013 インビジブル・バレット(6)

「――それで、その先生ってのと俺はどのあたりが似てたんだ?」


「色々なんですけど、こう醸し出す雰囲気とか」


「へえ。何の教科の先生?」


「数学の先生です。教え方が上手で授業も面白くて、私それで数学が好きになったんです」


「いい先生だったんだな」


「はい。いい先生でした。でもそれだけじゃなくて、さっきも言ったように雰囲気のある人だったんです」


「その雰囲気っていうのは?」


「言葉では上手く説明できないんですけど、人を惹きつけるオーラを背負った人でした。ずっと憧れの人だったんです。実りませんでしたけどね、もちろん」


「……へえ。そうなのか」


◇ ◇ ◇


 出会いの春は蜜月だった。


 入部したばかりの彼女は期待の新人で、上級生を中心に人気は高く競争は熾烈と思われたが、どういうわけか俺にばかり懐き、争いは未然に避けられた。俺は俺で悪い気はしなかった。年下の可愛い女の子に好意を向けられて悪い気になる男などいない。


 彼女は純真で明るく、誰よりも練習熱心で、演技にも光るものを持っていた。そのとき俺は二年生ながら演出という責任ある立場にいて、自分から動くことはできなかったが、もし彼女の方で動くときが来れば快く応じる気持ちでいた。


 けれどもそのときは最後まで来なかった。


◇ ◇ ◇


「つまり『まだ』と、そういうことですか?」


「まだも何も、そんな予定はないよ」


「そうですか。逆玉を狙っているという噂は虚報でしたか」


「……誰がそんな噂たててるんだ?」


「僕の見立てでは部員の八割近く。ご存じなかったですか?」


「逆玉ってのは知らなかった。というか、あいつの家って金持ちなのか?」


「またそんなことを。先刻ご承知でしょうに」


「知らないよ。知ってたら聞くか。でもまあ、俺にその気はないから安心して動いていいよ。カラス君」


「え? いったい何の話ですか?」


「おまえがあいつにアプローチかけたい、って話じゃないのか?」


「僕がですか? ありえませんね」


「ああいうのは好みじゃないのか」


「いえ、容姿に関しては素晴らしい素材だと思いますよ。ただ別の理由で僕はちょっと」


「その理由ってのは?」


「あの手の女性は難しいですよ。僕にはちょっと手に余ります」


「カラスの台詞とは思えないな」


「まるで僕がみたいな言い方ですね」


「みたいも何も、そのものじゃねえか」


「……まあいいでしょう。いずれにしても僕はあの子はごめんです。そのうちあなたにもわかる日が来ますよ。そのうちね」


◇ ◇ ◇


 夏が過ぎ、秋になっても俺たちに進展はなかった。


 仲間たちと一緒にいるとき、彼女はこちらが反応に困るほど思わせぶりなことばかり口にした。どれもあくまで冗談として片づけられる類のものだったが、周りに俺たちの関係を誤解させるのには大いに役立った。聞かれるたびに否定しても噂は消えず、誰もが俺と彼女をそういう目で眺めた。


 だが彼女は俺との間に一本の線を引いて、そこからこちらへは決して踏み入ろうとしなかった。二人でいるときの彼女は従順でしおらしく、けれども決して『その一歩』を踏み出そうとはしなかった。


 俺の理解に間違いがなければ彼女は待っていた。俺の方で『その一歩』を踏み出すのを、線の向こうでじっと待っていた。そうして周囲を見渡してみれば他に道はなかった。俺には進むべき一本の道だけが残され、その道の先で彼女が穏やかな笑顔を浮かべていた。


 その絡繰りに気づいたとき、俺の中で彼女への興味は急速に失せていった。幻滅はやがて嫌悪に変わり、俺は彼女に冷たくあたるようになった。


 そして最初の『発作』が起こった。


◇ ◇ ◇


「それなら返してくれませんか?」


「は? 何をだよ」


「私の初めてですよ。返してください」


「な……」


「あれ大切なものだったんです。私にとっては。だから返してください」


「で……でたらめ言うな」


「でたらめなんて一言も」


「いいから黙れ。こんな……みんなのいるところで」


「みんな? みんなって誰ですか?」


「誰って……みんないるだろ」


「あれ、本当だ。知らない人がいっぱいいる」


「おまえ……何、言って」


「みなさん、どなたですか? どこの星から来た方たちですか?」


「……」


「今大切な話をしているところなんです。この場はどうぞお引き取りを」


「……おまえ」


「言葉が通じないのかなあ? 電波で話しかけてみましょうか。あ、返事がありましたよ。迷惑だからおまえたちが出ていけって。こんなこと言ってるけど、どうします? 先輩――」


◇ ◇ ◇


 冬になり、彼女に対する俺の心はどこまでも冷えていった。


 色恋沙汰で部員を失う愚だけは避けたかったから、俺は彼女にできるだけ今まで通り接した。仲間たちにも声をかけてフォローにまわってもらった。


 それでも彼女は何度となく発作を起こした。気狂いじみた人格を演じて場の空気を凍りつかせ、終わればいつも「何も覚えていない」と取り合わなかった。きっかけは俺に対する嫉妬という規則性が見出されてからその回数は減ったが、それが理由で俺たち二人の関係に触れることはいつしか部内の禁忌となった。


 それで事態は収束したかに見えた。たしかに表面上はした。だがそのことで俺はいよいよ絡繰りから抜け出せなくなった。当然、恋人などできるはずもなかった。


◇ ◇ ◇


「……ごめん。あなたのこと嫌いじゃないけど」


「そうか。……まあ、そう言われると思ったけどな」


「それとさ、一つ聞いていい?」


「……何だよ。振っといて今さら」


「あたしのどこ好きになってくれたの?」


「え? それは……話してると楽しいし」


「防波堤にしたいんでしょ? あたしを」


「な! 違う、それだけじゃない」


「ほら、それもあるんじゃない」


「う……」


「助けてあげたい気持ちはあるけどね。……きっとあたしじゃ役不足。間違った方の意味で」


「そうか……ごめん。ああ、振られた振られた、と」


「……どっちが」


「え? 何か言ったか?」


「何でもないよ」


◇ ◇ ◇


 季節はまわり三度目の春。ようやく俺は彼女から解放された。卒業に際して身構えていたほどの波乱はなく、彼女とは短い別れの言葉を交わしただけだった。


 大学入学を期に祖父の忘れ形見である小屋で独り暮らしを始め、高校に顔を出すことはほとんどなくなった。月に一通は彼女から手紙が来たが、読まずにそのまま机の引き出しにしまっておいた。


 それから一年が過ぎ、高校の頃のことは思い出になった。彼女との苦々しい記憶さえしんみりと懐かしく思い出すようになった。三月になって俺は初めて手紙の封を切り、そこで彼女が俺の通う大学に合格し、入学を決めたという報告を目にすることになる。


◇ ◇ ◇


「ハイジさんですか」


「……ああ、そうだ」


「私もそう呼んだ方がいいですか?」


「好きにすればいい」


「ひょっとして、先輩は嫌いなんですか? ハイジって名前」


「好きなわけあるか。ほっぺの赤い女の子の名前だろうが」


「いいじゃないですか、可愛くて。私は好きですよ、ハイジって名前」


「ならおまえはペーター」


「……え?」


「おまえは今日からペーター。たった今そう決めた」


「でも、ペーターって男の子の名前ですよね? 山羊飼いの」


「そうだ。反論は受けつけない。今日からおまえはペーター。俺はこれから生涯おまえをペーターとしか呼ばない――」


◇ ◇ ◇


 それでも彼女は俺とお揃いだと言って喜んだ。一方で、それから一度も俺のことをハイジという名前で呼んでいない。嫌いな名前で呼ぶわけにはいかないと、いつか彼女は言った。その言葉を聞いたあたりから、俺には彼女のことが心の底からよくわからなくなった。


 俺と彼女の関係はもうずっと昔に壊れている。壊れていながら、今もこうして続いている。続いてはいても、どこへも辿り着かない。けれども――もうそれでいいと思うようになった。


 男にとって女は誰しも理解不能な生き物だが、彼女という女は俺にとって特によく理解できない。彼女が何を求めて今なお俺の傍にいるのかわからない。ともすれば彼女自身にもわからないのだろう。


 その答えが明らかになったとき俺たちの関係は終わり、あるいはそこから新しい関係が始まる。その答えがどういうものであるかわからない。ただ一つだけたしかなのは、その答えがお定まりのハッピーエンドでないということだけで、その答えを知ることを俺はずっと心のどこかで恐れている――


◇ ◇ ◇


 ――暗い部屋に目を覚ました。レースのカーテンがかけられた窓からは薄い月明かりが射しこんでいた。横たわるベッドの上には円い天井のようなものが見えた。しばらく眺めていて、それが天蓋と呼ばれるものであることに気づいた。……天蓋?


「……先輩」


 耳元でかすかな声がした。顔を向けるとペーターがいた。彼女はベッドの横で椅子に腰かけ、夜目にもはっきりそうわかる泣き腫らした目で俺を見つめていた。


「ここ……は?」


「……私の部屋です。結局、車を呼びました」


「そうか……」


 そこで俺は左手の痛みが消えていることに気づいた。布団から抜いて月明かりにかざしてみる。そこにはきちんと包帯が巻かれていた。そして痛みばかりか感覚そのものがなかった。


「お医者さんに来て治療してもらいました」


「な……!」


「心配しないでください。家のかかりつけです。念のために口止めも、ちゃんとしておきました」


「……そうか」


「麻酔を射ってあるから、朝までは感覚が戻らないでしょう、と言ってました」


「……なるほどな。これは、それでか」


 そう言って起きあがろうとする俺の肩を、ペーターの細い手が押さえた。


「朝まで休んでいってください。……お願いですから」


「いや……でもな」


「お願いします。お願い……」


 ペーターの目に涙が浮かび、一滴、二滴と頬を伝い落ちていった。俺はそこで起きあがるのを諦め、瀟洒な天蓋の下にまた瞼を降ろした。


 麻酔のためだろうか、俺はまたすぐに眠りに落ちていった。その際にペーターが何かを囁いた気がした。けれども、彼女が何を言ったのかわからなかった。

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