012 インビジブル・バレット(5)

 夕映えの空を背に一人、ペーターは愚者の演技をしていた。


 顔から首筋にかけて流れる滝のような汗が、そうして演技を続けている時間の長さを物語っていた。……彼女らしいと思った。こいつは昔から、俺の知る誰よりも練習熱心で、気がつけばいつもどこかで一人稽古をしている、そんな役者だった。


「お願いします! 行かないでくさだい。どうか僕のもとへ戻ってきてください。あんなに聞かせてくれた優しい言葉は、ぜんぶ嘘だったというんですか? 僕はあなたに身も心も差し出したじゃありませんか。それなのにあなたは僕のことを、使い古した靴下のように、無造作に捨てるというんですか?」


 俺が庭園に入り、明らかに視界に入る場所まで近寄ってもペーターは演技を止めない。その目は俺の姿を認めない。なぜなら彼女は、俺の眺めるそれとは別の風景を見ている。誇張でも何でもなく、ペーターはたった今『向こう側の世界』にいる。


 ――彼女にはそれができるのだ。五年前、俺と会ったばかりの頃から、彼女にはそれができた。演技に入ると彼女の目には何も入らなくなった。まるで役にとり憑かれたように彼女は真に迫る演技をした。ある人はそれを思いこみと呼んだ。別の人は欺瞞とさえ呼んだ。けれどもそんな彼女の演技に俺はいつも羨望と、かすかな嫉妬を感じていた。


「それなら……それならあなたはすべて僕の勘違いだったと、そう言うんですか? ……妄想? 妄想とは何ですか? はっきりと手にとって確かめられないもののことですか? それなら僕はこうして確かめられる! あなたがここにいることを、はっきりと確かめられる!」


 俺は――見とれていた。群青の裾野に消え入ろうとする赤い輝きの中、ただ一人ひたむきに演技を続ける役者の姿に、ただ見とれていた。


 綺麗だ、と純粋に思った。このままずっと見つめていたいという気持ちに流されそうになった。


 ……だが俺はその欲求に流されまいとした。流されてはならないと思った。心の奥底からこみ上げてくる衝動があった。その衝動に突き動かされるままに、俺は自分の額を思い切り指で弾いた。


「――君は夢の中にいるのだ。君自身が築きあげた、君のための夢の王国の中に」


 そこで愚者は初めて俺を見る。赤々と輝くその眼差しに、はっきりと俺の姿を認める。


「……王国? 王国とはなんですか? どうしてこの僕にそんな大層なものが作れるというんですか? 見てください、このなりを。どこへ出ても恥ずかしくない一張羅のはずが、埃まみれでほつれのないところを探す方が難しい。こんななりをした王族がどこにいるというんですか? その王国というのは、いったいどこにあるんですか?」


 不安を湛えた瞳で自嘲気味に愚者は笑う。そんな彼女のことを、俺は哀しい目で見つめる。


「その王国は君の心の中にある。長い年月をかけ、君はその王国を築きあげた。誰も君を傷つけることなく、何もが君の思い通りになる。君はその国の国王で、その国のたった一人の国民だ。そうした立派な王国を心の中に抱える人間を、俺は何人も見てきた」


 愚者の表情に喜色が走る。一途に俺を見つめる双眸がその輝きを増す。


「それなら! ああ、それならあなたもその国に来てください! 精一杯のおもてなしをします。あなたの望みは何でも叶えます。ええ、叶えますとも! 僕にはそれができるんです。そうでしょう? なぜならその国は僕のための王国で、僕の望みは何でも叶うんですから」


 縋りつく彼女の腕を払い除ける。そして小さく首を横に振る。愚者はどうして、という表情で俺をじっと見つめる。


「……さっきも言っただろう。その国は君のための王国で、住めるのはただ一人、君だけだ。孤独の中で君はその王国を築きあげた。誰にも知られず、誰にも邪魔されず。その国には君しか入れない。君の他には誰も入れないんだ」


 愚者はああ、と叫び声をあげる。絶望の表情がはっきりとその顔に表れる。


「……拒まないでください、拒まないでください。あなたに拒まれたら、僕はもうどうしていいかわからない。王国なんて滅びていい。思い通りにならなくてもいい。ただあなたがいればそれでいいんです。僕にはもうあなたしか見えないんです」


 狂ったように縋りついてくる愚者の両肩にそっと手を置く。彼女はびくっ、と一瞬震えたあと、その動きを止める。


「……君を助けるには一つの命が必要だ。辛いときも苦しいときも、いつも君の傍にいて励まし合い、笑い合える……そんな一つの命が必要だ。残念ながら、俺はその一つの命にはなれない。この町にはまだ多く君のような人間がいて、俺はそのすべてを少しずつ助けなければならない。そのすべてのための命にならねばならない。……それが俺の役目だ。さようなら、お嬢さん。どこかでまた会うことも、きっとあるだろう」


 腕を解いた俺を、愚者は呆然と見つめる。踵を返して俺はその場を立ち去ろうとする。行かせない! という叫びが背中にぶつかる。俺はゆっくりと振り返る。


「行かせない! どこにも行かせない! せっかくまた巡り会えたのに、もうあなたをどこにも行かせない! どんなことをしても。どんな手を使っても! そうだ……そうだいいことを思いついた。あなたが来てくれないというのなら、そうだ! 僕があなたを連れていけばいいんだ」


 愚者はおもむろに懐から黒く光るものを取り出す。撃鉄を引き起こし、銃口を真っ直ぐこちらに向ける。躊躇いのない指が引き金にかかる。撃たれる――


 ――ぱぁん、と乾いた音が響いた。


「……え」


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。大きく前に突き出された左手の中央から、びゅっ、びゅっ、と赤いものが噴き出ていた。灼けるような痛みが徐々にその左手に宿っていくのを感じ――そこで我に返った。俺は撃たれたのだ。


 覚って冷静になった。狙撃者を確認するために頭をあげた。その狙撃者は呆然とした表情で、銃口を自分の胸に向け引き金を引こうとしていた。


「止めろ!」


 びくっ、と震えて彼女は動きを止めた。


「止めろ! 撃つな!」


 叫びながら俺はペーターに駆け寄り、彫像のように動きを止めた彼女の手から拳銃を奪い取った。そのあと右手で左手首を押さえ、その場にうずくまった。


「ぐっ……」


 左手は既に一面が赤黒く染まっていた。手首を押さえてもなお、傷口からは脈動に合わせ血が噴き出していた。動脈が破れている。そのことに気づいた俺は、左手を肩の高さまで持ちあげた。それで血の勢いは弱まった。


「……あれ、先輩」


 頭上でかかる声を無視して、俺は少しだけ左手に力を入れてみた。稲妻のような激しい苦痛に思わず顔を歪めたが、どの指も普通に動いているのを確認して、心の中で安堵の溜息をついた。少なくとも腱は切れていない。骨に損傷があれば厄介だが、そうでなければ傷痕が残るだけで済む……。


「先輩……? 先輩!? どうしたんですか!」


「……あまり大きな声、出すな」


 ようやく戻ってきたペーターは俺の前に屈みこみ、左手の惨状を目の当たりにして息を呑んだ。


「どうして……こんな。これ……ひょっとして……私の」


 ペーターは震えながらそれでも立ち上がり、どこかへ駆けて行こうとする。


「……待て! どこへ行くつもりだ」


「救急車を呼ばないと」


「駄目だ。……救急車は呼ぶな」


「だって! そんなに血が出てるのに!」


「……絶対に呼ぶな。いいからここにいろ」


「でも……どうして」


 ――救急車は絶対に呼んではならない。咄嗟にそう口にした理由を考え、少しも考えないうちにその理由に思いあたった。


「銃創ってのは、医者が見ればすぐにそれとわかる。……警察にも連絡が行く。今そんなことになったら……どうなるかわかるだろ?」


「……はい。わかりました」


 すべて説明する必要はなかった。昼にアイネと話したリカの件と同じだ。ここで俺が病院に運ばれ、左手を医者に見せたら、その時点で日曜の舞台は絶望的なものになる。俺の身柄は警察に移され、そこで厳しい尋問を受けるだろう。どこでどのようにして誰に撃たれたのか。凶器はどこにあるのか。……説明できるわけがない。なぜならその凶器というのは――


「……!」


 ペーターから取りあげた拳銃は俺の傍らに石畳の上、消え入ろうとする夕陽を受け輝いていた。……それはたしかに朝手にとって眺めた銃だった。馴染みの模型屋で譲り受けた古いモデルガン――あんな大きな音で鳴るわけはない。ましてや掌を貫く弾丸を撃ち出すことなどできるはずがない。


「これ……しまっておけ」


「え? でも……これは」


「あとでじっくり見るから。……ぐっ」


「先輩!? 大丈夫ですか!」


 血はまだ止まっていない。失血のためか右手に力が入らなくなってきている。何か手首を縛るようなものがあれば……。


「……リボン」


「え?」


「リボンを外して……それで俺の手首を縛って」


「手首を縛る……両手を揃えてですか?」


「ばか。そんなわけあるか……」


 惚けたペーターの言葉につい笑ってしまった。だが笑うたびに傷口がずきずきと痛み、長くは続かなかった。


「先輩! 大丈夫ですか!」


 ペーターは外したリボンを手に、泣きそうな顔で俺を見つめていた。その身体は小刻みに震え、今にも崩れ落ちそうだった。


「……ああ、ごめん。そのリボンで、この左手の手首を縛ってくれ」


「は……はい。――こうですか?」


「もっときつく……縛って」


「わかりました。えい……」


「……そのくらいでいい。ありがとう」


 左手の状態をたしかめて俺は立ち上がった。だが二、三歩でよろけて、そこにあったベンチに座りこんでしまった。


「先輩! 歩いたら駄目です!」


「ああ……うん。思ったより辛いな……」


「当たり前です。あんなに血が出たんですから。待ってて下さい。迎えを呼びますから」


「いや……大丈夫。少し休めば治るから」


「そんなわけない。家の迎えなら誰にも――」


「いいから。それよりおまえも座れって」


 ペーターはまだ何か言いたげだったが、それでも俺の言いつけに従った。気づけばそこは朝に二人で座っていたベンチだった。しばらくの静寂があって、やがて隣から小さな啜り泣きが聞こえ始めた。


「……ごめんなさい。先輩……ごめんなさい」


「……謝ることなんて、ない」


 俺は右手をペーターの頭に載せ、片方のリボンが外れた髪をくしゃくしゃと掻き回した。


「……ごめんなさい。本当に……ごめんなさい」


「何が起こったのか……まだよくわからないけど、一つだけ、おまえにお礼を言っておく……」


「……え?」


「今日の……今さっきの演技は、凄く楽しかった。……短かったけど、今までで一番……役に入りこめた。だから最後のあれは、もう気にするな……」


「……先輩」


 慰めのためにかけた言葉ではなかった。俺の本心だった。左手の苦痛は続いていたけれど、今しがた終えたばかりの演技の充実感がそれを忘れさせてくれた。


 あのとき俺はたしかに『向こう側の世界』にいた。少しの疑念もなく、完全に入ることができていた。隣に座るこいつと同じように――多分、こいつのお陰で。


 夕陽は既に地平に横たわる一本の赤い帯になっていた。夜の帳が町を覆い尽くしていくのをぼんやりと眺めた。耳元で誰かの声が聞こえた気がした。誰の声かわからないまま、俺は生まれて初めて意識を失った――

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