011 インビジブル・バレット(4)

 それから俺たちは小屋に戻り、舞台の上に食器を並べて遅めの昼食をとった。


 茄子とミートソースのペンネは俺が腕を振るい、サラダは冷蔵庫にあった野菜でアイネが適当に作った。レモンを浮かべたペリエを添えてちょっとした食事になり、舞台で食べるには少し具合が悪いのだが、どういうわけか二人でいるときアイネは決して上へ登ろうとしない。いつだったか理由を尋ねたとき「犯されたくないから」と返され、それ以来その話題はタブーになっている。俺がアイネを犯すはずもないのだから、きっと何かわけがあるのだろうが、彼女の機嫌を損ねてまで聞き出そうとは思わない。


「いい銃が見つかったみたいね」


「ん? ああ。ペーターのあれか」


 アイネは壁際に膝を抱えて座っている。食事はもうとり終えたらしく、空いた食器が傍らに重ねられてある。


「凄く喜んでたよ、あの子。わざわざ持ってきたみたいで、朝練の休みに見せてくれて」


「掘り出し物を譲ってもらえたんだよ。無料ただで」


無料ただ?」


「ああ、俺の馴染みの店なんだけどな。古い物だからもう売れないし、遊びじゃなく芝居に使うのなら、って」


「それは喜ぶはずだ、あの子も」


「ん? どういうことだ?」


 だがアイネは俺の問いかけには応えず、わずかに身じろぎをしただけだった。


「まあいずれにしてもいいのが見つかって良かった。……あいつの口からモデルガンって聞いたとき、一瞬どうしようかと思ったけどな」


「何か問題でもあった?」


「覚えてるだろ。俺がアイネにグロック譲ったときのこと」


「……ああ、あのこと」


 ――まだペーターがヒステリカに入ったばかりの頃、アイネと三人でいるときに彼女は『発作』を起こした。


 原因は俺がアイネに愛銃を譲ると言ったことだった。ペーターはそれなら自分もほしいと聞かない子のようなことを言い始め、事情を知らないアイネがやんわりとそれを咎めたことで彼女は決壊した。放心の表情であらぬことを口走り、ついには泣き崩れて俺があやしにあやすまでその場を動こうとしなかった。


 俺にしてみれば見慣れた情景であり、まだこんな恥晒しな病気を克服できていなかったのか、と呆れただけだったが、アイネは青い顔をしてかすかに震えているようにさえ見えた。


 三人での帰り道だったのは不幸中の幸いというべきだろう。そのあと、あまり誉められたことではないと思いながらも、キリコさんを交えてアイネと三人で対策を講じた。キリコさんは初めのうち困惑を隠さなかったが、アイネの口からそのときの様子が生々しく語られたこともあり、協力を確約してくれた。その甲斐もあってか、以来ペーターは一度も『発作』を起こしていない。


「……正直、助かってるよ」


「……何が?」


 気のないアイネの声が斜め後ろから聞こえた。俺はそちらを見ずに、ペンネの残りを口に運びながら話を続けた。


「あいつのことで協力してもらえて、凄く助かってる。礼がまだだったけど、一昨日もアイネに助けられたしな。あいつがヒステリカでうまくやっていけるのは、ひとえにアイネたちの協力のお陰だ」


「……妹のことみたい」


「え? ああ……妹か」


 ――そうかも知れない。今まで考えたこともなかったが、たしかに俺はペーターを妹のような存在として眺めているのかも知れない。どこかで鬱陶しく感じながらも、一緒にいることを自然と受けとめているし、大切に思う気持ちがないと言えば嘘になる。俺には血の繋がった妹はいないから聞いた話で判断するしかないが、そうした微妙な愛憎が入り交じる気持ちというのは、兄が妹に対して抱くそれと似たところがあるように思う。


「……そんなところかも知れないな。あいつは妹だ。少しばかり世話の焼ける妹」


「……それでいいの?」


「いいも何も、そういうものだってだけだ。別にこっちだって好きで兄を演じているわけじゃない。……だいたい何だってまたそんなことを聞いてくるんだ。ひょっとして朝のあれを引っ張ってるのか? いいか、あれはだな――」


 次の言葉を考えながら振り返った俺の目に、抱えた膝に頭をのせ穏やかに肩を上下させるアイネの姿が映った。窮屈な姿勢で顔をこちらに向けたまま、いつの間にか彼女は静かな眠りの中にあった。


「……なんだよ、風邪引くだろ」


 溜息をついて俺は立ち上がり、揺り起こそうとアイネの肩に手を伸ばした。その肩に触れるか触れないかのところで――俺はそうするのを躊躇った。


 薄く開かれたアイネの唇から安らかな寝息が漏れていた。普段は見られない、無防備であどけない寝顔がすぐ目の前にあった。


 その顔を眺めながら、ひょっとしてアイネは昨夜ほとんど眠れなかったのではないか、と思った。要領を得ない俺との会話を終えたあと、何度もリカに電話をかけたと彼女は言っていた。だがリカは一度も電話に出なかった、とも。……ちょうど今と同じように膝を抱えて、一睡もせずに朝を迎えたアイネの姿が、ありありと脳裏に浮かんだ。そのときの彼女の痛みに、少しだけ触れたような気がした。


 俺はアイネの肩を揺さぶる代わりに、その傍らに置かれていた空の食器を台所に運び、上から毛布をもってきてそっと彼女の身体にかけた。そしてそのままアイネの隣に腰かけ、壁に背もたれた。


 話し声の絶えたホールに、彼方から蝉の声が浸みこんできた。羽化を早まった蝉の虚ろな鳴き声。そのかすかな声に、階上で時を刻む柱時計の音が重なり、やがて隣で規則正しく奏でられる寝息にその二つの音は溶けた。


 そうしてホールは、限りなく静寂に近い奏楽に満たされた。それは心地良い旋律だった。その旋律をもっとよく楽しみたくて、俺は隣に眠る女と同じように瞼を降ろした。静かな奏楽に身を委ねながら俺は――俺もまた昨日はほとんど眠っていないことを今さらながら思い出した。だが、遅かった。旋律に誘われるまま、俺は束の間の午睡の淵へ、為す術もなく呑みこまれていった――


◇ ◇ ◇


「う……」


 眠りから覚めて最初に見たのは、燃え立つ炎のような赤だった。ゆっくりと覚醒していく意識の中で、その赤が開け放たれた扉から射しこむ夕陽のそれであることに気づいた。立ち上がろうと腰を浮かしかけたところで、はらりと床に落ちるものがあった。――俺がアイネの身体にかけた毛布だった。


 ふと隣に目を遣った。だがそこには誰もいなかった。俺はそこで初めて、閉じられていたはずの扉が開け放たれている理由に思いあたった。


「……なんだよ。買い物にでも出たのか」


 今度こそ起きあがろうとして、左手に何か紙のようなものが触れた。見れば小さなメモ用紙と、重しのために置かれたものか一本の缶コーヒーがそこにあった。メモ用紙にはアイネの字で一言『ありがとう』と書かれていた。缶コーヒーはまだ冷たかった。


「……一人で隊長のところ行った、ってことなのかな」


 俺は寝乱れた頭をかきながら立ち上がり、缶コーヒーの封を開けた。起き抜けの身体に冷たいコーヒーが浸み渡っていった。そのまま俺は夕陽の町に出た。


 どこからか豆腐屋の笛の音が聞こえた。


 蝉はもう鳴いていなかった。寝て起きたばかりのせいか、暮れなずむ赤い太陽に照らされた町が、妙に妖しく幻想的なものに映った。見慣れたはずの町が見せる、今まで見たこともない景色――それはあの場所の風景に似ている。そう俺は思った。


 妖しい気持ちをそのままに、俺は足を大学へ向けた。アイネがなぜ一人で隊長のもとに向かったのかわからなかったが、どの道オブサーバーとして相談に参加しようと思ってはいた。アイネは精神的に疲れていたようだから、こういうときこそ同期として助けるべきだろう。そんな思いを胸にたどりついた交流会館は――既に施錠されていた。


 どういうことだろう、と俺は思った。時計は午後六時になるところで、まだ閉館までは三時間近くあるはずだった。だがいつもこの時間は賑わっている談話室も含め、会館からは一切の灯りが落ち、周りにたむろする学生の姿も見当たらなかった。当然、隊長もアイネもそこにはいなかった。


 俺は仕方なく小屋へ帰ろうと踵を返した。そこで不意にペーターのことを思い出した。


『午後良かったらここに来てくれませんか? 演技を見てほしいんです』


 朝にあいつはそう言っていた。まさかとは思うが、ペーターならそのまさかも考えられる。そう思い『庭園』に向かってみることにした。


 ――予想は違わず、そこにペーターはいた。

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