300 二人の預言者(2)

 部屋に戻るとアイネはまだ眠っていた。


 陽射しの感じからするともう結構な時間だが、部屋の隅っこで毛布を穏やかに上下させる寝姿は、便所に出るときに見たそれと変わりない。


 出撃のない日はこうして寝て過ごすということなのだろうか。あるいは歴戦の彼女にとっても昨夜の戦闘はこたえたのかも知れない。……組んでまだ日もない、不慣れなくせに向こう見ずな相棒のために。


 アイネが寝ているのでは俺だけ起きていても仕方がない。そういえばろくに寝ていなかったのだと思い出し、毛布をかぶって二度寝に入ろうとした。……けれどもさっきの件ですっかり覚醒してしまった頭は、どこかに眠気を残しながらも再び寝入ろうとはしなかった。


 そこへ追い打ちをかけるように空腹がきた。俺は早々に寝るのを諦め、その場に身を起こした。そうしていつの間にか傍らに用意されていた固形食の袋を破り、ラベルのないペットボトルの封を切った。


 その食事もあらかた終わった頃に、アイネはようやく目を覚ました。


 何の前触れもなくむっくり起きあがると、ぼんやりした視線をこちらに向け、「水ある?」と訊ねてきた。


 俺は手元にあった飲みかけのペットボトルの蓋を閉め、そちらに向けて床の上を転がらせた。少し離れた位置で転がるのを止めたそれを這いつくばるようにして手に取り、蓋を開けるなりごくごくと喉を鳴らせてアイネは水を飲んだ。


「今日は遅いんだな、起きるの」


 何気ない俺の問いかけに、アイネからの返事はなかった。口から離したペットボトルを持つ手を胸の前で静止させ、ぼんやりとした目で宙を見ている。……あるいは、まだ半分眠っているのかも知れない。


 そういえばアイネの寝覚めに立ち会ったのはあちらとこちらを通じてこれが初めてだと気づいた。少し寝癖のついた短い髪に新鮮な印象を覚えたところで、声が返ってきた。


「……どこ行ってたの?」


「ん?」


 ぼうっとした顔をそのままに、視線だけこちらに向けてアイネは言った。


 飲み干したペットボトルを床に置き、代わりに固形食の袋を拾い上げてその封を切る。鳥が餌をついばむようにブロックをその口にくわえた後も、こちらを見る眠そうな目は変わらなかった。


「どこかへ出てたでしょ、さっき」


「起きてたのか?」


「起きてたんじゃなくて、起きたの。扉の音で」


「ああ……だったらごめん。便所だよ」


「そう」


 と、素っ気ない返事を返してアイネは口にくわえたものを囓り始めた。それきり黙々と、ブロックを袋から取り出して口に運ぶ作業を繰り返す。


 起き抜けの顔にはうっすらと汗が滲んでいるのが見える。もっとも、あと数分もすればその汗も、この乾ききった大気の中に消えてなくなるだろう。


「ああ……あと隊長と喋った」


「……?」


「便所の帰りに隊長につかまって、そこで少し話した」


「……何のはなししたの?」


「向こうでの話」


「向こう?」


「ここへ来る前にいた場所の」


「ああ……またその話」


 つまらなそうにそれだけ言い、アイネはブロックを囓る作業に戻った。


 しばらくまた無言で乾いた音を響かせていたが、食べかけだった袋を空にしたところで思い出したように、「隊長までそんな話聞きたがるんだ」と小さな声で呟いた。


「いや、別に聞きたがったわけじゃない」


「なら、どういうわけ?」


「俺が口にした言葉の意味がわからない、って聞いてきた」


「向こうでの言葉?」


「え? ああ、そう。向こうでの言葉」


「同じじゃない、それなら」


「そうか? ……まあ、そうか」


「何て言葉?」


「『友だち』」


「……ああ、言ってたねそういえば。最初の試験のときにそんなこと」


 そう言ってまたアイネは黙った。それ以上DJとの会話をただすことも、「友だち」の意味を聞いてくることもない。


 ……DJが知らなかったその言葉の意味を、アイネは知っているのだろうかと思った。この際だから聞いてみたい気もしたが、何となくそうすることが躊躇われた。


 一袋食べ終えたところで、アイネは新しい袋には手を伸ばさなかった。さすがにもうその顔に眠そうなものは残っていない。だが食事を終えたあともアイネは何をするでもなく、まるで俺などいないかのようにぼんやりと窓の外を眺めている。


「今日は、何かないのか?」


「……何かって?」


「出撃とか」


「ない。昨日でだいぶ補給できたってことだから。水も食糧も」


「なるほど」


「目障りだった『猿』は潰せたし、当分は出ないと思う。何かよっぽどのことがない限り」


「そうか」


 息詰まる昨夜の戦闘を思い出し、内心にほっとした。あんなのを毎晩繰り返していたのではさすがに身がもたない。


 だがそう思う一方で、出撃は当分ないというアイネの言葉に引っかかるものがあった。それがないならないで、この舞台に立つ役者としての俺にはまた別の問題が浮上してくることになる。


「なら、どうやって過ごすんだ?」


「……何の話?」


「みんな何やってるかってこと。出撃がないとき」


「昼間は、たいていみんな寝てる」


「夜は?」


「あの部屋で女を犯してる」


「……ああ、そうか」


 嫌な質問をしたと思った。その答えがアイネの口から返ってきたことで、なおさら気分が悪い。戦地にあっては当然の慰みと言ってしまえばそれまでだが、やはりそのあたりはどうしても精神的に受け容れ難いものがある。


「アイネは――」


「ん?」


「アイネは何をして過ごしてるんだ? 夜とか」


「別に何も」


「……」


「何もしないで座ってるか寝てる。今ここでこうしてるみたいに」


「つまらないだろ、そんなの」


「つまらない?」


「そんな、ただ時間が過ぎるのを待ってるようなことしてても面白くないだろ、ってこと」


「どこが悪いの? それの」


「……」


「飢えてもいないし渇いてもいない。乱暴に犯されたりもしない。わたしにはわからない。いったいそれのどこが悪いの?」


 そう言ってアイネはこちらに顔を向けた。口にしたばかりの言葉そのままに、俺の言うことがまるでわからないという表情が、そこには浮かんでいた。


 その表情に俺は、締めつけられるような胸の苦しさを感じた。その苦しさがどこから来るものかはわかった。だがそれがわかったところで、にはその苦しさをどうすることもできない……。


 ――と、扉をノックする音がした。


「ハイジ、出て」


「……また俺の客か」


「続き聞きに来たんでしょ。いっぱい話してあげたら? わたしはもう少し眠るから。おやすみ」


 アイネはそう言うとこちらに背を向けて横たわり、毛布をかぶって本当に寝に入った。俺は小さく溜息をつき、扉の鍵を開けるために立ちあがった。


 ……アイネの口振りからすると来たのはゴライアスだろう。また向こうの話を聞きにきたということなら話すのはやぶさかではないが、文字通りそれに背を向けて無理にでも眠ろうとするアイネには、何とも言えないものがある。


「はあい」


 そんな気持ちで鍵を開けたせいで、扉の向こうから現れた顔に、俺は面食らった。


 そこに待っていたのはゴライアスではなかった。いや、正確にはゴライアスではなかった。手を振って気安い声をかけてくるリカ、ラビット、ゴライアス……それから名前を覚えていない男が二人。


 ドアノブを握ったまま反応できないでいる俺に構わず、五人の訪問客はリカを先頭にぞろぞろと部屋に入ってくる。


「よお、ハイジ先生。ありがてお話聞きにきたぜ、こいつの誘いでよ」


 裂けた唇にぎこちない笑みを浮かべ、ゴライアスの背中を叩きながらラビットが言った。それで話の流れは何となく理解できた。


 ゴライアスはちらりとこちらを見ただけで何も言わず、昨日――と言うより今朝座っていたのと同じ場所に腰をおろした。残る四人もそれに倣い、ちょうど一人分の間を空けて車座になる。そして一斉にこちらを見る。


 ……きまりが悪いものを感じて躊躇したが、結局、俺は大人しくその空いている場所に収まった。


「ところでハイジくん、あたしに謝ることあるんじゃない?」


「あ?」


「嘘ついたでしょ。昨日あたしがここに来たとき」


「……何のことだ?」


「ハイジくんが元いた場所でのこと。ラビットに聞いたよ? やっぱりそっちでも仲間だったんじゃない、あたしたち。それを昨日は誤魔化すようなこと言ったりして! このこの!」


 恨むような目でそう言いながら、リカは握りこぶしで俺の脇を突いてきた。身をよじってそれを避けながら、そういえばそんなことを言った気もする、と思った。


 ラビットはにやにやと笑いながらそんな俺たちを眺めている。残る三人は無表情で、だがやはり俺の方を見ている。


「それだけじゃなくて、あたしの相棒も一緒だったんだって?」


「相棒?」


「カラス。いい加減に覚えてよ」


「ああ……確かに一緒だったな」


「何よ、もう。それならそうと早く言ってくれればよかったのに。そしたらもっと最初からうまくいってたと思わない?」


「何が?」


「決まってるじゃない。相棒とハイジくんの関係」


「それはない。逆にもっとこじれてたかもな、わかってたら」


「どうして? 一緒だったんじゃないの?」


「一緒だったのは昔の話だ。それに、そうだったときも仲間だとは思ってなかったから。お互いに」


「なあんだ」


「あいつとはそういう巡り合わせなんだろ。どこまでいってもわかり合えない」


「つまんないの。ね、それなら――」


「ああ、前置きはそのへんにしてくれての。さきから痺れ切らしてるんだよ、こちとら」


 ラビットの横槍が入り、リカはしぶしぶといった感じで口を閉ざした。そしてまたさっきのように五人の視線が俺に集まる。


 今朝は一本だった催促するような視線が、今度は五本だ。……妙な成り行きになってきたと気圧される気持ちを覚えながら、頭の中に適当な話題を探した。

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