とルードに歩み寄った。


「……何でだ」


 あと数歩の距離まで近づいたところで、ルードは初めて口を開いた。


 声にはまだ力があった。それでも苦痛の下から絞り出した声であることは否めなかった。腹から胸、そして股にかけて赤黒く広がった染みがすべてを物語っていた。


 右手に構えた銃をこちらに向けたまま、頭をあげないままルードは続けた。


「……殺しに来たんだろ? おいらを」


 そこまで聞いて、『何で』の意味がわかった。殺しに来たのに何で銃を持っていないのか、それをルードは聞いているのだと思った。


 だが、それは違っていた。俺が答えを探しているうちにルードはまた口を開いて、言った。


「……おいらと、同じ目に遭ってもいいのか?」


「……」


「お前は、撃たれるのが……死ぬのが、怖くないのか?」


 その質問に、俺は答えられなかった。


 置き去りにしてきたものを急に目の前に突きつけられた気がした。ルードの言う通り、今の俺は死を恐怖していない。「何でだ」と、ルードはもう一度同じ言葉を繰り返した。


「……なあ、答えてくれ。おいらが指に少し力をこめるだけで、お前は死ぬ。なのに……何でだ。何でそんな平気でいられるんだ?」


 なぜだろう? 俺はその場に立ち尽くしたまま、頭の中にその理由を探した。


 まず浮かんだのは、あのときと同じ理由だった。俺が今ここで死ぬはずがない。――けれどもそれは違うと思い直した。さすがに外す距離ではなかったからだ。今ここでルードの指が動けば、その弾は確実に俺の身体を貫く。


「……試してみてもいいか? 実際そうなって、それでもお前が今と同じ顔をしてられるか」


 ふっ、ふっと力のない声でルードは笑った。その直後、腹に添えていた左手を口にあて、激しく噎せた。


 手と顔の間から赤い飛沫が飛び散るのが見えた。咳きこんでいる間も銃口はずっとこちらに向いていた。それが治まったあと、ルードは左手を腹に戻し、かすれる声で「怖い」と言った。


おいらは……怖い。死ぬのが……このまま消えてなくなるのが怖い」


 気がつけば、銃の先は震えていた。ルードの右手が――右手だけではなく全身が、寒さに凍えるようにぶるぶると震えていた。


 血を流しすぎたためか、それとも別の理由によるものかはわからなかった。ただルードが今まさに死のうとしていることは、はっきりとわかった。そうしてルードが真剣にその質問の答えを俺に求めているのだということも。


 なぜだろう? そこに至って俺は真剣にその疑問について考えはじめた。なぜ俺はあの銃に撃たれることを恐れないのだろう? なぜルードのように死の恐怖を感じないのだろう?


 いや――死の恐怖は俺にもある。


 人間である俺がそれを感じないはずはない。物心ついた頃から今日まで、俺は人並みに何度もその恐怖を感じてきた。底のない真っ暗な谷を覗きこむような恐怖。死というものに向かい合ったとき、人間が感じずにはいられない普遍的な恐怖……。


 だが、ない。その恐怖がまったくと言っていいほど、今の俺にはない。


 ……本当になぜなんだろう、と考えた。撃たれないという確信は、ここにはない。撃って外す距離ではない。ルードの指が動けば、おそらく俺は死ぬ。それでも俺はルードが感じているような死の恐怖を感じずにいる。その理由は――


「そうか……戻るだけだからだ」


 ――考えるまでもない、簡単な理由だった。


 ここで俺が死ねば、元いたあの世界に帰るだけだから……それだけのことだ。だから俺はここでは死の恐怖をまったく感じないでいられる。そのことをはっきりと悟って、もう一度ルードに向かい、言った。


「どうせ戻るだけだからだ。元の世界に」


「……?」


 そこで初めてルードは頭をあげた。口の周りがべっとりと血に塗れた顔に、きょとんとした不思議そうな表情を浮かべて、光の消えかけた目でじっと俺を見つめた。


「消えてなくなったりしない。死んだら、こことは別の場所に戻るだけだ」


 ――言いながら俺は、それが嘘かも知れないことに気づいた。


 確かに俺は死ねばそこに戻る。だがルードも同じように戻るとは限らない。がどこからルードを引っ張ってきたのかわからない以上、俺がいたあの場所にルードが戻るのかはわからない。それでも――


「ルードは、もうすぐその場所に戻る。ただそれだけだ。消えてなくなったりはしない。だから怖がる必要なんて、ない」


 あの出撃前の広間で、ぐちゃぐちゃの心をどうすることもできないでいた俺を救ってくれたルード。死を目前に控え、捨て鉢になって尊厳さえ失っているルード。そのルードの心を、今度は俺が救う番だと思った。


 一歩、近づいた。銃声は響かない。二歩、三歩と近づいた。やはり銃声は響かない。


 やがて俺はルードのそばまで来ると、その隣に腰をおろした。誰もいなくなった虚空に向けられていた銃が、ゆっくりとおろされた。消え入るような声でルードが何かを呟くのが聞こえた。


「ん?」


「どういうとこだ……そこ」


「……昨日話したとこだよ」


「忘れちまった……もっかい聞かせてくれ」


「うん、まず水がある。ここと違って」


「……地べたを流れているんだっけな」


「ああ。水があって、緑がある」


「……緑?」


「そう、緑。木や草がある。水があるから木や草があって、鳥や虫や……色んな生き物がいる」


「……」


「人も、ここみたいに争わない。少なくとも水や食べ物のために殺し合ったりはしない。……いや、そういう国もあるのかもな。けど、違う。俺が元いたあの場所は……ルードがこれから戻るところは、違う」


 ルードはもう何も聞いてはこなかった。それでも俺は、自分が元いた世界のことをしばらくルードに語って聞かせた。


 何をどう話したのかわからない。気がつけば窓の外に、太陽が地平から顔を出すところだった。


 くっきりとした力強い陽光が柱の陰を消し、ルードの顔にかかる。眩しそうに、わずかに眉をしかめるルードの顔を横目に見た。


「……陽が昇るな」


「ああ」


 相づちを打つ俺に、ルードは右手を差し出した。その手にはグリップをこちらに銃が握られていた。無言で俺はその銃を受け取った。「頼む」と、ルードが言った。


「……ああ」


 銃を手にルードの前に立った。


 生まれたばかりの朝陽の中にルードは目を閉じ、血塗れの口元にかすかな笑みを浮かべていた。その口が動き、「あんがとよ」と言葉を紡いだ。


 俺は銃を持つ腕を伸ばし――胸の真ん中に照準を合わせ、引き金を引いた。


 銃声。


 ぽっかりと空いた胸の穴から夥しい血が噴き出し、床一面に広がっていった。ルードの身体は数回小さく痙攣して、すぐに動かなくなった。硝煙の臭いが消えたあとも、俺はしばらくそのままでいた。


 ――どれほどそうしていたのだろう。あるいはほんの短い時間だったのかも知れない。振り返れば、そこには仲間がいた。


 いつ入ってきたのだろう。どれも一様に神妙な仲間たちの顔が、ひとつの役目を終えたばかりの俺を迎えた。


◇ ◇ ◇


 仲間たちと別れて部屋に戻ったときには、もうだいぶ日が高くなっていた。


 部屋に着いてすぐアイネは食事を摂りはじめ、俺にも勧めた。けれども断った。とても喉を通るような気分ではなかった。それなら水だけでも飲めと言われ、最初はそれも断ったが、この砂漠で水を摂らないことの危険を思い出して、少しだけ飲んだ。


 身も心も疲れ果てていた。何も考えずに眠りたい、ただそれだけを思った。


 だが尖りきったままの精神が俺にそうすることを許さなかった。目を閉じれば瞼の裏にルードの姿が映った。右手にはその胸に向かいトリガーを引いたときの感覚がまだはっきりと残っていた。


「――上手だった。さっきの」


「……何が?」


「わたしにはとても無理。よく咄嗟にあんな出任せ」


 ブロックを囓りながら、感心したような声でアイネは言った。慰めでも気休めでもない本音だということが声の響きからわかった。


 そんな彼女の言葉に、俺は小さく溜息をついた。張り詰めていたものが少しだけ弛んだ気がした。


「……聞こえてたのか」


「あんな大きな声で喋ってれば、誰でも聞こえる」


「出任せなんかじゃない」


「え?」


「ルードに話したあれは出任せじゃない。ぜんぶ本当のことだ」


 俺がそう言うとアイネはブロックを囓るのをやめ、じっとこちらを見た。しばらくそうして黙っていたあと、「そこって例の場所?」とアイネは言った。


「ん?」


「わたしとハイジが仲間だったっていう場所? そこって」


「ああ。そうだ」


「ふうん、そう」


 あまり興味がなさそうにそう言うと、アイネはまたブロックを囓りはじめた。


「アイネは本当に覚えてないのか?」


「何のこと?」


「その場所のこと」


「覚えてない」


「そうか」


「けど」


「ん?」


「ハイジの言うようなとこなら、そこへ行くのもいいかも。死ねば、わたしもそこに行くんでしょ?」


 ペットボトルから口を離して、天気について尋ねるような調子でアイネは言った。


 一瞬、俺は絶句した。何かとんでもない間違いを犯してしまった気がした。それが何かわからないまま、「ああ」と返事をした。


 そう……いずれにしてもアイネはそこに戻る。この劇が終われば、俺たちが元いたあの世界に――


「ひとつだけ、わからないんだけど」


「……何が?」


「わたしとハイジは仲間だったんだよね? その場所で」


「ああ」


「殺し合いがないのに?」


「……?」


「殺し合いがないのに仲間ってどういうこと? 想像がつかないんだけど」


 そこまで聞いて質問の意味がわかった。言葉通りの意味だ。殺し合いの他に何もないこの世界で、それ以外の仲間がどういうものかアイネには想像できないのだ。


「演劇だよ」


「演劇?」


「そう、演劇。その場所で俺たちは、同じ演劇の舞台に立つ仲間だった」


 ……伝わったはずはなかった。演劇がどんなものであるかも、舞台という言葉の意味も、アイネにはまるで理解できなかったに違いない。


 だがアイネはそれ以上、何も尋ねてこなかった。何も言わずしばらく食事を続けたあと、ふと思い出したように懐から俺の銃デザートイーグルを取り出し、床の上を滑らせてこちらによこした。


「面倒臭いんだね、その銃」


「何が?」


「その小さな弾。最初はわからなかった。そんな弾、誰の銃にも入ってないから」


「ああ……BB弾これのことか」


 マガジンを外すと、中に入っていたBB弾が小さな音を立てて床にこぼれ出た。つまみあげ、目の前にかざす。


 ……何の変哲もないプラスチックのたまだった。なぜこんなもので人が撃ち殺せるのか、自分でそうしておきながら俺にはまったくわからない。


「その小さな弾のことは、秘密にしておいた方がいいと思う」


「どうして?」


「それが『魔弾』の正体だってわかったら、みんなその銃を欲しがるから」


「そうか。……そうかもな」


 アイネの言うそれを、俺はここまで思ってもみなかった。だが言われてみれば、その通りなのかも知れない。


 他の誰もたおせない《黒衣の隊》の男を俺が斃せたのは、あるいはこの小さな弾のためだったのかも知れない。けれども、今はそんなことはどうでもよかった。


 そこで俺は、頭の奥に眠気のかけらのようなものが生まれていることに気づいた。アイネと話したことで緊張がほぐれたのか、ようやく眠りに就けそうな気がする。


「眠くなってきた」


「なら、眠れば?」


「そうする」


 帆布袋から毛布を引き出し、頭からかぶった。ざらついた砂の感触が首の裏にあったが、それももう気にならなかった。何も考えず、眠ることに集中しようとした。


 だがそこで、部屋と通路とを隔てる扉が小さく三回打ち鳴らされる音を聞いた。


「誰か来たみたい」


「……みたいだな」


「ハイジ、出て」


「また俺かよ……アイネが出ればいいだろ」


「たぶん、わたしの客じゃないから」


 突き放すような口調でアイネは言った。……またリカだろうか。釈然としないものを感じながら俺は毛布をはね除け、立ちあがった。


 扉の鍵を開けてノブをひねった。……リカではなかった。そこに立っていたのは、ゴライアスだった。


「さっきの話」


「え?」


 予想もしなかった相手に戸惑っている俺に、ゴライアスは真剣な表情で思い詰めたように言った。


「さっきの話、もっとよく聞かせてほしい」

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