299 二人の預言者(1)
「ふあ……」
一緒に何かが抜け出ていってしまうような大欠伸だった。
乾ききった熱がこもる薄暗い廊下。この廃墟に身を置くようになってもう四日目だが、この不自然な暑さだけはどうにも慣れない。ここへ来るまではむしろ不快だったあちらのじっとりとした暑さが、今は恋しくてならない。
陽光のもとに輝く濃緑の木々、もうもうと立ちこめる蝉の鳴き声――梅雨明けの町に別れてきたそんな初夏の皮膚感が、無性に懐かしく感じられる。……ただそんなことを思うのも、ついさっきまでしていた話のせいなのかも知れない。
「ふわあ……」
そう思うはしからまた欠伸が出る。睡眠が足りていないのだから無理もない。
昨日――というより今朝は、ゴライアスに求められるまま、向こうの世界のことをあれこれと話して聞かせた。真剣な顔つきで聞き入るゴライアスを前になかなか話を切ることができず、結局、日が高々とのぼるまで話し続けてしまったのだ。
俺がするその話を、最初の方こそアイネも聞いていたようだったが、しばらくもしないうちにおやすみと言って部屋の隅で寝に入った。まだ肌寒さが残る頃だったから、普段通りの就寝時間ということなのだろう。
俺がゴライアスから解放され、眠りに就くことができたのはそれからだいぶ経ったあとだった。それでもこうして彼女より早く起きてしまったのは、自然の摂理に従ってやむをえず、といったあたりだ。
この廃墟にも一応、便所はある。お世辞にもまともな便所とは言えないが、あるにはある。広い世界にはそれがない地域も多いのだから、あるだけでも満足しなければならない。それに救いがあるとすれば備えつけの紙が――たとえそれが得体の知れない文字の並ぶ古びた冊子のページであったとしても――ちゃんと用意されているということだ。
もっとも、その便所を使う回数はそれほど多くない。用を足す回数そのものが少ないのだ。食べ物はあればかりだし、最低限の水分しか摂っていない上に汗でほとんど出てしまうのだから、それも当然だろう。
ここへ来てからというものまるで身体が気候に合わせて作り変えられたように、生理的なリズムさえ元通りではなくなってしまったように思う。
「……ん?」
部屋への帰り道にふとかすかな音を耳にし、足を止めた。どこからともなく聞こえてくるそれは、どうやら口笛のようだ。何となく誘われる思いで、その音のする方へ向かった。
しばらく歩いて、扉が開いたままになっている部屋を見つけた。口笛はその部屋から聞こえてくる。中を覗くと、そこにはDJの姿があった。
DJは向かいの壁の窓に座り、銃を手慰んでいた。長身の背を丸めて窓枠に背もたれている様子は、窓に座っていると言うよりはまっていると言う方が近い。
部屋の中には他に誰もいない。がらんどうの部屋には窓からの陽射しがつくる濃い明暗と、少し調子の外れた口笛の調べの他に、何もない。
「そんなとこに突っ立ってないで入ってこいよ」
不意に口笛を吹くのをやめると小さな、けれどもよく透る声でDJは言った。その視線はこちらを見ず、半ばまで組みあがった手元の銃に注がれている。
言われるまま俺は部屋に入った。DJのいる壁際まで行き、少し迷ったあと、その隣の窓に背を外に向けて腰かけた。
それからDJはしばらく口を開かなかった。それ以上なにを話しかけてくることも、口笛を再開することもなかった。
かちゃかちゃと銃を弄ぶ小さな音が一頻り部屋に響いた。初めて間近に見るそれは、こいつが向こうで愛人と呼んでいたAK74に間違いない。やがてDJはその手を動かしながら、低いぼそっとした声で「昨日は悪かったな」と言った。
「……何が?」
「ルードの始末を頼んだことだ。危険な役回り押しつけて悪かった」
DJの意外な一言に、思わずその顔を見守った。
ここ数日見てきた限り、DJは冷徹な独裁者だった。隊の誰からも信頼され、同時に恐れられるカリスマと言ってよかった。その口から出た自分の非を認める言葉は、わけもなく俺を据わりの悪い、どこか落ち着かない気分にさせた。そのあたりは別にしても、軍隊の統率者が部下に弱みを見せるのは色々な意味であまり良くないのではないだろうか。
「……そんなこと言っていいのか?」
「ん?」
「自分の出した命令否定するようなこと言ったらまずいだろ。隊長が」
「ああ、今回は特別だ」
「……」
「成り行きでああいうことになったが、本当ならオレの仕事だったわけだからな、あいつに
「……そうか」
「ま、その危険も無駄じゃなかったろうけどな。連中がおまえさんを見る目も、今日からはちっとばかり違ってくるだろ」
そう言ってDJは口元に薄い笑みを浮かべた。その笑みの意味はよくわかった。部隊の人間に俺を仲間と認めさせるのに、あれは格好の機会だったと言いたいのだ。
……確かにその通りかも知れない。改めて思えば命懸けだったあの任務のおかげで、スパイだの何だのと煩かった声も、今後は少しばかり静かになってくれるに違いない。
そこに至ってようやく、自分が隊長であるDJに対してタメ口で喋っていたことに気づいた。……だが、どうやらそれで問題なかったようだ。思えばアイネも同じような口の利き方をしていたし、何よりこいつを相手に敬語など使う気にはなれない。劇の中だとわかっていても、まだそのへんを割り切ることができない。
こうやって二人で話しているとそのあたりをいっそう強く感じる。会話が始まってすぐに起こった違和感は、今こうしている間も消えることなく続いている。DJと同じ顔をした誰か別の人間と喋っているような違和感――こいつとの長いつきあいの中で『おまえさん』などと呼ばれたことは、これまでただの一度もなかったのだ。
だがそんな俺の心を見透かしたように「なあハイジ」と、向こうで聞いていたそのままの気の抜けた声がかかった。
「ん?」
「初めて会ったとき……つっても一昨日の話だが、オレとは仲間で、そして友だちだった、とか言ってたよな? ここへ来る前にいたっていう場所で」
「ああ、言った」
「それ、何だ?」
「え?」
「友だち、ってのだ。仲間はわかるんだが、その友だちってのがよくわからねえ。それはいったいどういうもんなんだ?」
その唐突な問いに、すぐには返答を返せなかった。なぜDJがそんなことを聞いてくるのかもわからなければ、質問の意図するところもわからなかった。
だが少しだけ考えて、こいつは素で聞いているのだと理解した。戦争と略奪しかないここに利害絡みの仲間はあっても、そこから離れた友だちというものはそもそも存在しないのかも知れない。
……にしても、「友だちとは何か」とはひどく難しい論題だった。しかもそんな質問をよりによってこいつからされるとは思わなかった。
ただ、思い返してみれば昨日アイネにも似たようなことを聞かれた気がする。殺し合いのない場所での仲間とはいったい何なのか、と。……結局はそういうことなのだろう。おそらく二人の質問は、根っこの部分で同じことを聞いているのだ。
「……まあ簡単に言えば、一緒にいて楽しいやつのことだな」
「はあ? 何だそりゃ?」
「無駄なことを一緒にやって、それでお互い楽しくなれるやつのことだ」
俺の回答にDJは口を閉ざした。相変わらずこちらを見ず、手元の銃に目を落とすぼんやりとした顔からはどんな感情も読みとれない。聞いているかどうかも怪しいものだと思った。それでも俺はつらつらと思い浮かぶままにその話を続けた。
「ここでのことに比べれば、俺がいた場所でのほとんどは無駄なことだ。命懸けで何かするなんてことは滅多にないし、殺したり殺されたりすることも、普通はない」
「……」
「逆に言えば殺し合わなくても生きていけるし、無駄なことをする余裕がある。だから俺たちはそれをするし、その中で楽しもうとする」
「……」
「けど、一人じゃあまり楽しめないんだ。無駄なことは一人でやっても楽しくない」
「……」
「それを一緒にやって楽しいのが友だち、ってことになるんだと思う。うまく言えないけど、たぶん」
「何だよ? そいつは」
「え?」
「オレとおまえさんが一緒にやってた、その無駄なことってのは何だ?」
そのDJの問いかけで、昨日の話とひとつに繋がったのがわかった。やはりあのときのアイネと同じことをDJは俺に訊いてきたのだ。だからそのときと同じように「演劇」と俺は答えた。そしてDJの声で、あのときのアイネと同じ返事が返ってくるのを聞いた。
「演劇?」
「そう、演劇」
「どんなもんなんだよ、その演劇ってのは?」
だがDJの質問はアイネのようには終わらず、さらに一歩踏みこんできた。答えを口にしかけて……俺は詰まった。
演劇とは何か――これもまたひどく難しい論題だ。何だかさっきからこの男には、ほとんど哲学に近いことばかり訊かれている気がする。それでもこの質問に答えないわけにはいかない。DJのためというよりむしろ、その演劇に関わる者のはしくれである自分自身のために。
「……演劇ってのはだな、人が見てる前で作り物の世界を演じてみせることだ」
「作り物の世界?」
「例えば……そうだな。俺があんたの代わりに隊長だったとして、何をどうするかってのをみんなの前で見せる……ってとこか」
「おまえさんの入隊試験で、ルードのやつがやってたようなもんか?」
そんなDJの質問に、俺は少し考え込んだ。
ルードが隊長の振りをして俺を試そうとしたあのときの試験――確かにルードがしていたのが『芝居』という点ではその質問に対する答えはイエスだ。
だが、あれが『演劇』かというと、やはり少し違う気がする。厳密な『演劇』の定義に照らした場合、あれのどこがどう違うかというと……。
「まあ、あれと似たようなもんなんだけど、違うのはルード以外のやつが俺とルードの遣り取りを観てるだけ、ってことだな」
「はあ? なんだそりゃ」
「その演劇ってのは、『役者』ってのと、『観客』ってのがいて初めて成り立つんだ」
「ふむ」
「『役者』ってのは、あんたの代わりに隊長の振りしてたルードみたいに、誰かの振りして振る舞うやつ」
「『観客』ってのは?」
「ただ観てるだけのやつ」
「そうなると、あの場でいやノーマやヒダリテとかか」
「いや、違う。彼らは『観客』じゃない」
「何でだ? あいつらは観てるだけだったじゃねえか」
「ノーマもヒダリテも、あんたが一声かけりゃ俺を撃っただろ」
「そりゃまあな」
「あんたが一声かけたら俺を撃つやつは『役者』の方。『演劇』の『観客』ってのは本当に観てるだけなんだ。たとえあんたが撃てって言っても、逆にあんたが殺されても動かない」
「ふむ。だったら、ノーマとヒダリテが『観客』ってことにするか」
「いや、わかりやすくするために俺とあんたとルードだけが『役者』ってことにしよう。他は全員『観客』ってことで」
「ふむ」
「役柄はそのまんま。ルードが隊長じゃないのに隊長の振りをする役。あんたが隊長なのに隊長じゃない振りをする役。俺はそのこと知らずにのこのこやってくる役」
「なるほど。……で?」
「俺はルードのこと隊長だと思って話しかける。ルードは隊長の振りして適当なこと喋る。その横であんたは素知らぬ顔で相槌うってる」
「そんで?」
「他のやつらはそれ観て楽しむんだ。本物の隊長のあんたが隣で知らん顔してるのに、俺がルードに取り入ろうと必死になってるのを観て、それ観てるやつらは可笑しくて笑う」
「……かも知れねえな」
「それが演劇だ。そうやって人を楽しませるのが演劇ってものなんだよ」
そこで俺は話に区切りをつけた。
あまりうまい説明ではなかったが、どうにか形になったと思った。
……と言うか、俺がこうしてDJと話しているこれがそもそも演劇以外の何ものでもないのだが、さすがにそれを口にすることはできない。
しかし、それにしても滑稽な流れになったと思った。紛れもない演劇の中にあって、その演劇とは何かを説明するため頭をひねっている。長くヒステリカで演技してきたなかでも、ここまで屈折した展開はちょっと記憶にない。……あまつさえ年来の友人に友だちの意味を語ったあとにこれなのだから、屈折しているにもほどがある。
一段落ついた俺の説明に、DJは小さく鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。しばらくかちゃかちゃと手元に銃の音を響かせていたが、そのうち思い出したように「あんま楽しそうじゃねえな」と呟いた。
「そうか?」
「ああ。観てる方はともかく、『役者』やってる方は何が楽しいんだかまるでわからねえ」
「そうか。まあ、そうかもな」
「だいたいあいつら笑わせて何になる? まったくの無駄じゃねえか、そんなのは」
「ああ、だから無駄なんだよ」
「……」
「最初に言っただろ。ここでのことに比べれば、俺がいた場所でのほとんどは無駄なことだって」
「……言ってたな、そういや」
「あんたの言うとおり、まったくの無駄だ。演劇なんてものが無かったとしても、誰も死なないし困らない。そういう無駄なことをずっと一緒にやってきたんだよ、向こうでの俺とあんたは」
「……それが友だちってやつか」
「そういうこと」
「へっ、わかったようなわからねえような」
そう言ってDJはまた口元に笑みを浮かべた。さっきと何も変わらないその顔を、けれども俺はさっきとはだいぶ違う気持ちで眺めた。
しばらく他愛もない話をしたせいか、こちらでのこいつともあるていど打ち解けてきたようだ。目の前にいる男は、俺のよく知るあちらのDJではなかった。だがさっきからしきりに感じていたそのDJと同じ顔をした誰か別の人間と喋っているような違和感は、もうなかった。
「あとは?」
「ん?」
「オレたちが一緒にやってた無駄なことってのは、その演劇とかいうのでぜんぶか?」
「いや、他にもある。あとは……そうだな、サバゲか」
「どんなもんだよ、そのサバゲってのは」
「ああ……撃ち合いだよ、言ってみれば」
「あ?」
「銃での撃ち合い。それをゲームにしたもの」
「ここと一緒じゃねえか」
「……まあ、似たようなもんだけど」
「何だそりゃまったく。人が真面目に話聞いてりゃ」
そう言うとDJは何が可笑しいのか笑い出した。最初小さかったその笑い声は次第に大きくなり、手元の銃に目を落としたまま身体を震わせてDJは笑った。
その笑う姿があまりにも向こうでのそれとそっくりだったから、俺の中で燻っていた違和感の名残はその笑いにのまれ、きれいに流れていった。
「ははは、ははは……」
「そんなに笑うなって」
「はは、はは。だって、おかしいじゃねえかよ。はは」
「だいたいそのサバゲってのは、こっちのとは少し違うんだ」
「あ? どう違うんだよ?」
「銃で撃ち合いはするけど、死なないんだ。弾が当たっても誰も死なないし、身体に穴も
「はははは! 余計におかしいだろ! 弾が当たっても死なねえって、なんだよそりゃ! ははは!」
「そういうゲームだっての。ああ、笑うなよもう」
「ははは、ははは……」
「笑うなって。だいたいそのサバゲに俺を引きこんだのはDJなんだぞ。それを――」
不意に喧しかった哄笑がやんだ。目をやるとDJは初めて手元の銃から視線をあげ、まじまじと俺の顔を見つめていた。
なぜ急に笑うのをやめたのだろう……考え始めてすぐ、自分が大きな失態を犯したことに気づいた。
たった今、俺はこいつのことをDJと呼んでしまった。この隊における最大の禁忌を本人の前で犯してしまった――そのことに気づいた。
「……」
ぞくり、と戦慄を覚えた。いつの間にか
――どれほどの時間があったのだろう。やがてDJはふっと鼻で息を吐くと、窓の外に視線を移して、言った。
「どういうわけだろうな」
「え?」
「おまえさんにはその名前で呼ばれても、不思議と嫌な気分にならねえ」
「……」
窓外にはまだ衰えない陽光が、荒れ果てた街を静かに灼いていた。そんな窓の外をぼんやりと眺めるDJの顔には、憂いとも諦めともつかない複雑な表情が浮かんでいるように見えた。
そんな姿を、俺は何も言えずただ黙って見守った。
やがてDJはやおら頭を窓の外に出すと、その下を覗きこむようにして「やっと来たか」と言った。
首をまわし、わずかに身を乗り出してその視線の先を見下ろした。DJが座る窓の真下、昼下がりの容赦のない陽射しの中に横たわる身体があった。――ルードだった。
そしてもうひとつ、その身体に向かいゆっくりと近づいてくる黒い影があった。
『蟻』は昨日俺の目の前でそうしたように袋を広げ、そこにルードの死体を載せてファスナを閉じた。それから荷縄を肩にかけ、またゆっくりした足どりで元来た道を戻っていった。
そんな出来事を、DJは黙ったままぼんやりと見ていた。俺も同じように、何も言わずそれを見つめていた。
ルードだったものをその背に曳いて、『蟻』はゆっくりと陽炎の中へ消えていった。その黒い影が完全に見えなくなるまで俺は――俺たちは一言もなく、灼熱の太陽に炙られるビルの谷を眺めていた。
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