014 集団催眠(1)

 ――眩しさに目覚めた。


 寝ぼけ眼をこすって辺りを見まわせば、そこは新鮮な朝の光の洪水の中だった。その光の中に、昨夜はわからなかった部屋の中の様子がはっきりと見てとれた。


 何もない部屋だった。マホガニーの机とチェスト、色褪せた背表紙の並ぶ小さな本棚、使いこまれた安楽椅子と、そしてこの天蓋つきのベッドが目に入る家具のすべてだった。どの家具も古くはあるが――いや古いからこそ値打ちがあるものだということは、俺のような者の目にも何となくわかった。瀟洒な、けれども少女が一人で暮らすには広すぎる部屋。


 部屋のあるじであるその少女は、俺の傍らでかすかな寝息を立てていた。


 ベッドに突っ伏し、こちらに顔を向けたままの姿勢でペーターは眠っていた。朝日に照らされるその顔には涙の跡が残り、瞼は心なし腫れているように見えた。


「……心配してくれてたんだな、こいつ」


 思わずそう独り言ちた。その声が耳に届いたのか、ペーターはそこで小さく背中を震わせた。だがまだ起きない。


 ふと左手に目を遣った。包帯の巻かれた手に、昨夜の焼けつくような痛みはもうなかった。指を一本ずつ動かしてみる。親指、人差し指――小指まできちんと曲げることができた。握りしめて、開く。簡単にできた。……あれだけ大騒ぎしたのが嘘のようだ。これなら舞台に立つ上で支障はないだろう。


 眠気の抜けきらない頭でもう一度部屋を見まわした。


 空虚な部屋だと思った。昨日たしかにペーターは、ここが彼女の部屋だと言っていた。クマの人形とはいわないまでも、女の子の部屋ならばもっと色々とあっていいはずだ。だがここには本当に何もない。中に何も入っていない飾り箱のような部屋だった。もっとも華美に走らず、必要な物だけでシンプルにまとめているところは彼女らしい気もする。――塵ひとつない清潔な空間に、どこか危うさのようなものを感じさせるところも。


 そこでまたひとつペーターは背中を震わせ、次いで言葉にならない小さなうめきを漏らした。閉じられていた瞼がゆっくりと持ちあがっていき、ぼんやりとした瞳がこちらに向けられた。焦点を結ばないその瞳は、ちょうど彼女が役から抜けきれていないときのそれに似ていると思った。


 窓の外から小鳥たちの鳴き声が聞こえた。しばらくそうしていたペーターは、やがて薄く開かれた唇から起き抜けの声を漏らした。


「……あれ、先輩」


「おはよう」


「あ、はい。……おはようございます」


「おまえな、そんな格好で眠ってたら風邪引くだろ。舞台前だってのに、少しは考えろ」


「え? あ、大丈夫ですよ。私、滅多に風邪なんて引きませんか……ら……くしゅ」


 そう言った端からペーターはくしゃみをした。俺は溜息をついてベッドの横に置かれていたティッシュの箱を彼女に渡した。


「ほら見ろ、ここで風邪なんか引いてどうするんだ」


「いえ、これは違います。朝はいつもくしゃみが出るんですよ。お日様が眩しいですから」


「眩しいのとくしゃみに何か関係あるのか?」


「よく言うじゃないですか。お日様を眺めるとくしゃみが出る、って。そういう体質なんですよ、私」


「どこかで聞いたことがあるな」


「はい、だから心配いりません」


「そうか。それならまあいいけど」


 ペーターは小さく鼻を鳴らすと、使わないままティッシュの箱を返してよこした。そして改まった表情でじっと俺を見つめた。


「――でも不思議ですね」


「何が?」


「今日の先輩は何だかやけに優しくて変な感じです」


「……俺そんなにいつも辛くあたってるか?」


 俺は少し傷ついて言った。入団当初は辛くあたりもしたが、最近ではだいぶ普通に接していたつもりだったからペーターの台詞は心外だった。


「ええ、酷いものです。話しかけても答えてくれないし、それでも近づくと悪魔のような顔で睨みつけてくるんです」


「あのな……。ときどき邪険にすることはあるけど、いくら何でもそこまでしてないだろ」


「いいえ、先輩はずっと私にそういう酷いことをしてきました。夢の中で優しい言葉をかけてくれたのは最近ではこれが初めてです」


「……夢の中?」


「そうですよ。夢の中ですよねこれ……え? っ!」


 ペーターはそこで何を思ったのか慌てて立ちあがり、声をかける暇も与えず部屋を飛び出していった。


「……何だ? あいつ」


 わけがわからないまま、俺はベッドの上で大きく背伸びをした。手櫛で髪を整えながら起きあがり、ベッドのへりに腰をかけた。そのとき初めて、くぐもったミルクのような甘い匂いが俺の鼻をくすぐった。そこが少女の寝起きする場所だということを、改めて知った。


 十五分ほどしてペーターは戻ってきた。片側のリボンが外されたままだった髪が整えられているのを見て、何のために出ていったかは大体見当がついたが、彼女は扉の前で固まったまま、なかなかこちらへ近づいて来ようとはしなかった。


「――顔洗ってきたのか?」


 沈黙に耐えかねて俺の方で声をかけた。だが彼女からの返事はない。


「お礼がまだだったな。ありがとう、昨日はすっかり世話かけたみたいで」


「……いえ、そんなのは」


「おかげで大事にならずに済んだ。ちゃんと指も曲げられるし、痛みもない」


 俺はそう言って左手を持ちあげ、握ったり開いたり動かして見せた。そこに至ってペーターはようやく扉から離れ、こぶしひとつ分の間を空けて俺の隣に腰かけた。


「家の人は?」


「え?」


「挨拶しておきたい。一応」


「いませんよ、私しか」


「父親の方はいるって言ってただろ」


「いますけど、今この家にはいません」


「そうか……ならいいか」


 ペーターに母親がいないことは出会ったばかりの頃に聞いていた。父親が仕事に忙しく飛びまわり、ほとんど家に寄りつかないということも。もしいるようなら礼を欠くと思い尋ねたが、ペーターにとってあまり気持ちのいい質問ではなかったかも知れない。別の話題を探して、机の上に無造作に置かれた彼女の鞄が目についた。


「あの銃、見せてくれないか?」


「え? あ、はい」


 ペーターは立ちあがり、鞄の中から件の銃を取り出してまたベッドに戻ってきた。ほんの少し自分で見つめたあと、神妙な顔つきでそれを俺に差し出した。


 手にとって眺める銃は、やはりモデルガンに過ぎなかった。精巧に造られてはいる。金属でできた部分は多いし、いかがわしい連中の手にかかればひょっとして実弾を撃てるように改造できるかも知れない。だがこのままでは撃てない。


 撃鉄を起こして引き金を引く。ばしゅ、と音がして反動がくる。隣でペーターがわずかに身を竦めたのがわかった。それだけだった。それもそのはずだった。こんなしけた圧力で鉛の弾を撃ち出すことなどできるはずがない。


「どう……ですか?」


「どこも変わったところはない」


「そうなんですか?」


「ああ、これは普通のモデルガンだ。間違っても人を傷つけられるような代物じゃない」


「でも……昨日は先輩を傷つけましたよ、その銃」


「それがまあ、謎なんだけどな」


 昨夜の事件が生々しく脳裏に蘇った。銃弾に貫かれた手の激痛から、失血のために歩くこともままならなくなり、ついには気を失ったときの消え入るような感覚まで。夕陽を背に立つペーターが手にしていたのは、たしかにこの銃だった。俺の左手に穴を空け血を流させたのは間違いなくこの銃だ。「捨てますか?」という囁きが隣から聞こえた。


「え?」


「捨てた方がいいですか? それ」


 そう言って不安そうに覗きこんでくるペーターの顔に苦笑を返した。


「心変わりが激しいな。昨日はお気に入りとか言ってたくせに」


「だって……この銃のせいで先輩はあんな目に遭ったんですよ?」


「こいつに罪はないよ」


 俺は再び銃の撃鉄を起こし、窓に映る朝日に照準を定めた。ばしゅ、と音がして空気が押し出された。当然、窓は割れなかった。鼓膜を破るような爆音が部屋に響くこともなかった。


「さっきも言った通り、これはただのモデルガンだ。芝居の小道具として爺さんが見立ててくれたとっておきの、な」


「でも、それなら昨日のあれはいったいどうして」


「……おかしなことばかりだ」


「え? あ、そういえば……」


 昨日の朝の焼き直しだった。あのとき俺たちは庭園のベンチに腰かけ、その前の日に目撃した不可解な出来事について意見を交換した。そのときはまさか半日後に自分たちがその不可解な出来事を引き起こすなどとは、夢にも思わなかったが――


 ふと俺は左手を持ちあげ、まじまじとそれを見つめた。


「どうしたんですか?」


「……集団催眠」


「え?」


 そこで俺はようやく左手の異状に気づいた。分厚く巻かれた包帯の下、そこには痛みもなければ違和感もなかった。つまり異状はない。それはとりもなおさず明らかな異状なのだ。


 そのことに気づいた俺は、はやる手つきでその包帯の結び目を解きにかかった。


「な……何してるんですか! 駄目ですよ! まだそんなことしたら!」


 腕に縋って止めようとするペーターを無視して包帯を巻取っていった。


「駄目ですって! また傷口が開いたら……」


 制止の声はそこまでだった。突き出された俺の左手にペーターは言葉をなくした。


「こういうことだ」


 包帯の下から出てきた掌は俺の想像していた通りのものだった。そこには傷痕はおろかひとつなかった。


「……こんなことって。どうして」


「集団催眠」


「え?」


「あれは集団催眠だったんだ。この左手が何よりの証拠だ。……ふ、ふふふふふ……」


 腹の底から笑いがこみあげてくるのがわかった。堪えようとしても無駄だった。がらんどうの部屋に押し殺した俺の笑い声が響いた。


「いきなりどうしたんですか? しっかりしてください、先輩」


「こ、これが笑わずにいられるか。は、あははははは……」


 そこで俺はついに吹き出し、他人の家であることも忘れて大声で笑った。こんなに笑うのは初めてだというくらいに笑った。


「もう……。どういうことか説明してください」


「あ、ああ。ごめん、ごめん」


 一頻り笑い終えると、ペーターが訝しそうな目でじっとこちらを見つめていた。俺は目尻に浮いた涙を拭い、小さくひとつ咳払いをして居住まいを正した。


「……で、何が聞きたいんだ?」


「そんなの笑った理由に決まってるじゃないですか。いきなり笑い始めて、どうしたのかと思いましたよ」


「笑った理由か。その理由は簡単だ。嬉しかったからだ」


「嬉しかった……左手が何ともなかったことがですか?」


「いや、そんな安っぽいことじゃない。昨日の夜の出来事それ自体が、俺にとっては……は、はははは……」


 そこで俺はまた吹き出した。笑わずにはいられなかった。ペーターは「いい加減にしてください」と言って肘を揺すってくる。俺は逆にそんな彼女の両肩を両手でしっかりと押さえた。


「きゃ……」


「昨夜のあれは素晴らしい出来事だった」


「え……?」


「あのとき俺たちは完全に役に入りこめていた。そうでなくてあんなことが起きるはずはない。そうだろ?」


「……それはまあ」


「俺にはそのことが嬉しいんだ。昨夜のことは本当に素晴らしい体験だった。ずっと追い求めてきた俺の理想が、あのときあの場所ではっきりと形をとって実現したんだ」


 強い感動に満たされていた。黄昏の庭園で、俺はたしかに撃たれた。現実の痛みを感じて、実際に血を流した。そしてそれは充実しきった演技によりもたらされた幻だった。


 俺にとって――役者にとってこんなに素晴らしいことが他にあるとは思えない。


 観客は一人もいなかった。舞台の上でさえなかった。けれども俺が長年抱き続けてきた夢に、ひとつの明確な回答が与えられた。悩み探し求める日々の果てに、俺はとうとう『向こう側の世界』への参入を果たしたのだ。


「先輩……ちょっと痛いです」


「え? あ……ごめん」


 慌ててペーターの肩から手を離した。暴走をたしなめるように服の乱れを直す彼女の姿に、盛り上がっていた気持ちが急速に収まっていくのがわかった。一人で空回りしていたことに気づいた。俺が感じている感動をこいつはきっと理解できないんだな、と思った。


 それもそのはずだった。ペーターにそんな感動は必要ないのだ。彼女はもうずっと前から、いとも簡単に『向こう側の世界』に入ることができていたのだ。身勝手にはしゃいでいたことを恥じ、目を逸らそうとする俺の前で、けれどもペーターは嬉しそうに柔らかく微笑んで見せた。


「久し振りですね」


「え?」


「久し振りに見ました。先輩が笑ってるところ」


「……俺、そんなに笑ってなかったか?」


「はい。というか、私がヒステリカに入ってから一度も今みたいに笑ってませんよ? 先輩」


「う……。そうだったか」


 微妙に胸の痛む一言だった。そう言われてみればこいつと再会してからこの方、ほとんどまともに笑っていなかった気もする。その原因がどこにあるかといえば当のペーターにあるわけだが、そのことが彼女にどんな思いを味わわせていたかは容易に想像がつく。


「でも安心しました。とんでもないことしちゃった、と思って昨日はずっと辛かったですけど、笑ってる先輩を見て、ようやくあれが悪いことじゃなかったんだって、そう思えました」


 満面の笑みを俺に向けてペーターは言った。小さな俺の悔恨を洗い流すような、純粋で無垢な表情だった。その表情に温かいものが胸の奥にこみあげてくるのを感じた。


 迷いのないまっすぐな瞳でペーターは俺を見つめていた。その頬に涙の跡はもう残っていなかった。けれども俺にはそれが泣き笑いの表情に見えた。突然の惨劇に取り乱し、家に連れ帰って医者に見せても安心できず、朝までずっと傍にいてくれた彼女の気持ちが心に染みた。すぐそこにある小さな身体を抱き締めてやりたいと思った。


 ――良くない、と咄嗟に感じた。この状況は酷く良くない。というか、積極的にやばい。


 気持ちが顔に表れたのか、俺の心境の変化にペーターは不思議そうな表情をつくった。そのあどけない表情が俺の心を更に強く揺さぶった。このままでは本当にやばい。そうしたら負けだと心のどこかで思いながら俺は彼女から目を逸らし、何気なく壁掛け時計に目を遣った。


 そこで俺は八時半を指す時計の針を目にした。


「……! 時間!」


「……え? あ、いけない! すぐに――」


 慌ただしく立ちあがろうとするペーターの腕を引いて止めた。弾かれたようにこちらを見る彼女に頭を振った。


「……駄目だ。もう間に合わない」


「車を飛ばせば間に合います。十五分もあれば」


「……ちょうど終わる時間に着くことになるな」


「あ……そうか。駄目ですね」


 朝練は四十五分に終わるからちょうどそうなる。それに車で飛ばせば十五分とペーターは言ったが、俺の記憶に間違いがなければ彼女の家は大学からそんなに近い場所にはない。「飛ばせば」というのは、「本当に飛ばせば」ということだろう。何より二人揃ってぎりぎりの時間にしかも車で乗り入れるなんて、何があったか根ほり葉ほり聞いてくれと大声で宣言しているようなものだ。


「……それよりも電話借りられるか? キリコさんあたりに連絡入れておかないと」


「はい、扉を出てすぐのところにありますから使ってください」


「ああ、わかった――」

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